伝統に新しいアイデアを組み合わせてもっと美味しく 精進料理人・野村大輔<現代の肖像>

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2021年05月12日 17:00  AERA dot.

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写真「shojin宗胡」オーナーシェフ 野村大輔/和食に限らず自分以外の誰かが作る料理を食べるのが一番の勉強。刺激をうけるし、自分の引き出しになる(撮影/門間新弥)
「shojin宗胡」オーナーシェフ 野村大輔/和食に限らず自分以外の誰かが作る料理を食べるのが一番の勉強。刺激をうけるし、自分の引き出しになる(撮影/門間新弥)
「shojin宗胡」オーナーシェフ、野村大輔。肉も魚も乳製品も使わず、植物性食品だけで作られた精進料理。味気ないという印象を覆す精進料理を作るのが野村大輔である。幼い頃から祖母や親に連れられて、名店で外食をするのが日常。中学時代は友人と「美食倶楽部」を作り、食べ歩いた。確かな舌を持つ野村が作る精進料理は、見た目も美しい。使える食材が限られる中、日々、新しい料理を生み出していく。

【写真】「宗胡」の個室で、百貨店で販売するお中元用カレーの試食会

*  *  *
 東京・六本木「shojin宗胡(そうご)」の42席は、ほぼすべて埋まっていた。2019年の大晦日、夜8時。8割方は欧米、アジアなどからの外国人客だ。カウンター席では、見知らぬ人同士が会話を始めたりしていて、店内は心地よい喧噪に包まれていた。

 一方、厨房(ちゅうぼう)はフル回転だった。オーナーシェフの野村大輔(のむらだいすけ)(47)は、この日、「海老芋(えびいも)のパン粉揚げ」に始まり、くわい団子を使った「聖護院蕪(しょうごいんかぶ)みぞれ椀」、パプリカの「蒸し寿司」、押し豆腐と加賀れんこんなどでつくる「松葉蒸」、デザートの「林檎のシャーベット」まで全11皿のコースによる精進料理を準備していた。にぎわう客席と厨房の間をせわしく行き来しながら、野村はひたすら料理の支度と客やスタッフの対応に追われていた。

 肉も魚も乳製品も使わず植物性食品だけで構成する精進料理には、往々にして「味が薄い、美味しくない、楽しくない」という印象がついてまわる。その常識を覆さんとするのが野村の精進料理だった。味わい深く、見た目が美しく、驚きのある皿。その新しいスタイルは評判を呼び、2015年2月の開店以来、内外の客は増え続けていた。

 が、この盛況の大晦日からわずか3カ月後、海外からの客は言うに及ばす、国内の客足もぴたっと止まることになる。

 コロナ禍にみまわれる前まで、野村は、自身の精進料理に強い手応えを感じていた。ここ数年は、海外からの講演依頼や国内の食品会社の講習会などに招かれることも多くなっていた。

「日本よりむしろ海外の方のほうが精進に関心を持っていて、実際、お客さんも、海外のヴィーガン、ベジタリアンの方が着実に増えていた。コロナ前のディナーは通常の日でも3割ぐらいが外国からのお客さんでした。日本にはこんな素晴らしい料理がある、と海外に発信していくことも当初からの目的だったので、そこは狙い通りでした」

■幼い頃から名店で食事 中学で「美食倶楽部」結成

 野村は精進料理の中で育った。実家は、1950年に祖母が東京都港区愛宕で開いた精進料理店「醍醐」。物心ついた頃にはすでに政財界の要人が訪れるような格式高い店になっていた。母親は接客に追われ、父親や板前たちが板場でせわしく働き、満席の折には、普段使う野村家の茶の間に常連客である現役の大臣が座っている、という日常。1階が店舗で2階が自宅という環境は、少年をいや応なく料理の世界へと引き込んでいった。

「小学生の頃から、祖母とは、2カ月に1回ぐらい2人だけで京都に行ったりしてました。商売繁盛の伏見稲荷にお参りして、その足で吉兆で食べて1泊してと、いま思えば、一種の英才教育だったのかもしれません」
「醍醐」の定休日だった木曜日には、決まって一家で麻布飯倉の「野田岩」、麻布十番の「まつ勘」、神田の「ぼたん」といった都内の名店へと繰り出した。
 そんな舌の肥えた少年の頭痛のタネは、学校給食だった。

「家で出されるのはお店の賄いだったし、日常的に贅沢をしているわけではなかったけれど、美味しいものは食べていたと思います。そのせいか給食の味つけが苦手で、肉なんかは特に無理だった。でも、当時は残すことが許されず、器が空になるまで居残りさせられた。だから、僕はある日からひざ掛けのようなものを持って行って、そこに食べたふりをして全部吐き出して持ち帰ってました」

 成城学園中学校に進んだ野村は、すぐに同好の士を見つける。のちにホフディランとしてデビューする小宮山雄飛(47)だ。小宮山の父親は食通で、やはり幼い頃から外食に親しんでいた。2人は、数人の仲間とともに

「美食倶楽部」と称して、放課後の食べ歩きを始める。

 小宮山が振り返る。

「あの頃、『美味しんぼ』というマンガが流行(はや)っていて、みんなで読んでいた。その影響もあって、中学生だけでラーメン屋や蕎麦(そば)屋に行って、『あそこは蕎麦よりうどんのほうが旨い』とか言いながら、街のB級グルメみたいな店を探索してました。食べ歩くだけでなく、マンガに出てくる料理を実際に自分たちでつくったりもして」

 小宮山は当時の野村の印象をこう言う。

「家と料理屋が一体という生活スタイルの中で育った雰囲気が言動からにじみ出ていた。典型的なお坊ちゃんでおっとりしてて、焼き肉は叙々苑、イタリアンはキャンティというように行く店も決まってたし、とにかく食に慣れていた」

 高校、大学と成城で過ごした野村は、おのずと料理人の道へと導かれていく。

「周りが就職活動を始めたときも僕はせずに、まあ、家を継ぐんだろう、ぐらいの気持ちだった。ただ、大学時代にバイト感覚で厨房を手伝ってはいたものの、どうしても料理人になりたい、精進料理をつくりたいという強い思いもなかった」

(文・一志治夫)

※記事の続きは2021年5月17日号でご覧いただけます。

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