室町時代の日本人はめちゃくちゃ荒っぽかった? 明大教授が語る、ハードボイルドな日本人像

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2021年06月26日 12:01  リアルサウンド

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清水克行

 清水克行の歴史エッセイ『室町は今日もハードボイルド』(新潮社)に取りあげられている中世の日本人は、現代の日本人像からあまりにかけ離れている。まるで、マンガ『北斗の拳』や映画『マッドマックス』のような世界観のようにもみえる。


参考:天竺=インドではなかった? 研究者・石崎貴比古が明かす、日本人の天竺観の変化


 農民が武器を手に隣村と戦(いくさ)をしたり、行きかう船から通行料をせしめる「賊」が横行していたり。家族のなかでも、人身売買で人が財産として扱われたり、夫の浮気相手を妻が仲間を引き連れて襲撃したり。室町時代(1336年〜1493年)の日本人は、とかく荒っぽかった。


 彼らはなぜ、ハードボイルドだったのか。なにゆえアナーキーでアウトローな生き方をしていたのだろうか。歴史学者で明治大学教授でもある著者に話を聞いた。(土井大輔)


■「武士道」からも現代の価値観からもかけ離れた行動


ーー室町時代の人たちには、どのような面白みがあると考えていますか?


清水克行(以下、清水):たとえば、本書には堅田イヲケノ尉(かたた・いおけのじょう)なんて、面白い人物が登場します。この人は桶屋さんなんですけど、相撲の興行師や盗賊団の親方など、いくつもの裏の顔があって闇の世界にも通じている。しかも戦さの心得もあって、無法者集団にひとりで突っ込んで、敵をぶった斬っちゃうんですね。


 また、斯波義信(しば・よしのぶ)という人は、名門の武家なんですけども、落ちぶれちゃうんです。するとお寺にお金をせびりに行く。せびれないとわかると「切腹する」と言い出すんですね。ここで切腹されたらたまらないと、お寺がいくばくかのお金を渡すと、ニコニコ笑っていたというんです。切腹は本気じゃなかったんですよ。


 彼らはのちの「武士道」のような価値観からすると、明らかにはずれているんですよね。だけど人間臭くて、そこが面白いんです。


ーー身勝手というか、好き勝手やっていますね。


清水:のちの江戸時代や幕末の人は、わりと合理的な行動をとるんです。だから現代人の我々が感情移入をしやすい部分があるんですけど、室町時代にはいろんな価値観があったので、現代人では共感できない行動をとる人もいっぱいいるんですよ。


 たとえば、我々は人の命の重さをなによりも重要だと考えるわけですけれども、彼らは必ずしもそうじゃないわけです。そういう、現代人の価値観で推し測れない魅力がありますね。


ーーそんな「ハードボイルド」な室町時代を生きた人たちが大事にしていたものはなんなのでしょうか?


清水:自分の利益、家、名誉といったものでしょうね。逆に見返りのない組織への忠誠はあまり大事にしないんです。基本的な生活の単位は守るんですけど、彼らには組織とか国家というものへの帰属意識は希薄です。


「肌感覚として共有できるもの」に対する連帯感は強いんですけれど、それを超えた、抽象的な次元からの理不尽な圧力にはそうそう簡単に応じない。それって現代人が忘れている大事なことなんじゃないかなっていう気がするんですけどね。


ーーたとえば、会社の不正をひとりで背負い込んで責任をとる……なんてことはなかったわけですね。一方で、人身売買も行われていた。


清水:残念ながら、どの社会にも人身売買というのはあったわけです。ただ、それを倫理的な観点から「悲劇」というのは簡単なんですけれども、そこには彼らのなかでもひとつのロジックがあることを忘れてはいけないと思います。 生きていくために自分の自由を売って奴隷になることにはもちろん抵抗はあるけれど、死ぬよりはまし。しかも、我慢すれば、ひょっとしたら、またふつうの人に戻れる可能性もあるわけです。


 要するに、食うことに精一杯だった時代のなかでは、人身売買もある種のセーフティネットとしてあり得た選択肢だったんです。その点は、現代から善悪の価値観を持ち込むことなく、見ていく必要があるだろうと思っています。


ーー室町時代といえば「一休さん」のイメージしかなかったので、本を読んで驚くことが多かったです。


清水:そうですよね。ひとつには戦前に天皇中心の歴史というものが語られた時に、足利幕府(=室町幕府)は天皇から権力を簒奪(さんだつ。君主の地位を奪いとること)しているというので、長く悪者とみなされていたわけなんです。


 ですから戦争中も、この時代にはネガティブな評価しか与えられていなかった。戦後もそのアレルギーみたいなものがあって、「首を突っ込むとめんどくさい」ということで、荘園史や文化史などの一部の分野を除いて、研究者から敬遠されていたのでしょう。終戦から70年以上が経って、ようやくいろんな研究者が出てきたというのが、いまの状況だと思います。


ーーそんな室町時代を表現するにあたって、「ハードボイルド」という言葉を選んだのはなぜですか?


清水:以前、ノンフィクション作家の高野秀行さんとの対談が『世界の辺境とハードボイルド室町時代』(集英社)という本になったんです。このタイトルの元ネタは村上春樹さんの小説『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』なんですけど、そのとき高野さんが「ハードボイルド」って言葉いいよね、と気に入っていたんですよね。


 というのも、この本は高野さんが訪れた現代ソマリア社会と私が研究している日本の室町時代って、そっくりだよね、という本なのですが、この二つの社会の荒々しさって、よく「ヤクザみたいだ」とか「暴力団みたいだ」と形容されてしまうことが多いんです。でも、二人とも、それはちょっと違うんじゃないかと。ソマリアは縦社会ではないし、室町時代も上の命令が絶対というわけでもないので。強いていうなら「ハードボイルド」と呼ぶのが、いちばんしっくりくる。それに「ハードボイルド」というと、ちょっと対象への愛情を感じるじゃないですか。そこで、今回もそれを使わせてもらったんです。


■歴史もロングショットでとらえれば滑稽に見えてくる


ーー室町時代の人たちは、なぜにここまで荒っぽくて、自由だったのでしょうか。


清水:本来的にどの社会も、高野さんが見た現代のソマリアにしても、人間の社会って「文明」という外皮をまとっていて、それをひと皮めくってみると、どの社会も似通っているんじゃないかと思うんです。


 だから室町時代だけが、日本人だけが特殊だったわけではなくて、 どこの人間の社会に共通する部分があって、それがよく出ているのが室町時代なんじゃないかなと思っています。それはただ野蛮なだけじゃないんです。たとえば復讐をまったく野放しにする社会というのはどこにもなくて、どこかで必ず慣習的な歯止めをかけているんですよね。死者の数が同じになったら引き分け、とか。日本で言えば喧嘩両成敗のような、そういうプリミティブ(原始的な)なルールみたいなものが、ソマリアにも室町時代にもあるんです。


ーー日本に限らず、どの社会も文明が成立するまでに荒くれ者たちの時代を経ているということですね。


清水:よく、古代は律令制度で国家がしっかりしていて、それが中世はゆるんで、近世になると江戸幕府でまた固まってくるという、波を描くように時代が変わってきたイメージを持たれることが多いんですけれども、そうではなくて、基本的に徐々に長いスパーンで文明化を遂げているんです。室町時代から戦国時代というのが、ちょうど野性から文明への緩やかな転換点になるんじゃないかなと思うんですよね。


ーーそう考えると、フィクションで室町時代を描くのは難しそうですね。そのまま現代の価値観に当てはめられなさそうで。


清水:そうですね。ただ僕は、大河ドラマとか歴史小説で主人公に感情移入をしたり、一喜一憂したりするというのは、それはそれでいいと思うんですよね。それは現代小説の登場人物に自分を投影させるのと同じことで。それを「歴史的には本当は…」っていうのは野暮な気もしていて。


 ただ、歴史には怖いところがあって。以前、ある政治家がなにかの政策を立ち上げる時に、「ここは桶狭間で行くぞ」というような表現を使ったんですね。要するに、「一気呵成にやるぞ」って、役人にはっぱをかける意味で言うんです。


 ところが、桶狭間の戦いは実際は奇襲作戦ではなかったっていうことは、すでに研究のうえで明らかになってるんです。にもかかわらず、小説なんかの世界では織田信長が少数の兵で大きな敵を奇襲攻撃で倒したと、語られ続けている。


 政治家や経営者には歴史を好きな人が多いじゃないですか。そういう人が古い歴史のイメージを無批判に現代に持ち込むというのは、すごく怖いことだと思います。明らかに無謀な戦略に歴史的な根拠が与えられてしまって、彼らの下で働く人たちが現実にそれに基づいて突っ走らされることを考えると、そこはもっと慎重であるべきでしょう。


ーー逆に、室町時代の人たちと現代の人たちのあいだに、通じる部分はありますか?


清水:たとえば、室町時代に生まれた狂言なんか見ていると、家来が主人に一杯食らわせるというような場面がよくあります。主人に仕えながら、ちゃっかりピンハネをしていたり、命令を聞いているふりをして、勝手なことをしていたり。それは「下剋上」とか、室町時代の人々の「たくましさ」だっていわれるんですけれども、見方を変えると、現代の会社のなかでの上司と若い人たちのカルチャーの違いによって生じるギャップと大して変わらないのかなと思います。上司が飲みに誘ったら、若い人は「いや、デートがありますから」ってさらっと帰っちゃうみたいな。


 一方では組織とか伝統というものを守る人たちがいて、それに対して、いや自分の生活のほうが大事です、自分の感覚を大事にしたいですと臆面もなく言う人たちが出てくるというのは、やっぱりいつの時代もあるんです。


 それらはクローズアップで見ると、ある種の悲劇なんですよね。ところがチャップリンが「人生は近くでみれば悲劇だが、遠くから見れば喜劇だ」と言ったように、ロングショットで見ると、それって極めてもおもしろい世代間対立で、コメディにもなるんです。


 僕は基本的に、歴史をロングショットで見たいんです。この本でも人が死んだり、出家して命を絶ったりとか、クローズアップで見るとすごく悲劇的な話も多いんですけど、研究者である以上、なるべく俯瞰(ふかん)して見たい。引いてみると、当人たちは真剣でも、おおむねシニカルだったり滑稽な話になっちゃうんですよ。「本当にこの書き方でいいのかな」と思う部分もあるんですけれども。でも、歴史ってそういうものなのかもしれないという気はしていますね。


このニュースに関するつぶやき

  • 間抜けな記事だ。中世のころなんて世界中どこでも生存競争による闘争だらけだ。無暗に殺したり奪ったりしないことがルールになってきたのは、18世紀ぐらいから。
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