眞子さまより日本を騒がせた、プリンセスの“恋”と“婚約トラブル”! モメまくった結婚問題が迎えた「悲劇」

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2021年06月12日 20:02  サイゾーウーマン

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サイゾーウーマン

皇室が特別な存在であることを日本中が改めて再認識する機会となった、平成から令和への改元。「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます!

前回まで……秋篠宮眞子さまの結婚をめぐる騒動がいまだ解決していない現在。昭和中期にも、結婚問題でモメにモメて、日本を騒がせたプリンセスの恋がありました。清朝のラストエンペラー・溥儀(ふぎ)の姪に当たる、愛新覚羅慧生(あいしんかくら・えいせい)という女性と、そのお相手で青森出身の大久保武道の恋物語と、ついに訪れた悲劇とは……?

ダメな男に「ゾッコン」だったプリンセス

――慧生さんは、大久保さんのどこに魅力を感じていたのでしょうか?

堀江宏樹氏(以下、堀江) 世間にはダメ出しされてしまうような、不器用でダメなところが、逆に誠実に感じられ、よかったようです。彼女自身の手紙の言葉でいえば「服装なんてあまり(大久保さんは)おかまいにならないし、人にたいしてもわりあいにそうでしょう。(略)私は(大久保)武道様のそういう根本的なあたたかさが好きなのです。失礼ながら、下品な言葉で云えば『ゾッコン参って』います」。

――「ゾッコン」ですか(笑)!! 

堀江 自分との「違い」に強く惹かれてしまうのは、いつの世のプリンセスにも共通することかもしれませんねぇ。ちなみに、こんなことも慧生さんは手紙に書いていますね。

 「人を愛すると云うことは、人間の感情を動かすもっとも大きな動機であってみれば、愛する人と行動をともにしたいという傾向性は本能的な激しい推進力をもつものですから、それを押さえることは本当に苦しいでき難いことでございます」。

 この文、小室さんとの結婚に猛反対を受けた眞子さまが2020年11月に発表された手記の一節、「結婚は、私たちにとって自分たちの心を大切に守りながら生きていくために必要な選択です」の部分と、なんだか似ていますよね。ま、小室さんについては、なんでも器用に一応はこなせるというか、大久保さんとは真逆の印象ですが。

――「禁じられれば禁じられるほど……」という恋心のプロセスは、確かに似ているかもしれません。

堀江 そうですね。しかし、大久保さんが慧生さんのお見舞い目的にせよ、他人さまの家庭にアポなしで押しかけ、長時間いすわった様子を、慧生さんの暮らす嵯峨家の人たちは「図々しい」と言って嫌いました。

 1956年12月30日のことです。女中のいるようなお家でもお正月準備が忙しい頃ですし、そういうときに“突撃来宅”はダメだ、ということくらいわかるはずですが、恋する大久保さんに「常識」は通用しませんでした。

 慧生さんが風邪だと知ると、帰省中の青森から夜行に立ちっぱなしで乗って、東京についたらその足で嵯峨家に突入してしまったのですね。

堀江 慧生さんも、表面的には家族に「図々しいわね」などと調子を合わせながら、「そんな自分が哀れで、布団をかぶって泣いちゃったわ」(青弓社『にっぽん心中考』佐藤清彦)などと、学習院の同窓生で、親友の木下さんという女性には本音をもらしたとか……。

 この時、慧生さんはご自分の家族のことを「お家の人」などと呼んでおり、彼女の中で、大久保さんとは一心同体のようになっているのに、実の家族との心の距離は確実に生まれていたのは見逃せません。

――大久保さんのそういう性格は、なかなか他人には理解しづらいでしょうね。常識で熱烈な恋心を語ることはできないとはいいますが……。

堀江 お二人が学習院そばの目白駅近くの蕎麦屋で話し合い、「婚約」したのが1957年2月のこと。大久保さんは慧生さんに銀のブローチを贈り、慧生さんは彼にネクタイを贈ったそうです。慧生さんには、大久保さんからエンゲージリングも贈られていたようです。ご家族の手前、リングをはめていることは少なかったようですが。

 慧生さんは大久保さんがそのラフすぎる服装のせいで、周囲になじめないと考え、紺色のスーツを作るようにアドバイスしました。そして、その服装に合うネクタイを選んでプレゼントしたようです。ズボンを穿く前には、布団の下に敷いて寝るとシワが取れるのよ、などのアドバイスもしていますね。

――すでに奥さまみたいですね。

堀江 こうして秘密の恋が人知れず深まっていく中、なんらかの深刻な変化が大久保さんの中で起きたのが同年12月1日とされます。残念ながら、詳しくはわかりません。彼には「血にまつわる性の悩み」があったと、曖昧な理由が公表されているだけですが、愛人を作るような実の父親を軽蔑する大久保さんが結婚し、子どもを持つことになれば、父親から引き継いだ“淫蕩の血”が、わが子にも流れる……というようなことが恐ろしかったのではないか、と推測します。

 この時、大久保さんは20歳(ちなみに慧生さんは19歳)。ちょっと頭でっかちすぎるかなぁ、と思ってしまいますが……。いずれにせよ、大久保さんの自殺願望が、急速にこの時期に高まり、後には引けなくなったようです。

 ちなみに先ほど紹介した、「人を愛すると云うことは、人間の感情を動かすもっとも大きな動機」という文章が慧生さんによって書かれたのは11月になってから。二人の仲が熟してきていた最中のことでした。

――なんだか危険な雰囲気になってきましたね。この先の展開が怖いです。

堀江 大久保さんには昔から自殺願望があり、実家からライフルを東京に持ってきていたようです。そして同1957年12月4日の朝、自宅を何気なく出ていった慧生さんが二度と生きて帰ることはありませんでした。大久保さんと慧生さんの二人の遺体が、天城山で発見されたのです。

堀江 二人を載せたタクシーの運転手が、天城山に到着したのが同4日の午後3時すぎのこと。彼は、帰りの最終バスの時間が午後6時であると気にする慧生さんの姿を証言しています。心中しようとしている人が、帰り道を気にするわけもありません。また、「今なら間に合うから引き返そう」と大久保さんに訴える慧生さんの姿についての証言もあります。

 諸説ありますが、慧生さんは大久保さんと一緒に死のうと思って天城山に向かったのではなく、1人にしておけば、愛する大久保さんが確実に死んでしまうので、それを命がけで止めようと同行したのではないか、と僕には思えます。

――しかし、お二人が天城山から戻ってくることはなかった、と。

堀江 残念ながらそうです。行方不明になった彼らに対し、二人の実家は「生きて帰れば、交際を認める」などの宣言を出しましたが、時すでに遅し。

 二人の遺体が発見されたのは12月10日のこと。慧生さんは大久保さんからもらった銀のブローチをつけ、大久保さんは慧生さんが贈ったネクタイと、彼女のアドバイスで作ったスーツを着て亡くなっていました。

 大久保さんが慧生さんのこめかみをライフルで打ち抜き、その後、自分も……ということでした。顔に白いハンカチがかけられた慧生さんを、大久保さんは腕枕するようにして、二人の遺体は木の下に横たわっていたといいます。当初、慧生さんの左手薬指には大久保さんから贈られたリングが光っていましたが(12月11日、朝日新聞)、葬儀の時には彼女の家族の手で抜かれていたようです。

――その後、慧生さんのご家族は?

堀江 慧生さんには思うところがあって、嵯峨家には遺書などは残しませんでした。実家と、大久保さんのことでトラブルになっていたのでしょう。実際、学習院の寮の先生に書いた慧生さんの遺書が、嵯峨家に貸されている間に、勝手に燃やされてしまったという事件がありました。これは慧生さんと実家の関係を推測できる、いざこざでもありますね。

 二人の書簡も大久保家にまとめて送られ、1961年に『われ御身を愛す―愛親覚羅慧生・大久保武道遺簡集』として書籍化されています。

 事件当時、慧生さんの父上である溥傑さん(“ラストエンペラー”溥儀の弟)は、中国の共産党政権によって勾留されていましたが、風の噂で娘の死を知っていたようです。溥傑さんをはじめ、愛新覚羅家では心中だったと考える一方、嵯峨家の主張はストーカーによる誘拐殺人で、拳銃で脅された結果のものだったということになっています。

――心中とストーカー誘拐殺人では、まったく事件の質が違いますね。嵯峨家の大久保さんへの憎しみめいた感情がひしひしと感じられます。

堀江 お二人がもはやこの世の人ではないので、真実はわかりません。しかし、世間的にはものすごく衝撃的な事件となり、恐らく現在の小室さん問題以上に騒ぎを呼びました。『天城山心中 天国に結ぶ恋』(1958)年などというタイトルで、映画化され、大ヒットとなったのです。

――昭和時代のプリンセスの厳しい結婚事情については、次回に続きます!

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  • 曽根崎心中みたいだね。
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