「競馬」のある生活を綴った1冊も コロナ禍に読みたい“日記本”

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2021年05月14日 17:00  AERA dot.

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写真平松洋子さん (c)朝日新聞社
平松洋子さん (c)朝日新聞社
 古今の日記の中に、コロナ禍を乗り切るヒントはないだろうか。そんな思いで、今読みたい日記をエッセイスト・平松洋子さんに選んでいただきました。

*  *  *
「こんな日もある。

 二月十五日、曇ときどき小雨、風はないままに冷えこむ。今年初めて競馬場に出かけた。府中の最終土曜日である」

 1986年2月、冒頭の一文。この日、第7レースだけ勝ち、ほかは全部外して終わる。翌3月、冒頭の一文にはこうある。

「こんな日もある。

 眼ばかりになってしまう。テレビの前ではさすがにそうなりにくい。やはり競馬、パドックか平土間かスタンドにいる時だ」

 古井由吉『こんな日もある』(講談社)。85年、競馬専門誌「優駿」で連載が始まり、日記の体裁を取りながら2019年まで三十余年に亘って書き継がれたエッセイのなかから、昨年の逝去ののち、初めてその一部が編まれ刊行された一冊だ。私は、競馬はしないが、馬には乗る。馬という生きものと文学者との勝負をつうじた交歓に惹かれ、手にした。

 馬とレースについて綴るのだが、詳細にして簡潔、むしろ淡々とした気配が漂う文章。その背景が、こんな文章のなかに見つかる。

「なぜ競馬が好きなのかとたずねられて、あそこにはとにかく明白な喜怒哀楽があるから、と応えた人がある。うまい答え方だと思う」

 簡明に、細心に浮かび上がらせる一レース一レース。馬もまた、鮮烈に描かれる。07年4月22日、東京のフローラステークスでのベッラレイア。

「ところがやっと大外へ出すと、一完歩ごとに、大きくなる。一完歩ごとに、花がひらく」

 ゴールに向かう馬の走りがはっきりと見える。

 徒然に書きつけられる四季の移り変わり、天変地異、事件、知己の訃報、むかし暮らした土地や旅の記憶。作家の日常に濃淡をもたらすのも、やはり競馬なのだ。手術や入院によって競馬からしばし遠ざかる寂しさ。体調が優れず、仕方なくテレビ観戦するダービー当日は、馬と騎手への視線に物狂おしさがつきまとって美しい。馬のある春夏秋冬のなかに古井由吉の姿を探すことが、こんなに胸揺さぶられるものだとは思いもかけなかった。

 もう何度読んだろう。武田百合子『富士日記』(上・中・下 中公文庫)を手に取るたび、日記の奥でもぞもぞと蠢く野生に行き遇う。その正体はいまだに茫洋としたままだが、とても慕わしく、つねになまなましい。

 昭和39年7月から51年9月まで続く長大な日記だけれど、いつも冒頭から読み通す。それは、日記がしだいに濃度を帯びてゆくさまに触れたいからだ。

 老いた夫、武田泰淳が病床でつぶやく言葉をこう書きつける。

「『生きているということが体には毒なんだからなあ』

 私は気がヘンになりそうなくらい、むらむらとして、それからベソをかきそうになった」(昭和四十七年六月二十四日)

 不慮の事故で喪ってしまった愛犬を悼みながら、「ポコ、早く土の中で腐っておしまい」。年々歳々『富士日記』に手を伸ばす頻度が上がっているのは、生と死にまつわるナマの言葉の匂いを嗅ぎたいからなのだろうか。

 武田夫妻が住む山荘をひょっこり訪れる作家、深沢七郎には『書かなければよかったのに日記』『言わなければよかったのに日記』(中公文庫)がある。訪ねた土地に住みついてしまう癖があり、いや、旅先でなくても深沢七郎が書く日常はひとを喰っていて、ひと筋縄ではいかないズレや可笑しさがある。

「下宿生活で、用事もなく、外出して、ぶらぶら街を歩いたりして、その日がすぎて行けば、人の一生はそれでいいのだった」(『書かなければよかったのに日記』風雲旅日記)

 自分の前にナニカが現れて消え、べつのナニカが現れては消える。しじゅう動いて定まらないありさまを綴るのが日記という書き物だとしたら、そうか、うねうねくねくねだらだらと流浪していいのだな。

※週刊朝日  2021年5月21日号

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