鳥羽・伏見の戦いとは何だったのか? 1年半におよぶ戊辰戦争の始まりを歴史家が解説

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2021年06月16日 07:00  AERA dot.

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写真鳥羽・伏見の戦いの「勃発の地」を伝える石碑/京都市伏見区(c)朝日新聞社
鳥羽・伏見の戦いの「勃発の地」を伝える石碑/京都市伏見区(c)朝日新聞社
 幕末、雄藩の台頭や西欧列強の圧力を何とか凌いできた徳川幕府。一方、旧来の体制をよしとせず、維新回天を目指した薩長を中心とする勢力。慶応三年十月、将軍慶喜は事態を収拾するべく大政奉還するが、新政府は謀略も辞さず、あくまでも武力による討幕を目指した──。週刊朝日ムック『歴史道 Vol. 15』では戊辰戦争を大特集。今回は、1年5カ月におよぶ戊辰戦争の火ぶたが切られた鳥羽・伏見の戦いの真実に迫る!

【鳥羽・伏見ではいったい何が起きた? 戦いの経過はこちら】

*  *  *
 江戸城の留守を預かる勘定奉行小栗忠順たち徳川家首脳部が、市中を騒がす強盗の根城だった薩摩藩三田屋敷を焼き討ちにかけた。それを受け、大坂城内の徳川勢は沸き立つ。その勢いに押された慶喜は薩摩藩討伐の旗印のもと、将兵を京都に向かわせることを決める。慶応四年(1868)一月二日、徳川勢は大坂城を出陣して続々と上京の途に就いたが、すでに海上では薩摩藩と戦っていた。榎本武揚が艦長を務める軍艦開陽が、兵庫沖に停泊中の薩摩藩の軍艦に砲撃を加えたのである。

 翌三日、徳川家は大坂に駐在していた各国公使に薩摩藩討伐の意思を伝えたが、この日から陸上での戦いが始まる。徳川勢は鳥羽街道と伏見街道を経由して京都に進軍したが、開戦の火蓋は鳥羽街道で切られた。夕刻に両軍は上鳥羽村で激突したが、薩摩藩が優勢を保ち、徳川勢は下鳥羽村まで後退する。

■事態を打開すべく西郷が画策した軍事クーデター

 鳥羽での開戦を受け、伏見街道でも開戦となる。伏見奉行所などを拠点とした徳川勢や会津藩、そして新選組は激しい市街戦を展開したが、薩摩藩の砲撃により奉行所が火に包まれると、長州藩が奉行所に突入する。薩摩藩もこれに続き、奉行所の占領に成功した。

 鳥羽伏見戦争初日は、薩摩・長州藩の優勢という戦況だった。戦いは翌日以降も続くが、結局のところ開戦初日の戦況が勝敗の決め手となる。 開戦の報は京都にも届くが、大久保利通は岩倉に次のように説いた。このまま徳川勢の入京を許せば、新政府内で薩摩藩に批判的な土佐藩などのグループが勢いを増す。王政復古の大変革も瓦解してしまうとして、仁和寺宮を征討大将軍に任命して錦旗節刀を賜ること。諸藩に慶喜討伐を布告することを求めた。

 大久保に檄を飛ばされた岩倉は、慶喜討伐の命令を布告するよう新政府の会議で主張したが、孤立無援の状態だった。土佐藩などが猛反対したからである。結論が出ないまま夜を迎えたが、前線からの戦勝報告で会議の空気は一変する。以後、大久保の狙い通りに事態が進行した。まさしく「勝てば官軍」だった。

 翌四日、前日の会議で征討大将軍に任命された仁和寺宮が錦旗を掲げて東寺まで進み、慶喜征討の本陣を置いた。これが契機となり、形勢を展望していた諸藩が雪崩を打って旗幟を鮮明にしていく。

 ここに大勢は決した。西郷隆盛や大久保など薩摩藩が新政府の主導権を握り、土佐藩などは沈黙を余儀なくされる。

 一方、旧幕府軍は各戦線で奮戦するものの、敗色は濃厚となった。六日には、味方の津藩からも砲撃を受けて総崩れとなる。

 相次ぐ敗報、そして錦旗が掲げられて朝敵とされたことで、慶喜は戦意を失う。六日夜、密かに大坂城を脱出し、七日朝には、軍艦開陽に乗って江戸へと向かった。

 同七日、朝廷は慶喜の追討令を発した。その後、慶喜討伐軍である東征軍が組織され、江戸への進軍を開始するのである。

■勝利を楽観視して新政府軍を甘く見た徳川方

 徳川勢、つまり旧幕府軍敗退の要因は、勝利を楽観視して相手を甘く見たことに尽きる。勝利を確信する徳川方は京都を東西南北から包囲する作戦を立てず、南方にあたる鳥羽・伏見から平押しに押せば、京都を占領できると考えていた。よって、倍以上の兵数があったにも拘らず、鳥羽街道と伏見街道を経由して京都に向かう作戦計画を立てた。

 開戦の火蓋が切られたのは鳥羽方面だが、鳥羽街道を進んだ徳川勢は数の力を頼みに、装弾もせずに歩兵隊を進撃させた。戦わずして数の力で押し切れる。黙って通すはずとみたのだ。そのため、薩摩藩の砲撃や射撃に反撃できず、壊乱する。

 出鼻をくじかれた徳川勢は敗勢を立て直せないまま退却を重ねた。かたや数の上では劣勢の薩摩・長州藩は勝利を得るための作戦を練り、戦いに臨んだ。その違いは大きかった。

 一口に徳川勢と言っても、幕府歩兵隊、会津、桑名、高松、松山、大垣、津藩などの寄り合い所帯であり、バラバラに戦っていたのが実態だった。個々に奮戦はするものの、連携の悪さを衝かれる形で薩摩・長州藩に足元をすくわれてしまう。両藩に勝るとも劣らない軍事力を有効に使いこなせず、自滅したのである。

 錦の御旗の効果も大きかった。開戦から3日目の正月五日の早朝、征討大将軍に任命された仁和寺宮は本陣の東寺を出陣し、鳥羽街道を南下した。錦の御旗を翻した仁和寺宮は徳川勢の本営が置かれた淀城の近くまで進んだ後、戦火の収まった伏見を視察し、夕暮れに東寺へ帰還している。官軍であることを確認した薩摩・長州藩は勇気百倍となる。一方、賊軍に転落したことを知った徳川勢の動揺は大きかった。戦意を挫かれた。

 さらに、薩摩・長州藩の装備する銃砲は新式である上に、兵士は調練を充分に積んでいた。その上、実戦経験も豊富だった。

 ところが、旧幕府軍の主力で最も戦意旺盛だった会津藩などが装備する銃砲は旧式で、何といっても射程が短かったのが致命傷となる。その射程外から、一方的に射撃される羽目となったからだ。

 新選組に典型的だが、得意の白兵戦も損害を増やすだけだった。戦後、土方歳三が「もはや刀や槍の時代ではない」と述べたのは、そうした状況を象徴する言葉なのである。

 そして徳川勢の敗勢にとどめを刺したのが、味方と頼んだ譜代大名たちが次々と裏切ったことである。それは、仁和寺宮が錦旗を翻して淀城の近くまで進んだ時から始まった。

 前線から退却した徳川勢は本営を置いた淀城を拠点に抵抗を試みるが、入城を認めてはならないという新政府からのプレッシャーに淀城を居城とする稲葉家は屈する。淀城近くまで錦旗が進んだ効果は絶大だったのだ。徳川勢としては悲憤慷慨せざるを得ないが、同士討ちを始めるわけにもいかず、淀を放棄して橋本の関門まで撤退する。

 この辺りは男山と天王山に挟まれた天嶮の地だったが、外様大名ながら譜代大名並みの信頼を得ていた津藩藤堂家が山崎の関門を守っていた。橋本の関門を守る徳川勢は山崎の関門を守る藤堂家と連携し、山崎街道を進撃してきた薩摩・長州藩の攻撃を食い止める計画だった。

 ところが、開戦4日目の正月六日、山崎の砲台から突然、橋本の関門に向けて砲撃が開始される。新政府から藤堂家に対し、官軍たる薩摩・長州藩を救うようにという命が下ったのだ。要するに、徳川勢を攻撃せよということである。驚愕した徳川勢は大混乱に陥り、薩摩・長州藩に橋本の関門を突破された。

 ここに徳川勢は総崩れとなり、慶喜のいる大坂城へと我先に敗走していったのである。

◯監修・文
安藤優一郎(あんどう・ゆういちろう)/1965年千葉県生まれ。歴史家。文学博士(早稲田大学)。近著『渋沢栄一と勝海舟 幕末・明治がわかる! 慶喜をめぐる二人の暗闘』(朝日新書)、『お殿様の定年後』(日経プレミアシリーズ)他、著書多数。JR東日本・大人の休日倶楽部「趣味の会」等で講師も務める。

※週刊朝日ムック『歴史道 Vol.15』から抜粋

このニュースに関するつぶやき

  • 旧幕府軍と明治新政府軍の戦いはあちこちであったんじゃね?広島県福山市は無血開城した。がその後がむちゃくちゃされたな。廃藩置県で福山藩>福山県>深津県>>小田県など
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  • 徳川幕府の終焉に近付きますね。
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