【現地ルポ】河野太郎の旧友が語る「歌いっぷり」から「夫婦秘話」まで 新総裁本命候補が地元で見せた素顔

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2021年09月17日 12:50  AERA dot.

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写真河野太郎行政改革担当相(C)朝日新聞社
河野太郎行政改革担当相(C)朝日新聞社
 16日に野田聖子幹事長代行が出馬表明したことで、立候補者が4人となった自民党総裁選。そのなかでも「本命視」されているのは、河野太郎行政改革担当相(58)だ。朝日新聞社が行った最新の世論調査では、「新総裁に誰がふさわしいか」という質問に、33%の人が「河野氏」と答え、4人の中で最多となった。永田町では「変人」「異端児」などと称されることもある河野氏だが、地元ではどのような評判なのか。AERAdot.は、河野氏を知る人物を訪ね歩き、“本音”を聞いた。今回は「幼少期〜社会人」の政治家になる以前の人物像に迫る。


【写真】お坊ちゃま風の雰囲気がある河野氏の小学生の時の姿はこちら
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 河野氏が生まれ育ったのは、神奈川県平塚市。父は自民党総裁も務めた河野洋平元衆院議長。祖父は河野派を率いて、農林相や建設相、副総理を歴任した河野一郎氏という3代続く政界のサラブレッドだ。大叔父の河野謙三氏も衆院議長を務めるなど、まさに政治家ファミリーの中で育った。
 小学校は地元の平塚市立花水小学校に6年間通った。小学生の頃から、他の子より少し目立つ存在だったようだ。6年生の同級生で、現在は平塚市役所産業振興部長の津田勝稔氏は、当時をこう振り返る。



「男子生徒は『太郎』とか『太郎ちゃん』とか気軽に呼んでましたね。勉強は昔からできましたが、同級生が360人以上いる学校だったので、その時は、もっと成績優秀な生徒もいましたよ。1位ではないけど、ずっとトップクラスにいるイメージ。ガリ勉という感じではなかったので、陰で努力をしていたか、地頭がいいのだと思います。子どもの頃から自分の意見をハッキリ言うタイプだったから、いつかは政治家になるんだろうとは思っていました」



 当時は、平塚市内で「河野御殿」と呼ばれる旧河野一郎邸に住んでいた。現在は取り壊されているが、そこに小学校の同級生が集まることもあったようだ。



「小学校を卒業する年(1975年)の1月、太郎ちゃんの誕生日会に招かれました。河野邸の中に入ったら、大きな庭があったのを今でも覚えています。私も含めて、みんなが誕生日プレゼントをあげていました。みんなから人気がある子どもだったと思います」(同)




 河野氏は1月の早生まれのため、体はそんなに大きくなかったという。



「クラスでは一番前に座っていました。体は細かったから、校庭で一緒に相撲をしても、僕は一度も負けたことはなかった。でも、走るのは速かった。長距離は全然かなわなかったですね。河野家は祖父の一郎さんが箱根駅伝にも出場した長距離ランナーで、大叔父の河野謙三さんも箱根駅伝を走っている。長距離ランナーの家系なんですね」



 河野氏自身も、進学した慶應義塾中等部で、今も破られていない4000メートルの記録保持者なのだという。



 また、津田さんが鮮明に覚えているのは、河野氏が小学校の合唱コンクールで指揮者をしたこと。



「合唱コンクールはクラス対抗でしたが、太郎ちゃんは皆から自然と指揮者に選ばれていました。正直、歌はうたわない方がいいんじゃないのかな、という感じです」



 別の知人によれば、「河野は音痴で声がでかくて甲高い」のだという。



 花水小学校を卒業すると、慶應義塾中等部、同高等学校へ進学したが、地元の友達との関係はその後も大切にしていたようだ。津田さんはこんな思い出を語る。



「慶應に進むというのは、(小学校の)卒業が近くなってから知りましたね。僕はそのまま地元の中学に進んだのですが、10年くらい前にその地元中学の同窓会があったんです。花水小の同窓生もたくさんいたんですが、そこに太郎ちゃんが突然、乱入してきたんです。誰かが『お前、ここは違うだろう』とつっこんで、みんな笑っていましたね」



 高校卒業後は、1981年4月に慶應大学経済学部に入学するも、わずか2カ月で退学。すぐに渡米し、82年9月には米国ワシントンD.Cのジョージタウン大学に入学した。84年にはポーランドの大学に留学したという。



 古くから河野氏と付き合いある湘南ベルマーレの眞壁潔会長がこう語る。



「太郎が留学したのは、ちょうどポーランドの自主管理労組『連帯』を主導したレフ・ワレサ(後のポーランド大統領)の民主化運動が盛んな頃でした。太郎は社会主義の国を自分の目で確かめるために、ポーランドに行った。そこで大学の知人の紹介で、ワレサに会いたいかと聞かれたので、ワレサに会いに行ったんです。でも、そのときに事件が起きた。ワレサの自宅で本人といろいろと話をして、帰ろうと近くの交差点まで行ったところで、警察官から職務質問を受けた。パスポートを所持していなかったので逮捕され、留置場に入れられたそうです」




 幸い、大学生であることがわかり、翌朝には釈放されたという。



「彼は性善説で人を見るんですよ。当時、ルーマニアにも行っていて、親切にしてくれた見知らぬ人の家に泊めてもらって、冷蔵庫の中にあった野菜や肉をごちそうになったという話も聞きました。当時のルーマニアで、知らない人のうちへついて行くなんて、ヤバイんじゃないかと思いましたけどね」(眞壁氏)



 1985年、ジョージタウン大学を卒業後、日本に帰国。富士ゼロックス(現・富士フイルムビジネスイノベーション)に就職し、シンガポールに2年間勤務した。その後、93年に父親の河野洋平氏が大株主の日本端子(本社・神奈川県平塚市)に転職した。現在、日本端子の社長は洋平氏の次男が務めている。



 河野氏が政治家になる前から付き合いのある平塚市の片倉章博市議はこう話す。



「河野さんは日本端子に入社した頃に、平塚に帰って来ました。地元の平塚のJC(日本青年会議所)のビジョンを作る委員会に所属していました。私もメンバーだったし、みんな同世代だったから、くだらないことを言い合ったり、何時間もビジョンを語り合ったりしたのは、いい思い出です。毎年夏には、それぞれが夫人同伴で10人くらいでワイワイ過ごす家族会をしていて、大磯ロングビーチのプールへ行くのが恒例でした。河野さんの香(かおり)夫人も来ていましたよ。プールの後は、ちゃんこ料理屋などで打ち上げをするのが恒例でした」



 香夫人はオーストラリアの帰国子女で、聖心女子大を卒業後、外資系の金融機関に勤務していたという。2人のなれ初めについて、古くからの知人はこう話す。



「太郎ちゃんが富士ゼロックスの時代に、香さんが外資系の証券会社に勤務していて、食事会で知り合ったと聞きました。太郎ちゃんのひとめぼれで、香さんと同じ電車に乗るように時間調整して通勤したりしたこともあったそうですよ。香さんも通訳ができるくらい英語がペラペラで、夫婦で英語が堪能。太郎ちゃんは銀座のクラブへも行かないし、愛妻家ですよ。香さんは、夫がいない時には、代わりに選挙のあいさつ回りをしたりして支えています」



 夫妻には一人息子がおり、現在は学生だという。河野氏が自民党総裁選に出馬したことについて、前出の津田氏はこう話す。



「総理大臣というのは政治家になったら夢でしょう。地元のことももちろんですが、日本のため、世界のために頑張るという初心を忘れずに、総裁選に挑んでほしいです。同級生みんなが応援しています」



 河野氏が衆議院選挙で神奈川15区から立候補して、初当選を果たすのは1996年のこと。33歳のときだった。【後編】では政治家となった後の河野氏の人生を追う。(AERA dot・上田耕司)


このニュースに関するつぶやき

  • 今からこんなヨイショ記事を出して馬鹿じゃないか。自民党の広報誌かよ。
    • イイネ!6
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  • 自民でも利用出来ると判断したらこうして持ち上げる。河野さんの幼少期の話なんていかにも恵まれた2世の話なのに、菅さんの幼少期より好印象に書く(呆)
    • イイネ!21
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