瀬戸内寂聴が振り返る、槍グラビア「後に引けなくなって…」

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2021年07月25日 11:30  AERA dot.

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写真瀬戸内寂聴(せとうち・じゃくちょう)/1922年、徳島市生まれ。73年、平泉・中尊寺で得度。著書多数。2006年文化勲章。17年度朝日賞。単行本「往復書簡 老親友のナイショ文」(朝日新聞出版、税込み1760円)が発売中。
瀬戸内寂聴(せとうち・じゃくちょう)/1922年、徳島市生まれ。73年、平泉・中尊寺で得度。著書多数。2006年文化勲章。17年度朝日賞。単行本「往復書簡 老親友のナイショ文」(朝日新聞出版、税込み1760円)が発売中。
 半世紀ほど前に出会った98歳と84歳。人生の妙味を知る老親友の瀬戸内寂聴さんと横尾忠則さんが、往復書簡でとっておきのナイショ話を披露しあう。

【横尾忠則さんの写真はこちら】

*  *  *
■横尾忠則「なんとなく無為的な創作生活も愉しいです」

 セトウチさん

「世の中が暗い方向に向かっている気がするので、愉しいことを」と担編の鮎川さんからリクエストが来ました。

 この日の朝日新聞の夕刊の一面のトップ記事は「大谷32号」という大見出しがスポーツ紙並みに躍っていました。この日は4回目の緊急事態宣言が決まった日です。普通なら、こっちの方が大きく取り上げられるはずなのに、「大谷32号」によって緊急事態宣言は、「ああ、またでっか」って感じで、もうニュースバリウは完全になくなっている。また一都三県の競技場も無観客と決まったものの、もはやこっちもトップニュースにはなりません。「無観客」が「完全な形の五輪」ということだったんですね。最早民意を無視した政府の次々繰り出す決めごとに一喜一憂した時期はいつの間にか鮎川さんのおっしゃる暗い方向に向かってしまったようです。

 そんな現実的な暗い世相を無視したのか、馬鹿馬鹿しくなったのか、或いはブラックユーモアなのか、信用できない社会的現実をアホらしくなって無視した結果、「エイ、やってまえ」といわんばかりに「大谷32号」を一面トップにしたんじゃないでしょうか。「よくやってくれた」と僕はひとり拍手を送りました。この行為の背景には芸術魂が宿っていたからです。

 このことが鮎川さんのおっしゃる「愉しいこと」だったのです。松井の31本を越えたというようなことではなく、今年の大谷の活躍は本場アメリカ人のど肝を抜いて、大賛辞を送っています。世界に知られたら恥ずかしいような今の日本の政府の失態を大谷の活躍がバット一本で暗い日本の世相を一遍に明るく愉しいものに変えてくれています。こんなに嬉しくて興奮することは滅多にないですよね。

 17日より東京都現代美術館始め、4カ所で大きい展覧会が開かれます。このことも個人的には愉しいことですが、大谷の活躍の方がうんと愉しいです。歳のせいか、愉しいことは私事から離れて、世間の愉しいことの方がうんと愉しく感じるようになりました。もう自分のことは十分愉しんできました。だから個人的なことより個としての普遍的なものに対する愉しみの方が、嬉しく思うようになったんでしょうね。

 若い頃は自分のことで精一杯です。自分のことを優先させることがなくなるってこんな感覚に出合って、ちょっと自分でも不思議に思います。私は何者なのかとか、如何に生きるとか、そういうことを考える必要がなくなるのですよね。やっぱり老齢になって、何かを諦めるからでしょうかね。僕の年齢になると誰かと競争するとか、そんな意識がまず失くなります。そして、いい絵を描きたいという意欲も自然に消滅していきます。だから批評家に評価されたいという気持ちも全くないです。欲望が失くなったら生きる価値がないのではないかと、若い世代の人から言われそうですが、ホント、どうでもいいという感じになるんですよね。ギタギタしていた若い頃が懐かしく思われるほどです。大谷の活躍に匹敵するような喜び、愉しさはないとしても、このなんとなく無為的な創作生活が愉しいと言えば愉しいです。鮎川さん、こんなもんでよろしいでしょうか。

■瀬戸内寂聴「ペン一本で食べてゆけるのは奇跡中の奇跡!?」

 ヨコオさん、おめでとうございます。

 十七日から、東京都現代美術館で、ヨコオさんの大展覧会が開かれていますね。私は、こんな大展覧会は見納めだと思うので、這ってでも上京して拝見したかったのに、実際にその時になると、やはり全身がこんにゃくのように、だらしなくのびてしまい、脚がたちません。まなほは、車椅子に乗せてでも、引っ張ってゆくと言ってくれましたが、口でいう程、力があるわけでもないので、実行出来ません。行けないとなると、益々、展覧会の盛況がしのばれて、くやしく、羨ましく、切なくて、涙が溢れます。

 世の中はたしかに暗いことや腹の立つことが多く、梅雨は晴れても、一向に明るくもさっぱりもしませんね。

 小学校を出て、私は県立の町の女学校に入学しました。入学試験がありましたが、私は一番で入学しました。

 入学式で、上級生からの祝辞に対して答辞を読み上げたりして、私は結構花形気取りに浮き上がっていました。

 すべての式の終わった後、私はほっとする間もなく、背の高い男のようにさっぱりした女の先生に呼び止められ、体育館の隅にある先生の部屋に連れていかれ、即、陸上部の選手に入れとすすめられました。それはすすめるというより、命令でした。

 そのうち、うぬぼれ屋の私も、先生が、私の運動神経の鈍さに愛想をつかしていることを認めないわけにはいかなくなりました。

 ある日、私はきっぱりと、陸上部から身を引きました。もちろん、先生はほっとした表情で、私を引き留めようとはしませんでした。

 それから、何年過ぎたでしょう。私の身辺に様々なことがあって、結婚し、子供も一人産んでいるのに、その子の四歳の時、夫と子供のいる家から飛び出し、独りの生活をはじめました。小説家になることが目的で、私は死物狂いで、その道一筋にしがみつき這いずり廻り、どうにかペン一本に身を任せ、細々と食べてゆけるようになっていました。それが奇跡中の奇跡だということさえ気づかない暢気さでした。

 そんなある日、原稿を届けに、中央公論社を訪ねました。編集室へ私が入るなり、黄色い声が飛んできました。

「あ、瀬戸内さん、待ってました。持ってきたわよ、ほうらこれ」

 彼女が机の下から引っ張り出したのは、運動具の槍一本です。先日、仕事が終わって雑談している時、私が昔、槍投げの選手をしたことを話したのを、覚えていた彼女が、話の真相を確かめるため、槍を持ってきたというわけです。和服を常着にしていた私は、その日も和服でした。後に引けなくなって、私は建物の外の広くもない庭に出て、何年ぶりかで槍を投げました。すかさず写真部の男がその姿を何枚かカメラに収めました。もうやけくそになって、私は袖もひるがえし、何度も何度も大空を仰ぎ、長い槍を投げつけました。

 それが次号の「婦人公論」のグラビアに出て、当分私は外へ出られない程、話題の人になったものです。いつ思い出しても、ひとり吹き出す経験です。

 白寿を迎えた老尼の思い出話としては笑えない? ヨコオさん。ではまたね。

※週刊朝日  2021年7月30日号

このニュースに関するつぶやき

  • 違う違う、「やり手ばばあ」とは娼婦のあっせんをする女性のことであってだな、棒とナスをつなげてボーナスにならないように、槍と婆を組み合わせてもそうはならんのだよ。
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  • 最初はおとなしかったが、今東光氏も亡くなり、横暴に拍車がかかる、言う事はデタラメ、仏教に無知な漫談でウケを狙う俗物生臭坊主 https://mixi.at/abHsbzz
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