冨士眞奈美「当初はとても嫌だった」芸名の由来と、“大御所”との交流を語る

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2021年07月25日 11:00  週刊女性PRIME

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写真冨士眞奈美 20代のころ
冨士眞奈美 20代のころ

 女優・冨士眞奈美が語る、古今東西つれづれ話。今回は、芸名の由来となった生まれ故郷・静岡県三島市、そして三島に魅せられた五所平之助監督との思い出を綴る。

デビュー当初の芸名への抵抗感と
故郷への思い

 冨士眞奈美──。この芸名は、さまざまな富士山を眺望できる、私の出身地、静岡県三島市から名づけられたもの。デビューするにあたってNHKの芸能部長さんが命名してくださったのだけど、実は当初、私はこの芸名がとても嫌だった(笑)

 だって、「富士食堂」とか「富士の湯」みたいじゃない? 今でこそ左右対称でいい名前だなって思えるけど、当時はなんだか女優とはかけ離れた、大衆的なイメージを想起させる「富士」が、名前になることに抵抗感があった。

 ただし、富士山、そして生まれ故郷の三島は大好き。三島といえば、伊豆半島の入り口。清流、鰻が有名かしら。街並みはとてもきれいで、“静謐(せいひつ)”という言葉がよく似合う街だと思う。今昔が重なり合った様子は、きっと歩いているだけで気持ちが楽しくなるはずよ。

 三島の歴史は深くて、豊か。

 旧東海道で、小田原宿から箱根宿、三島宿までを『箱根八里』と呼び、“天下の険”と唱歌に歌われるほど。『三島女郎衆』は農兵節で有名。箱根峠を境に、小田原、箱根側を「東坂」、三島側を「西坂」というのだけれど、自然豊かな景観や杉並木、三島大社などの史跡が点在し、その文化の薫り高さは三島の市街地にも根づいている。

 三島は、戦災を免れた点も大きい。隣の沼津は空襲に遭い、真っ赤に燃え上がった地獄の花火のような空を子ども心に覚えている。ところが、三島はまったく被害に遭わなかったので、三島宿時代の面影が今に残っている。

 そんな三島の雰囲気に魅せられた人は少なくない。日本初のオールトーキー映画『マダムと女房』などを手がけた巨匠・五所平之助監督は、三島に惚れて、住み込んでしまわれたお方。

巨匠・五所監督からかけられた
忘れられない一言

 五所監督とは、私がデビュー間もないころ、尾崎士郎の『ホーデン侍従』を映画化した『欲』という映画でご一緒させていただいたことがあった。実は、このとき私は父が危篤状態に陥ってしまい、ロケ先の島根県で、不安のあまり毎日泣いていた。

 そんな私に対して、五所監督は、「人はいずれ死ぬんだよ。君も僕も死ぬんだ。君が泣いていて仕事ができないと、お父さんも悲しむよ」としみじみ声をかけてくださった。父は、間もなく息を引きとったけど、その優しいお声が、いまでも忘れられない。

 20歳になるかならないかで出演した『欲』は、伴淳三郎さん、森繁久彌さん、三國連太郎さんといった、錚々たる俳優陣がキャストに名を連ねていた。

 私は、伴淳さんの娘役。そして、伴淳さんのお友達役として千田是也先生が出演していらっしゃった。千田先生は、東野英治郎さんらと俳優座を創立し、亡くなるまで同座代表を務めた方。つまり、俳優座養成所で教えをこうた私からすれば先生であると同時に、神様のような人だった。築地警察署で拷問死したプロレタリア作家の小林多喜二さんの遺体を引き取り、デスマスクを製作したことでも知られる御仁でもある。

 伴さんと私が一緒にいるところに、お友達である千田先生が訪れる──というシーンだったのだけれど、本番が始まる前にセットの隅で準備している千田先生を拝見すると、緊張でガタガタと震えているお姿が見えた。

 神様が震えている。その姿に衝撃を受けた私は、常に初心の気持ちを抱いて、現場に臨むことの大切さを、そのとき教えていただいたのだと思う。忘れられないお姿。感動した。

 私が生まれ育った生家が、年内中に取り壊しになるという。人が年老いていずれ死ぬように、ものもいつかは朽ちていく。でも、大切な三島の景色が、またひとつなくなってしまうのは、とってもさびしい。

冨士眞奈美●ふじ・まなみ 静岡県生まれ。県立三島北高校卒。1956年NHKテレビドラマ『この瞳』で主演デビュー。1957年にはNHKの専属第1号に。俳優座付属養成所卒。俳人、作家としても知られ、句集をはじめ著書多数。

(構成/我妻弘崇)

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