小林亜星さん死去「医学部からバンドマン、『北の宿から』、『寺内貫太郎一家』…」本人が語ったマルチ人生

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2021年06月14日 17:20  AERA dot.

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写真小林亜星(こばやし・あせい)さん/作曲家。1932年、東京生まれ。2021年5月31日、死去。数々のCM曲、主題歌、流行歌の作曲、作詞を手掛ける。72年、「ピンポンパン体操」(71年)が200万枚を超す大ヒット。日本レコード大賞童謡賞を受賞。76年、都はるみ「北の宿から」(75年)で日本レコード大賞を受賞。クラシックからジャズ、ロック、演歌まで多彩に活躍した。(撮影/小暮誠)
小林亜星(こばやし・あせい)さん/作曲家。1932年、東京生まれ。2021年5月31日、死去。数々のCM曲、主題歌、流行歌の作曲、作詞を手掛ける。72年、「ピンポンパン体操」(71年)が200万枚を超す大ヒット。日本レコード大賞童謡賞を受賞。76年、都はるみ「北の宿から」(75年)で日本レコード大賞を受賞。クラシックからジャズ、ロック、演歌まで多彩に活躍した。(撮影/小暮誠)
「北の宿から」などを手がけた作曲家で、「寺内寛太郎一家」にも主演し、黒縁の丸メガネの“巨漢”タレントとしても人気があった小林亜星さんが5月30日に亡くなっていたことがわかった。享年88歳だった。死因は心不全で5月30日に容体が急変し、そのまま病院で亡くなったという。小林さんは週刊朝日2018年9月28日号の「もう一つの自分史」に登場。それまでの人生を振り返った貴重なインタビューを再録する。

【写真】「寺内貫太郎一家」で共演した小林亜星さんと浅田美代子さん
*  *  *
 高校(旧制慶応義塾普通部)の同じクラスに冨田勲君(作曲家)と林光君(作曲家)がいたんですよ。作曲家になったやつが同じクラスに3人もいたなんて。変なクラスだよね。休み時間になると3人で音楽談議。コーラスの曲を作って文化祭で発表もしました。結構評判がよくてね。それが悪かったんだな。気分良くてね。味をしめちゃった。

――日本レコード大賞を受賞した都はるみの「北の宿から」をはじめ、小林亜星の曲を一曲も知らないという人は、いないだろう。意外なことに、作曲家になる一本道を歩んできたわけではなく、何度か横道にそれた。

 うちは祖父が医者だったから大学は医学部へ行けと。ろくに勉強もしない落ちこぼれだったから大変ですよ。大学は高校3年のときの成績で進路が決まるんです。それで1年間猛勉強。進学試験のとき、15分ぐらいで答案を書き上げて教室を出ちゃった。勉強しすぎちゃったんだな。背中に同級生のため息を聞きながらね。まったく嫌みなやつだよね(笑)。

 それで医学部へ入ったはいいけど、もう俺はやることはやった、っていう気になっちゃってね。ところが、大学の医学部っていうのはいろんなところから頭のいい人がきている。まるで太刀打ちできない。

 1、2年生の教養課程のうちは医学的な授業もないし、好きな音楽ばっかりやってました。子どものころ、木琴を習ってましてね。それを生かして、ビブラフォンを演奏してジャズバンドを組んだ。

 そのころ、朝鮮戦争が勃発。朝鮮半島で戦ってきた米軍兵たちが、休暇になると日本の基地まで引き揚げてきて疲れを癒やすんですよ。おかげで基地内のナイトクラブは大忙し。僕たちみたいなへたくそなバンドでさえ、引く手あまたでした。横浜にWAC、Women’s Army Clubっていうのがあったんです。軍属の女性専用のクラブで、お客さんのほとんどは従軍看護婦だったな。あとは軍人の奥さん方ね。そこの専属バンドになっちゃって。サラリーマンの初任給が8500円ぐらいの時代に、一晩で3千円もらえたんですよ。

 結局、途中で学部を変わってね。経済学部に移って、卒業するまで親にはバレなかったな。

――やがて朝鮮戦争は休戦。バンドもジャズも廃れていったという。世の中の景気は後退し始めていた。

 すごい就職難でね。一度は入れるところに就職したんです。製紙会社の営業マンになりました。

 営業っていったって何の苦労もなかったんです。1950年代は三白景気っていってね。三つの白いもの、硫安(硫酸アンモニウム=肥料)、砂糖、そして紙。これが不足していて、何しろ作るそばから奪い合い。営業は「ちょっと待ってください」っていうのが仕事だったんです。楽だったからってわけじゃないけど、営業の仕事は意外と向いてましたね。やってみて、あ、この仕事好きだなぁって思った。

 でもね、どこか自分の人生じゃない気もしていた。仕事をしながら、頭の中は音楽のことばっかりなんです。まったく失礼な話だよね。

――結局、ひと月も続かず、会社を辞めた。音楽のプロになるため、国立音楽大学教授を務めた服部正氏の門をたたいた。

 服部先生は当時、ダークダックスの曲を作曲・編曲してらっしゃって、僕たち弟子もそのお手伝いであちこちの放送局へ出入りするようになったんです。最初はNHKだったな。

 今と違って、外部の人間がいつでもふらっと入っていけましたからね。「こんちはー! 何かお仕事、ないですか?」って。そうすると「あ、頼みたい!」とか「おーい、回せる仕事ない?」なんてね。当時はまだラジオが主流で音楽番組は大人気でした。音楽番組をアレンジャーとして担当するようになりました。

 NHKテレビの実験放送で、藤城清治さんの影絵のバックで演奏したこともあります。当時は収録なんてありませんから、影絵も演奏もすべて生。一度なんて、木の上の妖精がラッパを吹くシーンで、トランペッターがミスって音が出なかったんですよ。そしたら藤城さんが怒って裏へやってきて、そいつの頭をぽかっ! 今度は楽団みんなが怒って、仕事をボイコットして帰っちゃった。無音になっちゃってね。実験放送とはいえ、立派な放送事故だよね。

――テレビの普及とともに、アレンジ(編曲)の仕事は民放からも舞い込むようになり、多忙を極めた。だが、そこでアレンジの仕事をやめるという大英断を下す。それが、作曲家の道への転機となった。

 仕事はたくさんあるけれど、どれもこれもアレンジの仕事。日本は音楽に飢えていたんです。海外からはどんどん、オペラもクラシックも流行歌も入ってくる。それを日本人がカバーするには、編曲が必要でした。

アレンジばっかりやっていると、ものすごく安いんですよ。ギャラが。それにね、アレンジは人の作ったものを編曲するわけですから、「左脳」の仕事なんですよ。作曲は「右脳」。似ているようで、まったく違う。左脳ばっかり使ってるとね、作曲が下手になるんです。これじゃやばいなと思ってね。よし、編曲をやめようと。何のあてもないのに、来る仕事来る仕事すべて友達や後輩に振り分けて断っちゃった。

 さてどうしようかと思っていたら、助けてくれたのが妹だったんです。妹は当時、アパレルメーカーのレナウンの宣伝部にいましてね。美大を出てイラストレーターをしてた。新しいコマーシャルを作るスタッフになったとき「兄貴が作曲できるらしいです」って言ってくれた。

――初めて世に出したのが「ワンサカ娘」。そのヒットを皮切りに、アニメ主題歌「魔法使いサリー」や「ひみつのアッコちゃん」も手掛けた。あの、「狼少年ケン」の「ボバンボバンボン ブンバボン」も「魔法使いサリー」の「マハリクマハリタ」も小林の作。作曲には学生時代のジャズバンドが肥やしになったという。

「ワンサカ娘」は、作詞も僕。「ワンサカワンサ、ワンサカワンサ、イェーイイェーイ、イェイェイ」って。意味というより語感。ああいうのが好きでね。頭に浮かぶんですよ。

 やっぱりなんか、音が出てくるんだな。それまでのアニメソングって、オーケストラとか児童合唱団が主流だったんです。ジャズっぽい音楽を作る人間が僕ぐらいしかいなかったんじゃないかな。

 大学時代、米軍基地へ行ってたでしょ。そこで鍛えられましたね。誰がどこから手に入れたんだか『1001』(センイチ)っていう本があって、そこにスタンダードジャズの譜面が1001曲分、載ってるの。それをみんな暗記してね。なにしろいつ、何をリクエストされても弾かなきゃなんないから。「A列車で行こう」「イン・ザ・ムード」「枯葉」……いまだに頭に入ってますよ。

 私にとって音楽のルーツはジャズ。基礎としてのクラシックを服部先生に学んだことも大きかった。それが混ざって、肥やしになりましたね。

 本格的に作曲に乗り出さなかったら人生違ってたでしょうね。でも、たくさんの曲をアレンジしたことは作曲の仕事に、ものすごく役に立ってます。アレンジャー時代に培った人脈だとか、仕事の流儀みたいなものは、間違いなく作曲家としての仕事の基礎になりましたから。その意味では、岐路というよりは、蓄積といったほうがいいかもしれません。

――その後、テレビは黄金期を迎える。数々の音楽番組、アニメ、ドラマ、CMに携わってきた。人気ドラマに役者としても参加し、お茶の間を沸かせた。

 テレビドラマにもね、役者でもないのに、僕まで出るようになっちゃって。「寺内貫太郎一家」の貫太郎は、原作者・向田邦子さんのお父さんがモデル。当時私は長髪だったんですが、配役を決めるときにプロデューサーの久世光彦さんに「丸刈りにしてこい!」って言われて。

 テレビ局はクライアントですから逆らえません。仕方なく髪をばっさり切って戻ったら、向田先生が「イメージにぴったりよ!」って。それで決まっちゃった。何でもありの時代でしたねえ。まさか続編までできて、新橋演舞場で舞台になるまで続くとは思ってもいませんでした。

 われわれ世代の人間は、テレビっていうのはこれからの時代を代表する文化だと思っていました。テレビなら今までできなかったことができる!と、そりゃエキサイティングでしたよ。挑戦の連続ですから。

――時代は変わって今、テレビも、音楽業界も苦境に立たされている。テレビ文化を創り出した者の目にはどのように映るのか。

 昔はどのレコード会社にもカリスマプロデューサーがいて、会議でみんなが反対しても「これは売れる!」って言った曲や歌手はヒットした。今は合議制なんです。全員が70点をつけないと世に出せない。そんなやり方で大ヒットは出ませんよ。そこそこの評価で出てきたものは、そこそこで終わるんです。

 この時代の音楽が、エンターテインメントがどうなっていくのか、見届けて、向こうにいる盟友たちに報告しなくちゃと思ってます。「寺内貫太郎一家」に出ていた男性陣なんて、もうほとんど残ってないですよ。僕たち世代はテレビと共に大きくなって、テレビと共に終わっていくのかな。

 レコード大賞の盾の前で写真とか、いやですよ。どうも過去の栄光みたいでね。

(聞き手/浅野裕見子)

※週刊朝日 2018年9月28日号

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  • 数多くのCM曲がある中、1番記憶に残っているのがこれ。〖人間みな兄弟 (夜が来る) - サントリーオールドCM曲 - 〗 https://youtu.be/zf0B9pavB6o
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