巨人OBでヤクルト初優勝時の守備の名手。現役晩年、打撃は「新田理論」で開眼した

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2021年06月17日 11:21  webスポルティーバ

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「オープン球話」連載第70回 第69回を読む>>

【お酒は呑まないのに明るく話好きな性格】

――さて、今回からは1978(昭和53)年、広岡達朗監督時代、ヤクルト初優勝時の懐かしのメンバーたちについてお話を伺っていきたいと思います。数多くの個性的なV1戦士がいますが、誰から始めましょうか?

八重樫 1992(平成4)年に50歳の若さで亡くなった船田和英さんはどうですか? 船田さんにはいろいろ思い出があるので......。




――巨人、西鉄を経て、1972年にヤクルトアトムズに移籍。1980年まで現役を続けた後は、コーチやスカウトとしてヤクルトを支えました。背番号25の細身のスタイルがカッコよくてスマートな選手でしたね。

八重樫 船田さんがヤクルトに移籍してきた1972年は、僕はちょうど内野手にコンバートされていて、船田さんとはよく内野練習で一緒でした。ある意味ではライバル関係ではあるけど、とにかく船田さんは守備の上手な人でしたね。若松(勉)さんと仲がよかったので、よく僕も若松さん、船田さんとは遠征先で食事に行く関係でした。

――食事の席での船田さんはどのような方なんですか?

八重樫 船田さんはほとんど酒を呑まないんだけど、酒場の雰囲気は大好きなんですよ。すごくおしゃべり好きで、いつも会話をリードしてくれるんですよね。どちらかというと、北海道出身の若松さんも、東北出身の僕も、お酒は呑むけど、あまりしゃべらないというか、話ベタ。でも、船田さんがいれば常に会話が弾むような感じなんですよ。結局は、ほとんど船田さんがしゃべっているだけなんだけど(笑)。

――確かに、若松さんも、八重樫さんも饒舌なタイプではないですよね(笑)。

八重樫 そうそう。だから当時は内心で、「どうして酒も呑まずにあれだけしゃべれるんだろう?」って思っていたよね(笑)。話題が途切れることなく、次から次へと楽しい話題を振ってくれるんですよ。

――1972年のヤクルト移籍後、船田さんはすぐにチームに溶け込めたんですか?

八重樫 話好きという人柄もあるし、若手にも積極的にアドバイスする先輩でした。あの時代にはそういうタイプの人は少なかったけど、船田さんは同じ内野手の水谷(新太郎)にいろいろ教えていましたよ。あの頃の巨人出身の選手ってプライドが高くて、偉そうにしている人が多かったんです(笑)。でも、船田さんにはそういうところがまったくなかった。僕らからしても、接しやすい人でしたね。

【現役晩年、「新田理論」で打撃が開眼】

――船田さんの経歴を見ていると、V9直前期にレギュラーに定着して"ON"とともに試合に出ていたり、若い頃から実力が認められていた印象があります。

八重樫 とにかく守備が抜群でしたよね。足の運びが上手だったんでしょう。一緒にノックを受けていても、全然違いましたから。僕も、足の運びのアドバイスを受けたけど、なかなかついていくことができかったな。ただ、バッティングはそんなに目立つほうではなかったんです。ヤクルトに移籍してから打撃が開眼した印象が強いんですよ。

――打撃開眼には何かきっかけがあったんですか?

八重樫 広岡さん時代の1976年ぐらいかな? あの頃、ヤクルトの練習に新田恭一さんが来ていたんですよ。「新田理論」って知っていますか?

――プロゴルファーであり、松竹ロビンスの監督も務めた新田さんの打撃理論ですよね。

八重樫 そうそう。あの頃、週に1、2回は新田さんが神宮の室内練習場に現れて、一部の選手に打撃指導をしていたんです。僕は指導を受けなかったけど、特に船田さんが熱心に教わっていて、その頃から打撃がすごくよくなっていったんですよ。

――具体的に、どのように変化していったんですか?

八重樫 バットが鞭のようにしなるというのか、体に巻きつくようなスイングに変わりました。いわゆるインサイドアウトのスイングを自分のものにして、3割を打ったり、長打力がアップしたり、いきなり打撃が向上した。それで、1976年にはカムバック賞も受賞しましたしね。

――1978年の初優勝時にも、大活躍していましたね。

八重樫 前にも言ったけど、1978年に僕はひざを故障していたので、ずっと入院してたんです。入院先のベッドでスポーツ新聞を読んだり、スポーツニュースを見たりしていたんだけど、「また昨日も船田さんが打ったのか」って感じたことを覚えていますね。草薙球場でサヨナラホームランを打ってマジックを減らした試合も印象深いです。

【ベテランになっても、常に全力プレー】

――先ほど、「後輩の面倒見がいい先輩だった」というお話がありましたが、厳格な広岡さんとの関係はどうだったんですか?

八重樫 広岡さんとはフランクにしゃべっていましたよ。そういう選手はあまりいないから珍しかったです。船田さん自身も怠慢プレーは嫌いだったので、ちょっと手を抜いて走るような若手には、試合後に呼び出して「きちんと走らなくちゃダメだろ」と叱っている場面もよくありました。そういう意味では、広岡さんとも野球観が近いというのか、同じような考えを持っていたんじゃないのかな?

――ヤクルト時代の船田さんはベテランの域に達していましたけど、自らも怠慢プレーを厳しく律していたんですか?

八重樫 そうですね。決して手は抜かなかったです。規律が厳しかった頃の巨人のメンバーとして、「全力プレーは当然のこと」という教えが沁みついていたんだと思いますよ。特に広岡さんはそういうところに厳しい人でしたから。広岡さんが言う前に、若手に指導していたから、広岡さんとしても助かっていたんじゃないのかな?

――船田さんは1980年に現役を引退されました。現役晩年の印象は?

八重樫 いつだったのかは忘れちゃったけど、引退前に肉離れをやっちゃったんですよ。その頃から、急激に衰えていった印象がありますね。走塁はもちろん、自慢の守備も、かつてのような足の運びができなくなっていましたから。

――実働19年、38歳での現役引退でした。ご本人としては完全燃焼したのでしょうか?

八重樫 いや、「まだまだやりたい」という思いだったと思いますよ。ちょうどその頃から、水谷や角(富士夫)が出始めてきて出番も減りつつあったし、球団からも「彼らの面倒を見てくれ」と言われたんじゃないのかな? そういう意味では、未練を残しつつの現役引退だったんだと思いますね。

――現役引退後は指導者としてヤクルトで活躍されました。そのあたりのことから、50歳での早すぎる死について、ぜひ次回伺いたいと思います。

八重樫 船田さんの死は突然のことだったので、僕もまだ消化し切れていない部分があります。そのあたりはまた次回お話ししましょう。

(第71回につづく)

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