鹿島を率いて9年。トニーニョ・セレーゾが語る日本サッカーの成長

0

2021年05月10日 11:01  webスポルティーバ

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

webスポルティーバ

写真写真

あのブラジル人Jリーガーはいま 連載一覧>>
第15回トニーニョ・セレーゾ(後編) 前編を読む>>

 ジーコ、ファルカン、ソクラテスとともにブラジル代表で黄金の中盤を形成し、2度のW杯を戦ったトニーニョ・セレーゾ。ディフェンシブハーフとしての卓越した能力はその後、セリエAのローマ、サンプドリアで発揮された。そして1992年のチャンピオンズカップ(現在のチャンピオンズリーグ)決勝をバルセロナと戦ったのを最後に、サンパウロに移籍した。

 当時のサンパウロはブラジルでも最高の強さを誇っていた。チームメイトにはカフーもいた。そして、「キャリアの終わりに、私は初めて日本を知る機会を得た」と、トニーニョ・セレーゾは言う。

 1992年、1993年と、トニーニョ・セレーゾはトヨタカップで2年連続プレーしている。1993年の大会では、38歳と両チームの選手の中で最高齢だったにもかかわらず大会MVPに選ばれた。ミランを倒し、タイトルを制するとともに、トヨタの車も手に入れた。

 しかし、前年の1992年の大会も、トニーニョ・セレーゾにとっては忘れられないものだった。なぜならこの時サンパウロが倒した相手はバルセロナだったからだ。

「サンプ時代の2度の敗退(カップ・ウィナーズカップ決勝とチャンピオンズカップ決勝)のリベンジを果たすため、私は地球の裏側まで行った。歓喜に沸く東京の国立競技場の風景を、私は今でもよく覚えている」

 1997年8月、トニーニョ・セレーゾはキャリアをスタートさせたアトレティコ・ミネイロを最後に、現役を引退した。




 現役時代の忘れられないエピソードがふたつあるという。ひとつ目はローマの一員としてオランダのフェイエノールトと対戦した時だ。前半終了後、彼フェイエノールトのオランダ人選手が、いつも自分の守備の間をすり抜けるとぼやいていたという。しかし、ハーフタイムの終わりに、それがヨハン・クライフであることにやっと気がついたという。

「だから後半は彼に近づくことはしなかった、ただ45分間、彼のプレーを眺めては感動していたよ」

 もうひとつは怪物ロナウドのデビューに立ち会ったことだ。1994年に1シーズンだけクルゼイロでプレーしたが、この年、16歳のロナウドもクルゼイロでデビューを果たした。ロナウドのデビューは鮮烈だったという。

「ある試合で我々は3−1で勝利したが、3ゴールともがロナウドのものだった。私は3本のパーフェクトなパスを彼に出し、その内のひとつで彼はPKをもらい、もうひとつではすばらしいゴールを決めてくれた」

 引退後、彼はまずアトレティコ・ミネイロのスーパーバイザーとなり、その後に監督も務めた。1999年にはスター選手のいないバイーア州のヴィトーリアを率いてブラジル全国リーグの準決勝まで勝ち進み、周囲を驚かせた。

 監督としても偉大な元チームメイトの手腕を、ジーコは見逃さなかった。2000年、ジーコはトニーニョ・セレーゾを鹿島アントラーズの監督に誘い、トニーニョ・セレーゾは6年間にわたって采配を振るった。ひとつのチームにこれほど長く留まった外国人監督はそうはいないだろう。

「ジーコがすでにチーム全体にブラジル人のメンタリティーを浸透させてくれたおかげで、私はとても仕事がしやすかった。日本行きはもともと私のキャリアの予定には入っていなかった。しかし、実際は日本での勝利が一番誇りに思えるものだった。日本に住み、チームを育て、選手たちが成長し、勝利を手にした。このことは忘れられない思い出だ」

 当時を振り返って、トニーニョ・セレーゾは言う。

「また、サポーターのこともよく覚えている。彼らはチーム全員のチャントを歌ってくれていた。そう、監督の私の名前まで。試合中、私は目の前のプレーに集中していたから、実はそれに気がついていなかった。しかし隣に座っていたコーチが私を肘でつつくんだ。邪魔された私は、はじめは怒ったが、そのうちサポーターが私の名前まで懸命に叫んでくれていることがわかった。セレーゾのレはRではなくLの発音だったがね。その時から私は鹿島サポーターのファンになった」

◆カズ、ジーコ...鹿島初のブラジル人監督が語る日本の思い出

 トニーニョ・セレーゾは今でもまだ鹿島のサポーターだ。ブラジルからもチームのことを常に気にかけている。

 鹿島に来て1年目に三冠(Jリーグ年間王者、ナビスコカップ、天皇杯)を達成した。しかし、勝ち取ったのはそれだけだった。その理由をセレーゾに尋ねると、彼はこう答えた。

「今とは違う時代の話だ。当初アントラーズには優秀で有名な多くのスター選手がいた。しかし、彼らは30歳を超えていた。鹿島の将来を考えると、チームは若返りが必要だった。最初の2年は、それでも昔からの選手がベースになってタイトルをとることができた。だがその後、本格的に若手にシフトしていくようになると、同じような結果は望めなかった」

 その後、日本人選手もだんだんと成長していったとセレーゾは言う。

「若手の中にすごく優秀な選手がいた。私は彼を中心にチームを作ろうとしたが、彼はその後、フランスのマルセイユに行ってしまった。彼の名前は中田浩二。本当に才能ある選手で、彼の闘志と、新時代の日本を代表するようなテクニカルなプレーを見るのが私は好きだった。また小笠原満男や鈴木隆行もチームには欠かせない存在だった」

 日本を後にしたセレーゾはサウジアラビア、UAEのチームをいくつか率いた。UAEでは3シーズンを過ごし、すべてのチームでタイトルを勝ち取った。

「その時に日本で学んだ多くのことが役に立った」とセレーゾは言っている。

「日本では組織とか運営など、ピッチの外でのことも非常に重要であることを実感した。鹿島ではすべてのスタッフがプロ意識を持ち、それぞれの仕事に誇りを持って完璧にこなしていた。本当に完璧だった。なにより私のことも含め、他人をリスペクトしていた。

 日本人は信じないかもしれないが、鹿島のスタッフの誠実な仕事ぶりは、私には奇跡のように感じられた。こんなチームは世界にひとつしかないと思った。私の知っているサッカー界とはまるで違っていた。南米やヨーロッパのスタッフに比べると、一見冷淡にも見えるが、それは彼らがチームを愛していないからではない。彼らが本物のプロだからだ」

 彼が日本にいた時代はちょうど日本サッカーの過渡期にあった。

「それまで日本では野球が常に一番の人気のスポーツだったが、それにサッカーが追いつく時代だったと思う。学校教育では体育が重視され、サッカーなどの部活も盛んだったが、問題は学校を卒業しても、プロのサッカーに向き合うスキルを持っていないことだった。だから加入してきた若手には、まずは早急にテクニックと戦術の教育が必要だった。ボールに対してどう体を使うか、敵をかわしてどのようにボールを扱うかを教えることが必要だった」

 2013年、トニーニョ・セレーゾは再び鹿島の監督として日本に戻ってきた。そしてJ1の監督として100勝を達成した。この時、日本サッカーの変化を肌で感じたとセレーゾは言う。

「本当に革命的な進歩を遂げたと思う。この20年で日本ほど急激にサッカーが成長した国は世界にないのではないか」

 最近、トニーニョ・セレーゾの名前がブラジルメディアの間であがったのは、彼の親子関係についてである。彼には4人の子供がいるが、息子のひとりは性転換手術を受けてトランスジェンダーのモデルとなった。レア・Tという名前で、ジバンシィなどの広告にも起用されるスーパーモデルである。

 だが、トニーニョ・セレーゾはそんな息子をどうしても受け入れることができず、電話にも出ない日が続いた。「子供は3人だけだったと思うようにしている」とも言っていた。しかし、やがてその考えを変えた。2017年にブラジルの有名番組に親子で出演し、今では彼女のことを誇りに思っていると告げた。

「自分がセレーゾを名乗ることで、父の名声を傷つけるのではと恐れていた」という彼女に、トニーニョ・セレーゾは「世界中の仕事を失っても構わない。君の父親であることを誇りに思う。君の幸せが私の仕事の犠牲になってほしくない」と答えた。

 現在、トニーニョ・セレーゾは66歳、2015年にアントラーズを辞めた後は、どこのチームも率いていない。しかし、まだまだ監督は続けたい考えだ。

「私の人生は常にボールの傍らにある。できればまた新たにチームを率いたい」

 最後にひとつだけ笑い話を披露して、トニーニョ・セレーゾの物語の幕を閉じよう。彼はセレッソ大阪の「Cerezo」は、自分へのオマージュなのだとかなり長い間、思い込んでいたという。

「だからそれがスペイン語の桜に由来すると聞いた時には、実はほんの少しだけがっかりしたんだ(笑)」

トニーニョ・セレーゾ
本名アントニオ・カルロス・セレーゾ。1955年4月21日生まれ。1972年、アトレティコ・ミネイロでプロデビュー。その後、ローマ、サンプドリア、サンパウロなどでプレー。ブラジル代表として1978年、1982年のW杯に出場。ジーコ、ファルカン、ソクラテスとともに「黄金の中盤を」を形成した。1996年に現役を引退すると指導者の道へ。2000〜05年と2013〜15年に鹿島アントラーズの監督を務めた。

    ニュース設定