大島康徳の飾らない素顔。「運命の糸に逆らわずに乗っかった」高校生は偉大で気さくな野球人となった

1

2021年07月12日 11:21  webスポルティーバ

  • 限定公開( 1 )

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

webスポルティーバ

写真写真

「今日のところは、これくらいで勘弁してもらってもよろしいでしょうか」

 毎回、1時間強の取材を終えると、満面の笑みで言われた。どこか、いたずらっぽい表情が入り交じる時もあった。超一流の数字を残した野球人のなかで、大島康徳さんほど笑顔が似合う方はいなかったのではないかと思う。




 大島さんは、大分・中津工高から1968年ドラフト3位で中日に入団した。1983年に本塁打王を獲得するなど強打者として活躍し、2度のリーグ優勝に貢献する。1988年からは日本ハムでプレーして1990年に通算2000本安打を達成。1994年に引退するまで26年間の現役生活を送り、実働24年で2204安打は歴代19位、1234打点は23位、382本塁打は22位──。

 普通、これだけの実績を積み上げた球界OBに取材する場合、筆者のようなライターは困難が少なくない。新聞記者の方なら、解説者として野球の現場にいるOBの方と面識があったり、何度も挨拶を交わしたりしていて、その存在に慣れている部分はあるだろう。だが、雑誌などで書くライターは単発取材となり、常に初対面になるし、慣れなどあるはずがない。

 初対面ゆえ、どんなに準備万端で臨んでも緊張する。筆者はこれまで100人近いOBの方にロングインタビューをしてきたが、今もそれは変わらない。まして大御所クラスになると強烈な個性が前面に出ていて、オーラがあり、眼光も鋭く、つい怖気づいてしまう。

 代表的な方といえば、金田正一さん(元国鉄ほか)、王貞治さん(元巨人)、江夏豊さん(元阪神ほか)......。金田さんにはいきなり「誰の紹介で来たんや?」と睨まれてしまい、緊張を通り越して言葉が出なくなってしまった。

 大島さんはそんな金田さんとは名球会でつながっていて、中日時代はONが中心の巨人と戦い、江夏さんとは何度も勝負していた。日本ハムの監督時代には審判の判定に抗議して退場処分となり、興奮状態から体調が急変して救急車で運ばれて入院。翌日は病院から東京ドームに直行したこともあった。それぐらい熱い方だから、きっと取材するのは大変だろうと思っていた。

 初めて大島さんと面と向かったのは、日本ハムの監督を退任して解説者になっていた時だった。野球雑誌のウェブ版でコラムの連載をお願いすることになり、筆者が構成担当になった(携帯版『野球小僧』/白夜書房/2012年6月まで配信)。指定された取材場所が新宿の高層ホテルだったから、さすが大御所......と思っていた。しかし、ラウンジに現れた大島さんは気さくで表情も穏やかで、「どうも」と言われた途端に緊張が解けた。

 長身でスマート、若々しい服装にも高級感がある。テレビで見てきたあの大島さんだ......と色めくようなオーラもある。だが、こちらが威圧されるものではなく、初めて言葉を交わしたにもかかわらず、自然な雑談から始まってすんなり本題に入ることができた。毎回の雑談中、「ところで、今日は?」と大島さんが発するひと言が取材の始まりの合図になった。

 コラムの一貫したテーマはバッティング。きっと熱く激しく語ってもらえるだろうと想像し、タイトルを<大島康徳の打激論>とした。活躍して注目のバッター、不調のバッター、各チームの打線などについて詳しく解説してもらった。しかも、何を話題にしても必ず笑いどころがある。ゆえに対話自体が愉しく、そのような雰囲気になる野球人は大島さんだけだった。

"愉しい"といえば、言葉と表現の面白さもそう。今でも忘れられないのが「邪魔なボール」という表現だ。右バッターの大島さんにとっては、自分の体のほうに曲がってくるシュートが邪魔で「このボールさえなければ外の甘い球を打てたのに」と思っていたとのこと。当然、それでも打とうと努力した話になるのだが、結局、邪魔は邪魔のままだったという。

 そのように、現役時代に打てなくて苦労した話をはじめ、オフの過ごし方で失敗した話など、自身にとってマイナスの内容も正直に洗いざらい話してくれた。ときに恥ずかしそうに打ち明けることもあったが、何より感じたのは潔さ。公開できない裏話などはまず語られることなく、毎回、大島さんの直言をすべて生かさせてもらった。

 潔さの原点と思える話を聞いたこともある。大島さんが野球を始めたのは高校に入学してからで、中学時代はバレーボールや相撲をやっていた。『大島康徳の打激論』(携帯版・野球小僧/白夜書房)ではこう記している。

<高校に入学してから野球を始めた僕にすれば、よくプロからの誘いがあったよな、です。今のように情報網が発達していない時代、甲子園出場もないから全国的にはまったくの無名。テストを受けてのドラフト3位指名だったとはいえ、スカウトの方もよくそんな僕を発掘してくれたなと思います。ただ、僕自身のなかに「指名されてうれしい」といった気持ちはなかったんですね。

 自分としては大学に進んで野球を続けるのが第一希望で、それも特にどこの大学というのはなかった。超一流のところに行って二番手、三番手になるんだったら、二流のところに行って一番手になって目立ったほうがいい──。そのぐらいの考えでいましたから。

 おそらく、担当スカウトの方と当時中日の二軍監督だった本多逸郎さんからの助言がなければ、僕のプロ入りはなかったでしょうね。その意味では、運命の糸に逆らわずに乗っかったようなところがあります。だから、入団が決まったあとも変な気負いやプレッシャーはなく、かなり楽な気持ちでプロの世界に飛び込んでいったわけです>

 このプロ入りの経緯を踏まえると、守るものは何もなかったといえばいいのか、無欲だったのだと気づかされる。まさにそこが潔さにつながると思うのだが、それにしても高校から野球を始めた選手が超一流のプロ野球選手になって、監督まで務めたのだ。あらためて、相当の練習と勉強をした方なのだと感じるし、選手として26年間、監督として3年間の軌跡は"奇跡"でもあると思う。

 連載が続いて5年ほど経った頃。初めて一緒に食事をする機会に恵まれた。JR中央線沿線にあるご自宅近くの料理店に編集者とともに招かれると、大島さんの奥様、ふたりの息子さん、さらには親しい友人の方々も同席していた。大島さんはお酒を飲みながら熱く語ることもあったが、終始、照れたような表情で過ごしていたのが今も記憶に残っている。

 取材場所が変わったのはその後のことだった。新宿の高層ホテルからご自宅近くの喫茶店になった。雑談の内容が家の改装工事のことだったり、息子さんの進学や就職のことだったり、大島さんとの距離が文字どおり縮まった気がした。

 10年間続いた連載が終了して以降、お会いする機会に恵まれず、年賀状のやり取りだけになっていた。もう新年の挨拶もできなくなったのは寂しい限りだが、今はただ感謝の念だけがある。大島さん、ありがとうございました。

    ニュース設定