夫・徳川家茂を慕っていた皇女・和宮に訪れた悲劇──慶喜による“無視”と家茂に囁かれた“秘密の側室”の存在

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2021年06月20日 14:11  日刊サイゾー

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──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

 前回の『青天を衝け』には、ちょっと驚かされました。「天狗党の乱」の鎮圧においても、想像以上の“慶喜推し”が貫かれていましたよね。

 天狗党が挙兵したゆえに「一橋様を追い詰めてしまった」、だから自分たちは死罪になっても致し方ない……と首を粛々と差し出す武田耕雲斎(津田寛治さん)。憤然としたままだった藤田小四郎(藤原季節さん)とは対照的な死でした。慶喜の冷淡さに対する世間の非難は、ドラマでは描かれずに終わりそうです。この事件の顛末については、今回のコラムの内容とも少し関わってくるので、覚えておいてくださいね。

 さて前回の放送では、将軍・徳川家茂がついに第二次長州征伐のため、上方に出発するシーンも描かれました。史実では慶応元年(1865年)5月です。そして出陣の直前、家茂は義母にあたる天璋院の耳元で何かを囁いていました。これは恐らく、後継者の話なんですね。家茂は(徳川御三卿のひとつである)田安家の亀之助という、当時4歳の少年を、自分の後継者に指名していきました。

 ただ、史実では天璋院ではなく、フジテレビの歴史ドラマ『大奥』のファンにはおなじみの瀧山という奥女中に託されたようです。『青天〜』には残念ながら瀧山の登場はないので、天璋院に伝える流れになったのでしょう。

 4歳の少年を自分の後継者に指名したことから、家茂の中には、慶喜という人物への不信感が募っていたということが明確にうかがえます。『青天〜』の慶喜のキャラはよくも悪くも冷静ということで定まっていますが、史実の慶喜は時局で態度をコロコロと変える、要注意人物というイメージがすでに定着していました。

 慶喜については、天狗党の乱の後始末で世間の悪評を招いている最中というだけでなく、慶喜がかつて協力者たちに「大愚物(=大馬鹿者)」と発言し、幕政改革を頓挫させてしまったことに対する無念など、さまざまな思いが家茂の胸中にはあったようですね。

 家茂はその後、大坂城に入り、幕府に反抗的な態度を見せつけていた長州藩の討伐にあたろうとしますが、頼みの薩摩藩が出兵を拒否するなど、戦局はまともに動かずじまいでした。裏で薩長同盟が結ばれてしまっていたからです。

 膠着状態のまま滞在日数だけが伸びていく中、慶応2年(1866年)7月、家茂は大坂城で倒れてしまいます。そして20日に「脚気衝心」のため、亡くなってしまいました。数え年で21歳の若さでの死ですから、毒殺説などもあるにはあります。

 しかし、昭和33年(1958年)以降、増上寺に埋葬された徳川将軍家の遺骨調査と改葬が行われ、家茂は歯のエナメル質が通常より薄い性質だったことが判明しています。甘い物が大好きという嗜好もあり、彼のほとんどの歯は(重度の)虫歯だったそうです。当時は治療手段もありませんから、重度の虫歯が敗血症を起こし、それが本当の死因となった可能性も否定できないでしょう。

 家茂の死は世間には1カ月の間、秘密にされました。幕府にとって、旗色の悪い戦局の中で将軍の死がもたらすインパクトは大きすぎるからです。しかし、家茂重体の知らせは7月上旬には江戸城に極秘裏に伝えられ、和宮を驚かせました。和宮は家茂の病気平癒を願い、お百度参りをはじめ、江戸から漢方医を急使で送りました。

 しかし、現代とは比べ物にならないほど当時の通信状況は悪く、家茂の容態をまともにつかめないまま、和宮のもとに届いた次の知らせは彼の死を告げるものでした。7月25日のことです。訃報を受け、和宮はすぐに剃髪を決心します。家茂の生母・実成院の切なる願いで、毛先だけを切る略式の剃髪に留めることになりましたが、和宮の毛髪だけは大坂に送られ、家茂のお棺の中に収められることになったのです。

 しばらくして、家茂の遺品が江戸に送られてきました。この時、荷物の中に彼が事前に買い求めていた西陣の織物があることを見た和宮は、

「空蝉(うつせみ)の 唐織ごろも なにかせむ 綾も錦も君ありてこそ」

と悲しみを歌の中に迸らせました。“美しい織物を贈ってもらっても、それはあなたが生きていてくれるからこそうれしい代物。あなたを失った今、私は魂が抜けたセミの殻のようになっています”くらいに意訳しておきましょうか。

 京都御所から、和宮には帰京の要請が来ますが、当初、彼女はこれをためらいます。徳川の身内として、まだ自分には果たすべき使命があると感じていたようですね。先述の通り、天璋院率いる大奥では、4歳の田安亀之助を(家茂の遺言通り)後継者にすべきという流れがありました。しかし当初、和宮は、難しい時局だから少年将軍では危険だという正論を天璋院に訴えています。

 過去には天璋院と和宮には「対立」もありましたが、当時はすでに和解していました。二人は共闘関係にあり、家茂の遺志を継いだ天璋院が和宮を最終的に説得するに至ります。天璋院はこの時、田安亀之助を将軍にするだけでなく、(慶喜に怒り、彼とは距離を取っていた)越前福井藩の松平春嶽を後見人にすることで、慶喜が一度壊してしまった「国内の有力者による運営体」として幕府を再生させる計画があることを説明し、和宮を納得させたのではないか……とも考えられています。これらが実現すれば、反抗的な薩摩藩(天璋院の実家)をもう一度、“身内”に取り込み、長州藩などと引き離すことができますから、幕府は起死回生できたかもしれません。

……しかし、大奥からの提案を幕府の役人たちは拒絶し、老中・板倉勝静(いたくら・かつきよ)らの強い推挙によって徳川慶喜が第十五代将軍になることが決定します。この頃すでに天璋院は、大奥に老中たちを呼びつけ、互角にディベートするなど、「表」の役人たちにもムシできない大きな存在になっていました。当時の天璋院は将軍未亡人であり“大御台所”と呼ばれていましたが、そういう立場の女性が老中たちと(記録に残る形で)政治的な議論を行ったのは、これが最初だったともいいます。

 天璋院率いる大奥への配慮として、慶喜の継嗣は田安亀之助とすることになりました。ただ、慶喜は最後の将軍ですからね。事態は大奥が考えていた以上に早く進み、幕府は瓦解してしまうのですが……。ちなみに大河ドラマ『篤姫』(2008)などでも(ほぼ)最後まで大奥に残っているように描かれていた奥女中・瀧山ですが、最近の研究では、慶喜が将軍になったことをきっかけに辞職し、城の外に出ていったようです。

 天璋院は最初から慶喜への不満を隠しませんでしたが、一方で和宮は彼に対し、外国人の江戸市中往来の禁止など、できることから「攘夷」を行ってほしいと願う手紙を送っています。しかし慶喜は手紙を完全ムシ。実に失礼な態度を取るのでした。

 こうして和宮は、孝明天皇の妹として、天皇の考える「攘夷」と、その実行役であるべき幕府との橋渡しとなる役割を自分では果たせないことを悟り、京都に帰ることを決意するのです。

……これが、和宮が帰京を決意した表向きの理由です。しかし、実は大坂城から、家茂の遺品が送られてくるとともに怪しい噂も和宮のもとに届き、亡夫・家茂に激しく失望してしまったから、という不穏な話もあるのですね。

 家茂と和宮の結婚期間は約4年でした。度重なる上洛などを家茂はこなしていましたから、彼が江戸城にいられる期間は案外短く、2年ほどが和宮と共に過ごした時間となります。残念ながら、二人の間に子供は生まれませんでした。すると、瀧島という大奥の老女(=御年寄)の一人の血縁にあたる、お蝶という16歳の少女を側室とするべく、“お見合い”が家茂との間に行われたというのです。家茂はお蝶を、小柄すぎる(=まだ子供だ)などといって拒絶したそうですが、一方で、家茂が出張している大坂城に秘かに連れていかれたお蝶が実は懐妊していた?……という怪情報もあり、和宮はこれを耳にしてしまったとも囁かれました。

 いかに江戸城の最高権力者である将軍・家茂であっても、側室というのは、将軍正室である和宮の同意があってはじめて持つことができる存在です。なのに、自分が知らないところで家茂が側室を隠し持っていたことが事実だったとしたら、和宮の失望は大きなものだったでしょう。

 ちなみにその後の和宮は、京都に一度帰ったものの、徳川家の存続のために江戸/東京に舞い戻り、関東で亡くなることになります。彼女の死については、いくつものミステリーがありますので、機会があればお話してみたいですね。

<過去記事はコチラ>

このニュースに関するつぶやき

  • 一時的になんとかしても、あとが全くない幕府側……あえて言えば、1945年8月の日本に「諦めたらそこでおしまいだよ」と言うようなもん
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  • 和宮の棺から出てきた家茂の写真。について考えた。机の上に一晩置いたら消失は恐らく嘘。硝酸銀はその程度では消えない。長い間湿気を帯び劣化した膜面を拭いたんじゃないかな
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