宮間あやが忘れられない澤穂希の言葉。ドイツW杯直前に「今獲らなきゃいつ獲るの?」

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2021年07月24日 11:21  webスポルティーバ

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 宮間あや−ー彼女ほど誰かのために走り、怒り、笑い、泣ける選手に出会ったことがない。針に糸を通すようなパスを出し、合わせるだけでゴールにしてしまう多彩なキックを放つ。ピンチの時には最終ラインで体を投げ出す姿を何度も見た。例え疎まれようとも伝えるべきことは心を鬼にして伝える。けれどその厳しさの裏には誰よりも繊細な心を持ち合わせていた。厳格なイメージがあるかもしれないが、献身的であり、努力を怠ることはなく、"代表"に全力で向き合ったプレーヤーだった。

 2016年シーズンを最後に、ピッチを退いた宮間にとって、2011年のワールドカップ優勝はどんなものだったのか。あの1カ月、生粋の挑戦者として戦ったからこそ見えたものとはーー。10年という年月を経て、「ようやく楽しかったと振り返られる」と宮間は笑顔を見せながら当時の記憶を紡いでくれた。




――18歳から長らく日本女子代表という場所でプレーしていましたが、月日とともに立場もどんどん変わっていきました。

「最初は完全にお姉さん選手にぶら下がっているだけでした。5、6年はずっとベンチでしたけど、その頃から"代表"というものは私にとって特別でした。入ったばかりの頃はチームが勝つことに対して直接自分の力は全然足りないから、どうしたら役に立てるのかばかりを考えていましたね。当時はスタッフの人数も少なかったので、食事の管理とかもやらせてもらってました。途中で補食のゼリーをつまみ食いしたりしたこともありましたけど(笑)」

――確認ですけど"チームのため"ですよね(笑)?

「(女子サッカーでは)当時ゼリーの配給なんて超貴重で、使わなかったらすぐ冷蔵庫に入れておくんです。でも、飲みなれてないから意外と減らなかったりして、3試合目あたりになってくると荷物が重く感じてくる訳です。そうすると『飲んで減らすか......』となる(笑)。『すみません! どなたかゼリー飲まれますか?』って聞いて回って『飲んでいいよ〜』と返ってくると『すみません! いただきます!』って感じで減らしていくんです」

――お腹は膨れるし、荷物は減る。一石二鳥ですね。

「試合後は荷物をいかに早く運んで、グラウンドから出てもらうかが重要だったからです(笑)。それくらいしか自分にはできなかったから。練習の時はできないながらも対戦相手になれるように必死でした」

――2008年の北京オリンピック(4位)で、キャプテンの池田浩美さん、加藤與恵さんといったチームを鼓舞してきた選手が引退して、新しいチームの戦い方を模索していました。2011年はその形が見えた感覚だったのでしょうか?

「本当のことを言えば、チームの方向性は大会中に形になっていった気がしますが、サッカー的には形になってなかったと思います。ほぼ"ド根性物語"って感じでした」

――見方を変えれば、全力の根性であそこまで戦えるということを証明したとも言えますよね。

「そうですね。なおかつ、全員で連係して数的優位を作り続けるという他の国とはまったく別のやり方だったっていうのも加えれば(笑)」

――あの大会で最も印象に残っているのは?

「一つですね。大会前にドイツについてすぐ、(澤)穂希さんと2人で話してる時に『私はこの大会を獲れると思ってる。ていうか、今獲らなきゃいつ獲るの?』って言われた時です」

――その言葉を聞いてどう感じました?

「それについてどうこうっていうよりは、この人が言うならそうなんだろうって思いました。ほら、彼女には第六感があるから(笑)。私は穂希さんが言うことに疑念はない!っていう人間なので、特に理由は必要なかったですね。その言葉によって何か自分の中で変わった訳じゃないんですけど、優勝セレモニーの後にゴールドテープの中をひとりで歩いてる時にふとそのことを思い出したんです。そこでやっぱり思いましたよ、『そういえば、あの人あんなこと言ってた! やっぱすごいな......』って」

――みなさんに印象深い試合を聞くと、第3戦の唯一の敗戦となったイングランド戦が多かったんです。

「ホントに!? 私はずっとドイツ戦で『ファウルをしないこと』って考えていたのを思い出しますね。だってペナルティエリアの中でほぼ相手を抱きしめてましたもん(笑)。あの時代にVARがなくてよかった......あったら私とサメ(鮫島彩)はピッチに残ってなかったと思います」

――デュエル(1対1の競り合い)で思い出すのは?

「やっぱりそれはアメリカかな。アメリカでプレーしていたという個人的な経験もあるけど、それを切り離して考えても真正面から日本を受け止めてくれた相手でしたから。ドイツ、フランスもすごく強かったけど、『本当に私たちのこと見てくれてる?』って感じがありました。アメリカはちゃんと受け止めてはじき返してくれた。だから隙がなかったんです。アリー・クリガーとか、対峙するのは楽しかったですね」

――楽しかったんですか?

「1対1に見えて全然1対1じゃないんです。右のクリスティ・ランポーンとかのカバーリングの位置とか、ホントにあの人たち紐でつながってるようにサッカーするんです。特に守備は。サメが来た時のアリーの身体の向きとか目線、その駆け引きが楽しかった。で、その奥にGKのホープ・ソロが反対サイドに指示を出してる。そのシーンとかは11年のサッカーを考えた時にパン!って思い出しますね」

――アメリカに対してそういう組織的なイメージを持っている人は少ないかもしれないですね。

「フィジカルでアビー・ワンバックが......ってイメージですよね。でも違う違う!あのチームの組織力はすごかったですよ」




――アメリカにあのサッカーをやられちゃうと、日本はどうしたらいいんだって思いました。

「そうなんですよ!でもボールを取られてもそれを追いかけることさえ楽しかったんです。シャノン・ボックスのタックルが(阪口)夢穂の足に入るのとかを見るじゃないですか。『夢穂が食われる。避けて〜!』って思うんですけど、夢穂は当然避けない!みたいな(笑)そういうのが本当に楽しかった」

――あの大会ではずっとサブ練習をそばで見たり、声をかけたりしてました。

「あまりにも出てる選手と出てない選手の経験の差があったし、自分もサブが長かったから気持ちもわかる。アテネオリンピックでは最終メンバーから外されてますしね。本当にあの23人全員にドラマがあって、全員の見え方がある。きれいごとじゃないからサブの選手はもどかしさもあったと思うんです。それもすべてひっくるめてこのチームで優勝したいと思ったっていうか、願っていました」

――それが叶いました。

「うれしかったんですけど『やったー!』って感じるのは一瞬でした。その1カ月後にあったロンドンオリンピック予選が怖すぎて......。余韻というか、もはや威嚇で勝ったような予選でしたけど。でも、世界一になったあのワールドカップは10年経って今ようやく『いい大会だったな』と思えています(笑)」

――今だから聞きたいことがあります。自身の向上を考えたらアメリカで、もう一度プレーする道もあったと思うんです。でも、日本に戻ってきてからは最後まで岡山湯郷ベルというチームを選びましたよね。自分のプレーのギアアップと、若手選手の引き上げの両立は簡単ではなかったですよね?

「日本にいても成長はできると思いました。だって対戦相手はみんな自分たちよりも強いチームばかりでしたから。そのためにしたことは、スポーツ科学的に言うと間違ってるのはわかっているんですけど、休まなかった。止まるのが怖かったんです」

――それでも最終的にリスペクトするアメリカのサッカーに身を置く決断はしなかった。

「毎年毎年めちゃくちゃ悩んでいましたよ。正直サラリーもめちゃくちゃいいですし(笑)。でも今思うと、多分自分は日本のためにサッカーがしたかったのかなって思います。日本代表がすべてだったから」

――代表チームは日頃一緒にプレーできないから、意識を合わせるのも苦労があるじゃないですか。

「苦しいですよ。意思の疎通は取れないし、練習もキツイ(笑)。でも代表チームはリスペクトする場所でなければいけないと思います。自分が日の丸の役に立てないなら外されるだけで、現役でいる限りはそこで戦いたいと思ってました。その想いに濃淡はあるだろうけど、そういうものだと思ってましたし、今でも思ってます。これは最初に代表に入った時に教わりました。今のなでしこジャパンのコーチの大部(由美)さんに」

――彼女は今もそれを伝えてますよ。そういう想いがあるからあの献身的なプレーにつながるんですね。では最後に。改めて今、あの大会はどんな大会だったと感じますか?

「一番応援してもらえた大会でした。負けてもおかしくない試合も実際ありましたよね。東日本大震災があったということもありますが、本当にいろんな人の力が働いていることを感じる大会でした。そして、あの大会があったからこそ、どんな状況になっても絶対に信用できる仲間を得られました。これに尽きます」

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