恐竜を化石ではなく生きていた姿で想像してほしい サイエンスコミュニケーター・イラストレーター、恐竜くん・田中真士<現代の肖像>

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2021年08月03日 16:00  AERA dot.

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写真サイエンスコミュニケーター・イラストレーター 恐竜くん 田中真士/6歳で恐竜に魅了され、世界への扉が開いた。同じ経験を次の世代につなぎたいと願う(撮影/家老芳美)
サイエンスコミュニケーター・イラストレーター 恐竜くん 田中真士/6歳で恐竜に魅了され、世界への扉が開いた。同じ経験を次の世代につなぎたいと願う(撮影/家老芳美)
 サイエンスコミュニケーター・イラストレーター、恐竜くん・田中真士。6歳で恐竜と出会い、一目ぼれした。そこからは恐竜漬けの日々。16歳でカナダに留学し、大学で恐竜について学んだ。このまま研究者になりたいのか。そんな思いが胸に湧いたとき、恐竜博の館内ツアーを任され、子どもをアテンドした。心は決まった。サイエンスコミュニケーターとして、恐竜を通じて子どもたちに、人生で大切なことを伝えよう、と。

【写真】デンマークの「レゴ」社のブロックを組み合わせてオリジナルの恐竜を作る

*  *  *
 ぞわっと、鳥肌が立った。目の前にあるのは、巨大な角を持つ恐竜・トリケラトプス「レイン」。しかも「奇跡」と言われる本物の全身骨格の化石だ。間近に見る茶褐色の表面は、ひびや傷を持ちながらも予想外になめらかで美しい。「まさか本当に来てくれるなんて。いまだに実感がわかないです」──そう言いながら「恐竜(きょうりゅう)くん」こと田中真士(たなかまさし)(39)は愛(いと)おしそうに、レインを見つめた。

 横浜市の「パシフィコ横浜」で開催中の「Dino Science 恐竜科学博」。その目玉としてレインはアメリカ・ヒューストン自然科学博物館から初めて海を渡り、日本へとやってきた。レインを導いた人物こそが田中だ。カナダ・アルバータ大学で学んだ恐竜のスペシャリストとして本展の企画・監修を3年かけて練り上げてきた。

 トレードマークはテンガロンハットにデニムシャツ。ひょろりとした痩身(そうしん)と笑顔が人目をひくが、決して押しの強い印象はない。だが恐竜について話しだしたら、もう止まらない。

「専門知識を生かして、わかりやすく面白く」をモットーに、数々の恐竜展やトークショーで子どもや大人を魅了してきた。キャッチーな名前は、楽しくサイエンスに触れてもらいたい、との願いから「さかなクン」をイメージして名付けた。ちなみに彼の事務所から承諾ももらっている。

 世界中の最新研究や論文にアクセスし、展示の解説や本も執筆する。グローバルなコネクションを生かして化石や骨格標本の貸し出しや交渉も自ら行う。レインの来日がかなったのも、13歳で出会ったアメリカ・ブラックヒルズ地質学研究所(BHI)所長ピーター・ラーソン(69)との長年の親交と信頼があったからにほかならない。

■国立科学博物館で見たタルボサウルスに一目ぼれ

 さらに驚くべきは、生き生きと美しい恐竜を自ら描くイラストレーターでもあることだ。骨格や皮膚の状態、筋肉の付きかたを正しくイメージしてデッサンを起こし、画像ソフトで仕上げていく。

 恐竜を紹介するには、科学的な知識に基づく“想像力”が必要だ。彼らはどんな世界で、どんなふうに生きていたのか。その場所は乾いていたのか、木漏れ日の差す森だったのか。そこにどの恐竜がいて、そこで何が起こったのか。彼らが「たしかに生きていた」息吹を感じてもらいたい。そんな思いのすべてを「恐竜科学博」にぶつけた。

 ピーター・ラーソンは言う。

「真士の素晴らしいところは豊かな想像力を持つ“アーティスト”でもある点です。事実をベースにサイエンスと人びとをつなげることができる。それは多くの研究者にはなし得ない才能で、しかも古生物学にとって命といえるほど重要なこと。彼のような人がいなければ古生物学は血の通わない“死んだ科学”になってしまうのですから」

 動かない「化石」ではなく、生きていた姿を想像してもらうこと。そして恐竜をワクワクが止まらない学びの入り口にしてもらうこと。それが田中の望みだ。田中自身がそうであったように。

 田中は1981年、東京の西エリアに生まれた。物心つく前から生き物が大好き。テレビのドキュメンタリー番組でアフリカの動物たちに釘付けになり、『シートン動物記』を読んでは泣き、アリの巣穴を何時間でもじっと見ている子どもだった。

 恐竜との出会いは6歳のときだ。母と3歳上の姉と行った上野の国立科学博物館。重厚な建物を入ってすぐのホールにそれはいた。ティラノサウルス科のタルボサウルス。衝撃はいまも鮮明だ。

「あれこそ一目ぼれでした。それまで知っていたどんな生き物よりも大きい。形も迫力も全然違う。世界を覆されるような存在感に圧倒されたのだと思います。その感覚はあの瞬間から、いまも少しも変わっていない」と田中は言う。

 図鑑を買ってもらい、恐竜漬けになった。が、ここまでは多くの子どもたちも経験するかもしれない。そこから「恐竜くん」への道のりは、ひとえに両親のおかげだと田中は言う。しかも「相当に型破りな」両親の。

 田中の父・昌平は広告会社のサラリーマン。ミュージカルや舞台を年間200〜300本も見に行く趣味人として業界では知られた存在だった。どんな相手にも先入観なく接し、しかし上司でも取引先でも気に入らない相手とは目も合わせない。半面、好きな相手とはとことん付き合った。その強烈なキャラクターには及ばないものの、すべてにおいて「筋を通す」性格を田中は多分に受け継いだ。

 母・典子は美術大学の日本画学科出身。結婚後は「子どもと一緒に遊びたいから」と専業主婦になり、子連れで映画や美術館めぐりを楽しんだ。田中家には文化・芸術を愛する自由な風が吹いていた。そんななかで田中は恐竜と出会ったのだ。

 恐竜に目覚めた6歳の息子に父が「ほい」と買ってくるのは大学の図書館にあるような専門書。文字がびっしりで、英語やドイツ語のものもあった。田中は精密な絵を眺め、夢中になって恐竜の絵を描いた。夏休みには家族で全国の博物館や民俗資料館を回り、発掘体験もした。

 学校では作文も絵日記もすべて恐竜のこと。写生大会で近くの森を描いても、なぜかそこに恐竜がいる。書道の宿題で「夏の季語を書きなさい」と言われ「恐竜」と書いた。幼なじみの村上武司(39)は言う。

「決して『恐竜だけ』というタイプではなかった。虫捕りに行ったり、ミニ四駆やファミコンで遊んだり。それに彼はピアノもすごくうまいんですよ」

 田中の両親は恐竜以外に向いた興味も鷹揚(おうよう)に受け入れ、できる限り与えた。

 明るく誰の懐にも入り込む一方で、筋の通らないことは許せなかった。こんなエピソードがある。

「小学校時代、仲の良かった子がいじめられていたんです。職員室で『なぜ止めないんだ』と抗議したけど、取り合ってもらえない。それなら、とストライキの意味で登校拒否をしました」(田中)

 反抗的だったわけではない。ただ100人のうち99人と違う方向を向いても、まったく気にしない性格だった。結局、小学校は半分ほどしか通学しなかったが、父も母も田中の意思を尊重した。

(文・中村千晶)

※記事の続きは2021年8月2日号でご覧いただけます。

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