「俺様柔道が好きです」。病床の父・古賀稔彦が迷う息子・玄暉に送ったメッセージ

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2021年06月20日 07:01  webスポルティーバ

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 今年3月24日、柔道家の古賀稔彦さんが、がんのため亡くなった。「平成の三四郎」と呼ばれ、切れ味の鋭い一本背負いを武器にバルセロナ五輪で金メダルを獲得するなど、記憶と記録に残るスター選手だった。

 その悲しみが広がる中で開催された、4月4日の全日本選抜柔道体重別選手権大会で、稔彦さんの次男、古賀玄暉選手が男子60kg級で優勝を果たした。ヒーローインタビューでは父への想いを語り、大粒の涙を流した。

 柔道家として輝かしい成績を残し、3きょうだいの颯人選手、玄暉選手、ひより選手とも日本一に導いてきた稔彦さんは生涯を通して、何を伝えたかったのだろうか――。6月20日の父の日にあたり、次男の玄暉選手に話を聞いた。

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 自分は、小さい頃から兄(颯人選手)と一緒に父の過去の映像を見ていましたが、父が自身の試合について語ることはありませんでした。父の功績についてはもちろん知っていましたが、本当の意味でその偉大さがわかったのは、それぞれの大会の価値がわかってきた中学とか高校になってからです。

 ただ父の功績がプレッシャーに感じることはありませんでした。おそらくきょうだい3人ともそれはなかったと思います。なぜなら、父はいつも父として接してくれ、柔道家として接していたわけではなかったからだと思います。「柔道をやりなさい」などの強制的な言葉はなく、柔道を始めたのは、父の薦めではなかったです。

 小さい頃から父が開いた「古賀塾」で柔道をやっていましたが、スパルタという感じはなくて、負けたからといって怒られることもなかったですし、他の塾生に対しても負けて怒っている姿は見たことがないです。負けた時には叱らずに、「こうしたらいいんじゃないか」というアドバイスが多かったですね。

 だから道場の雰囲気は、よかったですね。みんなやる気を持って、熱を込めて稽古をしていました。父は基本的におちゃめな性格でしたので、どちらかというと笑いのほうに持っていくことが多かったですね。小学生に教えたら難しいテクニック、例えば細かい組手のやり方などを体に覚えさせられた記憶もあります。

 自分は父と同じく、中学から寮生活を始めましたが、それは兄がすでに寮生活を始めていたからで、自分も自然とその気持ちになっていました。それに対して嫌だなと感じたことはなく、兄が作ってくれた道を後ろから追いかけた感じですね。

 寮生活になってからも、父とは何度も会っていましたが、自分のことを心配している感じはありませんでした。たぶん照れくささもあったと思います。いつも何でもない会話をして、面と向かって励ましの言葉みたいなことを言われることはなかったですね。

 ただ試合の前には必ず連絡をくれました。1回戦に勝ったら2回戦目の前にという感じで、1戦1戦メッセージを送ってきてくれたんですが、「しっかり栄養を摂って体をほぐしてもらって」とか、ちょっとした一言でした。ただ、これをやっておけばいいパフォーマンスにつながるんだなという意識になって、それが励みになっていました。

 自分の柔道スタイルが、一本背負いを武器にした父の華麗な柔道とは違うこともあって、父はよく「玄暉は自分自身で作り上げたスタイルだから、アドバイスすることはそんなにない」と言っていました。だから中学になってからは、メンタル的なアドバイスが多くなっていきました。

 例えば緊張との向き合い方です。自分は高校1年で全国高校選手権で優勝したんですが、そのあとは勝って当たり前の雰囲気も感じていて、2年生、3年生でも優勝しなければいけないというプレッシャーを自分自身で作ってしまっていました。そのせいで試合で緊張してしまい、うまくいかないことがあったんです。




 そんな時に父から、「負けたらどうしようと思うことは、負の感情なので、その感情は今すぐ捨てなさい。相手との具体的な戦い方、どんな技をかけるかとか、どう投げるかとか、一つ一つの試合をしっかりとイメージすることに意識を向けなさい」とアドバイスをもらいました。そう意識することによって、気持ち的に楽になり、負の感情がなくなっていきました。

 あとはケガをした時の考え方です。父はバルセロナ五輪直前に大ケガを負いながらも金メダルを獲得したので、その経験からのアドバイスだったと思いますが、「ケガをして出場するのを迷っているようなら、出場しないほうがいい。相手は死に物狂いで大会に臨んでいるので、厳しい戦いになった時に、気持ちで相手と差が出てしまう。たとえケガをしていたとしても、出場するからには優勝するだけの気持ちを作り上げていく必要がある」とよく言われました。

 それ以外では、「柔道家としての前に、人として成長してほしい」とも言っていました。古賀塾の畳には『礼・心・技・体』と書かれています。『心・技・体』は柔道家としての在り方になりますが、『礼』をあえて付け加えることで、まずは人としての礼儀が大前提にあることを意味していると思います。

 父の病気を知ったのは、2020年3月頃、手術をする少し前です。ただ当時は漠然と「父は必ず治る」と思っていました。父が病気になったという実感はなく、大きな不安もありませんでした。

 父は病気が進行しても、辛い気持ちを隠していたんだと思います。弱気な発言も一切なかったので、最後まで父が亡くなるとは思っていなかったし、それに向き合いたくない自分もいました。

 最後に交わした言葉はもう覚えていませんが、母から伝言として父の言葉をもらいました。それは亡くなる3日くらい前だったと思います。全日本選抜柔道体重別選手権大会が迫っていた時なのですが、その頃の自分は、自分の柔道にビビッていました。

 これまではずっと、『俺様柔道』(※)をしていましたが、いつの間にか「試合に負けてはいけない」という気持ちや、「もう若手という枠ではないんだな」という焦りが出てきて、「内容が悪くても勝てればいいや」という気持ちで戦っていました。全体的に逃げながらの試合運びになっていて、いいところまでいっても勝ち切れなかったんです。
※稔彦さんが名付けた積極的に前に出ていく玄暉選手の柔道スタイル

 父はそんな気持ちを見透かしていたのかもしれません。その頃は病気が進行して、もうしゃべるのも苦しい状態だったのですが、母に自分への思いを伝えて、母がそれを手紙にして渡してくれました。それが、「玄暉の俺様柔道が好きです」という言葉です。

 この言葉によって気持ちがすっきりして、本来の自分の柔道に立ち返ることができました。これまでの試合と全日本選抜柔道体重別選手権大会での優勝は、自分自身でも見違えるほどの変化がありました。

 父は常に何かに挑戦したいという気持ちを持っていて、変化を求めている人でした。引退後に道場を開いたことや、弘前大学大学院で医学博士を取得したこと、日本健康医療専門学校の校長もそうです。家の中の小さいことで言えば、母に代わって僕たちへの食事を率先して作ってくれました。

 これまでの父の行動や言動を振り返ると、父が生涯を通して伝えたかったのは、「柔道が強くなることよりも、柔道を好きでいてほしい。柔道ってすばらしいものなんだよ」ということだったと思います。

 自分の目標は、オリンピックで金メダルを取ることですが、将来的には柔道のすばらしさをたくさんの方々に知っていただくこと、自分もやっぱりそこなのかなと思います。父もそれを望んでいたので、自分もその遺志を継ぐことはできると思います。柔道家として、そんな活動をしていきたいです。

【Profile】
古賀稔彦(こが・としひこ)
1967年11月21日生まれ、佐賀県出身。柔道八段、医学博士、古賀塾塾長。IPU環太平洋大学教授女子柔道部総監督、日本健康医療専門学校校長を歴任。現役時代には、オリンピックに3大会出場し、92年バルセロナ大会では金、96年アトランタ大会では銀を獲得した。世界選手権では2階級制覇を含め計3回優勝を果たした。2021年3月24日に病気のため亡くなった(享年53歳)。

古賀玄暉(こが・げんき)
1998年12月19日生まれ、神奈川県出身。旭化成所属。幼いころから古賀塾で柔道に親しみ、中学からは愛知県の大成中学・高校へ。着実に成長を遂げ、高校1年時に全国高校選手権で優勝し、2年時にはアジアジュニアで優勝を果たす。進学した日本体育大学2年時には、世界ジュニア王者となった。21年3月の全日本選抜柔道体重別選手権で優勝を果たし、この6月には世界選手権にも出場した。

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