中田英寿、セリエA制覇から20年。日本人の価値を高めた圧倒的存在

1

2021年06月17日 06:31  webスポルティーバ

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

webスポルティーバ

写真写真

 2001年6月17日。今からちょうど20年前......日本サッカーの歴史を大きく変えた、まさしくエポックメイキングな出来事があった。

 それは、2000−2001シーズンのイタリア・セリエA最終節。ローマの本拠地スタディオ・オリンピコで行なわれたパルマとの一戦で、ローマが18年ぶりのスクデット獲得に成功した日のことである。




 これまでローマがリーグタイトルを手にしたのは、計3回。初優勝は戦前の1941−1942シーズンまでさかのぼり、2度目は"第8代ローマ王"の異名をとったブラジル代表MFファルカンを擁した1982−1983シーズンのこと。

 そして、3度目のタイトルを獲得した2000−2001シーズンのチームには、ひとりの日本人ミッドフィルダーがいた。そう、当時24歳の中田英寿である。

 今でこそイングランドやスペインの後塵を拝するイタリアではあるが、当時のセリエAは自他ともに認める世界最高峰のリーグ。とりわけ栄華を極めた1990年代以降は、長きにわたって世界中のフットボールプレーヤーにとって最終目標の地だった。

 そんな憧れのリーグの頂点に日本人が立ったという事実は、とてつもなく大きな意味を持つ。少なくとも、その後の日本サッカー界に与えた影響という点では、2012−2013シーズンにマンチェスター・ユナイテッドの一員としてプレミアリーグの頂点に輝いた香川真司や、2015−2016シーズンにレスター・シティのプレミア初優勝に貢献した岡崎慎司、2019−2020シーズンに30年ぶりのリーグ優勝に輝いたリバプールの南野拓実を上回るインパクトがあった。

 たしかに中田がイタリアで活躍した以前にも、ドイツのブンデスリーガではケルンの奥寺康彦(現・横浜FC取締役会長)がリーグ優勝と国内カップ優勝の二冠を手にしたこともあった(1977−1978)。しかし、それは日本サッカーがプロ化する以前の話であり、テレビ中継を含めたサッカーのグローバル化が始まる前の時代のこと。日本でその事実を共有していた人は、極めて限られていた。

 中田が欧州に渡った時代は、1970年代と比較して大きく様変わりした。

 1993年のJリーグ開幕を機に日本サッカーはプロ化が浸透し、カズ(三浦知良)が1993−1994シーズンにセリエAの古豪ジェノアに移籍したことによって、多くの日本人が海外サッカーに目を向けていた時代である。ローマの中田がリーグ優勝を遂げたパルマ戦は、日本の雑誌や新聞、ニュース番組でも大きく取り上げられた。

 もっとも、ペルージャから強豪ローマに移籍して2年目を迎えていた中田にとって、そのシーズンは決して順風満帆だったわけではなかった。

 当時ローマを率いていたファビオ・カペッロ監督は、スクデット獲得に本腰を入れるべく開幕前に大幅な戦力補強を断行。前年から抱えていた選手層の問題を解消し、優勝を狙えるだけの豪華なメンバーを揃えることに成功していた。

 当時のレギュラーは、GKフランチェスコ・アントニオーリ以下、3−4−1−2の最終ラインにジョナサン・ゼビナ(フランス代表)、ワルテル・サムエル(アルゼンチン代表)、ザーゴ(ブラジル代表)、アウダイール(ブラジル代表)。両ウイングバックはカフー(ブラジル代表)とヴァンサン・カンデラ(フランス代表)、中盤センターにはイタリア代表コンビのダミアーノ・トンマージとクリスティアーノ・ザネッティがいた。

 2トップには、ガブリエル・バティストゥータ(アルゼンチン代表)、マルコ・デルヴェッキオ(イタリア代表)、もしくはヴィンチェンツォ・モンテッラ(イタリア代表)。そしてトップ下には、中田のライバルとして立ちはだかったローマの「プリンチペ(王子)」ことフランチェスコ・トッティが君臨。

 これだけの猛者が集うなか、中田の出場機会は限られ、外国人枠の問題によってメンバー外を強いられた試合も少なくなかった。それでも、カペッロ監督が「ファンタジーならトッティ、確実性なら中田」と評したように、中田がチーム内で重要戦力として認められていたことも確かだった。

 そして、スクデットの行方を大きく左右した第29節の2位ユベントス戦。直前に外国人枠が撤廃されたことで、それまでスタンド観戦を強いられることが多かった中田がメンバー入りを果たすと、2点のビハインドを背負うなか、負傷で精彩を欠いていたトッティに代わり、後半途中に出番が回ってきた。

 すると、中田は自ら奪ったボールをそのままドリブルで運び、豪快なミドルシュートを突き刺して反撃の狼煙。さらに、後半アディショナルタイムには再びミドルシュートを放つとこれを相手GKが弾き、こぼれたボールをモンテッラがゴール。華々しい活躍で劇的な同点劇を演出した中田は、一躍ヒーローとしてスポットライトを浴びたのだった。

 世界最高峰のリーグで、しかもローマが18年ぶりのスクデットをほぼ手中にしたその試合のニュースは、世界中で視聴されるCNNやBBCといったニュース専門チャンネルでも大きく取り上げられた。

 おそらく、それをきっかけに「セリエAで活躍する日本人がいる」ことを認知した外国人は多かったはず。ある意味それは、日本人サッカー選手の価値を一気に高めた、ワールドワイドな宣伝になったと言えるだろう。

 実は、ローマがスクデット獲得を決めたパルマ戦の前に、中田はクラブと日本代表の板挟みに遭っていた。

 当時の日本サッカー界は、翌年のワールドカップ地元開催を控えてサッカー人気が過熱していた時期。まだシーズンを戦っていた中田も、W杯のプレトーナメントとして日本と韓国で開催されたコンフェデレーションズカップに臨むトルシエジャパンに招集された。

 当初、カペッロ監督は招集に難色を示していたが、「グループリーグのみ」という条件付きで離脱を承認。そして日本代表のグループリーグ突破に貢献した中田は、フィリップ・トルシエ監督のリクエストで準決勝のオーストラリア戦に出場すると、大雨が降りしきるなか、自ら直接フリーキックを決めてチームを決勝に導いたのである。

 試合終了後、トルシエ監督は再び中田に決勝戦出場を求めたが、結局、中田はスクデット獲得を目前にしたローマに帰還。その後、トルシエ監督が中田の選択に不満を示すなど、当時はメディアやファンの間でも激しい論争になった。

 それでも、ローマがスクデットを決めた試合のピッチに、中田が立っていた意味は大きい。日本人サッカー選手の可能性を世界に知らしめたという意味では、まだ公式大会として世界的に認知されていなかったコンフェデレーションズカップ決勝でプレーするよりも、はるかに重要だった。

◆岡崎慎司が欧州挑戦を継続する理由。辞めどきと指導者への興味も語る>>

 その年の夏、それを証明するかのように多くの日本人が海外に旅立った。

 小野伸二がフェイエノールト(オランダ)、稲本潤一がアーセナル(イングランド)、欧州挑戦2度目の西澤明訓はボルトン(イングランド)、高原直泰はアルゼンチンの名門ボカ・ジュニオルスに移籍。10月には川口能活がGKとして初の欧州移籍を果たし、ポーツマス(イグランド2部)の一員となった。

 日本サッカーの歴史を動かしたのは、まさに中田のスクデット獲得にあったと言っていいだろう。

このニュースに関するつぶやき

  • あぁ思い出した!地元のこっちでもなんだかんだ叩く人いたものなぁ。→
    • イイネ!7
    • コメント 0件

つぶやき一覧へ(1件)

ニュース設定