ジーコが「日本人のようだ」と評した「黄金の中盤」の元鹿島監督

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2021年05月10日 11:01  webスポルティーバ

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第15回トニーニョ・セレーゾ(前編)

 トニーニョ・セレーゾは、Jリーグに所属したブラジル人選手や監督のなかでも、現役時代の活躍レベルが最も高い部類に入るだろう。

 世界チャンピオンにはなっていない。しかし、まぎれもなく「O Patrao(支配者)」であり、ブラジルサッカー界の英雄だ。ファルカン、ジーコ、ソクラテスとともに、ブラジルサッカーの歴史のなかで、最も愛された中盤のひとりだった。

「Bigoda(ひげ)」のニックネームで親しまれている彼のサッカー人生は、2時間の映画を作っても語りつくせないだろう。トニーニョ・セレーゾはテクニックと闘志と、一歩先を読める才能を持った選手だった。ブラジルとイタリアとイングランドのスタイルを併せ持った選手とでも言おうか。

 クラブでも代表でも、どこでプレーしてもチームのリーダー格だった。ディフェンスラインの前に立つディフェンシブハーフだったが、敵味方すべての不意を突いてゴールも決めることができた。それも多くは重要な、ゲームを左右するゴールだった。彼のような選手がチームにいることはすべてのサッカー監督の夢だろう。

 彼がボールを失うのをほとんど見たことがない。その足元からボールを奪うのはほぼ不可能に近かった。ブラジルサッカーの歴史の中でも、最もボールを失う回数が少なかった選手ではないかと思う。また彼は相手のプレッシャーにも決してひるむことはなかった。それらはすべて彼のある資質から来ている。

 その資質とは冷静さである。トヨタカップ(現在のクラブワールドカップ)だろうが、全国リーグの重要な試合だろうが、チャンピオンズカップ(現在のチャンピオンズリーグ)の決勝だろうが、彼は常に落ち着きを払っていた。




 やはりブラジルのレジェンドで、彼のチームメイトでもあったソクラテスは、かつてトニーニョ・セレーゾのことをこう評していた。

「この試合には何が何でも勝たなくてはいけない、最高の闘志をもってぶつからなければならない。そんなアドレナリンが噴き出すような時でさえ、セレーゾはとても冷静で、まるで彼の周りだけ次元が違うようだった。そんな彼にめちゃくちゃ腹が立つときもあったが、その冷静さは常に正しいものだった。彼は正しい判断をし、チームの勝利に貢献したのだからね」

「彼の冷静さはまるで日本人のようだ」と、ジーコも彼についてそう言っていた。

 トニーニョ・セレーゾは18歳の時にはアトレティコ・ミネイロでデビューした。しかし選手になる前の幼少期の生活はかなり厳しいものだった。

 彼の父親がサーカスのピエロだったことを知る人間は数少ない。父アントニオ・セレーゾは1950年代に「モレーザ(ポルトガル語でソフト。なまけものの意味もある)」という芸名で、とあるサーカスのピエロをしていた。だが、なかなか売れず、家は貧しかった。

 トニーニョ・セレーゾの本名は父にちなんで、アントニオ・カルロス・セレーゾ、小さなアントニオなので、トニーニョと呼ばれた。彼もまた8歳の時に、父と一緒にピエロとしてデビューをする。芸名は「ドゥレザ(ハード)」。弱い父に強い息子というキャラの親子ピエロだった。

 しかしコンビを組んだ少し後に父は亡くなってしまい、貧しかった家は、より貧しくなった。セレーゾの母ヘレナは、ハンガリー生まれのブラジル育ちで、彼女もまたサーカスで働いていていた。セレーゾは12歳までサーカスでピエロを続けたが、その後、「サッカーがサーカスでの人生を奪ってしまった」とセレーゾは後に笑いながら語っている。

 1974年、トニーニョ・セレーゾはアマゾンのど真ん中、マナウスのナシオナルに1年間レンタルされた。マナウスは州リーグの中でも一番弱い地域といわれているが、最もフィジカルでハードなサッカーをするリーグでもある。

「ここでどのようにボールを守るかを私は学んだ」

 トニーニョ・セレーゾは当時を振り返りそう述べている。実際、翌年レンタルから戻って来た彼は、すぐにアトレティコ・ミネイロの中心選手となった。いや、クラブチームだけではない。クラブでレギュラーになって1年目という記録的なスピードで、ブラジル代表にも招集されるようになった。

 代表としては二度のW杯でプレーし、そのどちらも優勝まであと一歩のところまで行った。

 1978年のアルゼンチン大会。トニーニョ・セレーゾはまだ若かったが、すでにレギュラーだった。この大会はペレが代表を退いてから初のW杯であり、ブラジル代表は生まれ変わる必要があった。結果的には当時、軍事独裁政権下にあったアルゼンチンが疑問の残る形で優勝したが、ブラジルは1試合も落とさずに大会を終えた。トニーニョ・セレーゾの貢献も大きかった。

 1982年のスペイン大会についてはここであらためて語ることもないだろう。トニーニョ・セレーゾはジーコ、ソクラテス、ファルカンとともに、サッカー史に残る黄金の中盤を作り上げた。

 このW杯の翌年の1983年から、トニーニョ・セレーゾは国際的なキャリアを築くようになる。

 黄金の中盤のひとりファルカンは、その数年前からローマでプレーしていた。ファルカンはトニーニョ・セレーゾを獲得するよう、当時のローマの監督ニルス・リードホルムに進言した。ローマはこの前年に41年ぶりのリーグ優勝を果たしており、翌シーズン、チャンピオンズカップを戦うための選手が必要だったのだ。

 ローマはトニーニョ・セレーゾを500万ドル(当時のレートで約12億円)近くで獲得した。イタリアのチームがファルカンやジーコを獲得したのとほぼ同額である。ただし、トニーニョ・セレーゾは彼らと違いゴールに直結する選手ではない。その点ではこの金額は、当時としては破格であった。ブラジルのディフェンシブな選手にヨーロッパのチームがこれほどの金額を払ったことはかつてなかった。

 アトレティコ・ミネイロで7度州リーグ優勝を果たしていたトニーニョ・セレーゾだが、今度彼が挑むのは当時世界最高峰のセリエAである。しかしここでも、他の選手を苛立たせるほどの彼の冷静さは変わらなかった。

 実は、トニーニョ・セレーゾのローマ移籍は紙一重で立ち消えになる可能性もあった。1983年の夏、イタリアサッカー協会は、外国人選手の獲得を一時停止しようとしたことがあった。イタリアのメディアが、「あまりにも外国人選手が多すぎる」と非難したからだ。この時、ローマはトニーニョ・セレーゾ、ウディネーゼはジーコと交渉中だった。しかしそれでも移籍が成立したのは、当時のイタリアの大統領サンドロ・ペルティーニの発言による。

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「ジーコとセレーゾがイタリアでプレーするのを私は見てみたい」

 大統領のこの言葉でトニーニョ・セレーゾの移籍は認められ、彼はローマの選手となった。ローマの中盤はファルカンのほかにカルロ・アンチェロッティ(現エバートン監督)もおり、ゲームメーカーはブルーノ・コンティだった。

 トニーニョ・セレーゾはその正確な守備と攻撃への貢献で、すぐにロマニスタに愛されるようになった。しかしイタリアメディアは当初「セレーゾはイタリアでプレーするには鈍すぎる」と酷評した。これに対して、トニーニョ・セレーゾは2つのやり方で応えた。

 ひとつは言葉で。

「私が鈍いのは、頭で考え、不必要な時にはゆっくり走っているからだ。ただやみくもに走っていても意味がない」

 そしてもうひとつは行動で。彼は移籍してすぐの1984年に、チームにコッパ・イタリアをもたらした。また同じく1984年には、ローマがかつて到達したこともないチャンピオンズカップの決勝にまでチームを導いた。ローマはリバプールにPKで敗れたが、トニーニョ・セレーゾは決勝のベストプレーヤーのひとりと言われた。

 1986年、ローマに新たにスヴェン・ゴラン・エリクソン監督が就任すると、トニーニョ・セレーゾの永遠の都での時代は終わりを迎えることになる。エリクソンはトニーニョ・セレーゾをあまり高く評価しておらず、シーズン後の放出はほぼ確実だった。

 ローマでの最後の試合となるコッパ・イタリア決勝。ローマはサンプドリア相手にファーストレグは2−1で負けていた。セカンドレグでは1点を決めたものの、その後は攻めあぐねていた。しかし90分にセレーゾがピッチに入ると、彼はすぐに追加点を決め、ローマに3度目のタイトルをもたらした。タイムアップの笛が鳴ると、トニーニョ・セレーゾはサポーターに向かって走って勝利を祝い、別れを告げた。まさに有終の美である。

 ローマがトニーニョ・セレーゾを放出したのは、チームの歴史の中でも最悪の選択のひとつだったと言われている。

 ミラン、インテル、サンプドリアが彼の獲得に名乗りを上げた。なかでも当時のサンプドリアのマントヴァーニ会長は、「トニーニョ・セレーゾに恋をしている」と言われるほど、彼にぞっこんだった。自分を高く評価してくれる気持ちが、トニーニョ・セレーゾをサンプドリアに行かせたと言われている。

 この選択は正しかった。なぜならサンプドリアはトニーニョ・セレーゾとその仲間たちのもと、チーム史上最高の黄金期を迎えたからである。現在に至るまでサンプドリがこれほど輝いた時代はない。

 ともにプレーした選手たちもそうそうたるメンバーだった。現イタリア代表監督のロベルト・マンチーニとジャンルカ・ヴィアリが攻撃のタッグを組み、GKはジャンルカ・パリューカ。そして彼らを率いるのが、サンプに来る前はレアル・マドリードの監督だったヴヤディン・ボスコフだ。

 サンプドリアでの1年目(1986−87)から、トニーニョ・セレーゾは不動のレギュラーだった。翌シーズンにはコッパ・イタリアを制し、トニーニョ・セレーゾは当時ナポリのディエゴ・マラドーナらとともにシーズンのベスト11に選ばれた。

 そして1988−89、サンプドリアはついにブレイクを果たす。カップ・ウィナーズカップ(現在のヨーロッパリーグの前身で、各国のカップ戦勝者による大会)に出場したチームは、史上初めてヨーロッパの大会で決勝にまで駒を進めたのだ。決勝の相手はヨハン・クライフが率いるバルセロナ。試合は2−0でバルセロナが勝利したが、試合後はバルササポーターまでがサンプドリアに拍手を送った。それほどの健闘を見せたのだ。またサンプはこの年二度目のコッパ・イタリアを手に入れている。

 1989−90にもカップ・ウィナーズカップ決勝まで勝ち進んだサンプは、ベルギーのアンデルレヒトを相手についに勝利を手に入れる。ヴィアリが試合終了間際に2ゴールを決めての勝利だった。こうしてサンプはついにヨーロッパのタイトルを手に入れた。

 そして1990−91、サンプドリアは史上初めてセリエAで優勝を果たす。スクデットを勝ち取ったのは、後にも先にもこの1度きりである。

 その翌年、チャンピオンズカップに出場したサンプドリアは決勝に進出。相手はまたしてもバルセロナだった。0−0のまま試合は延長に突入するが、その後半、ロナルド・クーマンにPKを決められて、またしても涙を呑んだ。

 そしてこれがサンプドリアの黄金時代の終焉となった。ボスコフはローマの監督となり、ヴィアリはユベントスに行き、トニーニョ・セレーゾはブラジルに戻ってサンパウロに移籍した。チームの屋台骨が瓦解してしまった。
(つづく)

トニーニョ・セレーゾ
本名アントニオ・カルロス・セレーゾ。1955年4月21日生まれ。1972年、アトレティコ・ミネイロでプロデビュー。その後、ローマ、サンプドリア、サンパウロなどでプレー。ブラジル代表として1978年、1982年のW杯に出場。ジーコ、ファルカン、ソクラテスとともに「黄金の中盤を」を形成した。1996年に現役を引退すると指導者の道へ。2000〜05年と2013〜15年に鹿島アントラーズの監督を務めた。

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