村上宗隆の100本塁打達成で思い出すルーキー時代の清原和博。黄金時代の西武がその才能を開花させた

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2021年09月19日 18:51  webスポルティーバ

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【「若き日の清原和博」、その天性の輝き】

 ヤクルトの村上宗隆が史上最速となる21歳7カ月で通算100号を達成した。同じく高校卒業後、プロ4年目だった清原和博の21歳9カ月を2カ月も更新する偉業となった。中西太(西鉄)、松井秀喜(巨人)は22歳での達成で、続く張本勲(東映)以下、王貞治(巨人)、豊田泰光(西鉄)、土井正博(近鉄)、掛布雅之(阪神)、山田哲人(ヤクルト)はいずれも23歳での記録なので、村上のすごさがよくわかるはずだ。

 一方、村上に抜かれることとなったものの、これまで最年少記録を保持していた清原和博の若き日々のまばゆいばかりの輝きは決して霞むことはない。




 1980年代半ばから1990年代にかけて「黄金時代」を築いた名将・森祇晶を筆頭に、西武ナインたちは清原が1986(昭和61)年に入団した当初からその才能に一目置いており、入団から何年も経過したあとでさえ、その鮮烈な記憶を生々しく証言している。

 しかし、森の前任者であり、清原とは入れ違いでチームを去った広岡達朗はこんな言葉も口にしている。

「西武球団も、森も、清原を甘やかしすぎましたよ。腫れ物に触るような扱いをしたことで、本来ならもっと伸びたはずの才能の芽を摘んでしまった。私が監督だったら、もっと清原には厳しく接したし、彼の野球人生ももっと違ったものになっていたと思いますね」

 広岡の言葉にあるとおり、若手時代の清原は別格の存在であり、チームメイトも、報道陣も、そしてファンも、清原の一挙手一投足に熱い視線を注いでいたのは紛れもない事実だった。あらためて、「若き日々の清原和博」を振り返ってみたい。

 清原の西武入団と同時に、この年から指揮官を務めることになった森祇晶は、『捕手ほど素敵な商売はない』(松下茂典/朝日新聞出版)において、初めて清原を見た時の衝撃について、こんなコメントを残している。

「まるで後光が差したかのように、全身から光を放っていた。野球に対するひたむきな姿勢、純粋な心、礼儀正しさ。どれを取っても、それまでのルーキーとは違っていた。この若者を育てられなければ、監督失格の烙印を押されるかもしれないと身震いしたくらいです」

 1982〜1985年までの4年間監督を務め、3度のリーグ優勝、日本一に1度輝いた広岡の後任としてチームを率いることになった森にはプレッシャーがあった。さらに、世間が注目するスーパールーキーが加入。清原の大成はチームにとっても、森にとっても最優先事項だったのだ。

【「ダイヤモンドの輝き」を誇る清原に対する森祇晶の期待】

 入団時から「ゴールデンルーキー」として注目を集め、ルーキーイヤーとなる1986年にはシーズン31本塁打、打率.304、打点78を記録した。5月初旬まではまったく結果が出ない日々が続いたが、それでも森監督は清原を起用し続けた。その理由について、『覇道 心に刃をのせて』(ベースボール・マガジン社)では、次のように振り返る。

「プロ野球で成功する選手は2種類のタイプがある。ファームで鍛えに鍛え、一軍に這い上がるタイプ。たとえていえば、路傍の石を磨いて宝石になる選手である。もう1種類は持って生まれた天性の輝きがあるダイヤモンドのような選手。清原の場合は、まさしく後者である。常に表舞台で光り輝く雰囲気を持った選手だった。

 裏を返せば、ファームに落ちてどん底から這い上がってくるタイプではないと思った。何よりも、ファームに落ちてダイヤモンドの原石が光を失うことを私は恐れた」

 こうした森の考えが、広岡にとっては「腫れ物に触るような扱い」と映ったのかもしれない。しかし、森には森の考えがあり、結果的に清原は入団一年目から好成績を残すこととなったこともまた事実であった。

 さらに森は、天性の輝きを持つ「ダイヤモンドのような」清原に対して、スパルタ教育も施している。『監督の条件、決断の法則』(講談社+α文庫)では次のように、その「指導哲学」を開陳している。どんなに不振でも、決して四番から降格させなかった理由だ。

「それでも清原は代えなかった。こうなると我慢比べだ。打順を下げるのは簡単だが、それでは本人に逃げ場を与えることになる。あくまでも自分で自分を助ける気持ちを持って解決することだ。苦しんでいるのなら立ち直るきっかけは、自分でつくらなくてはならない。自分を本当に助けるものは自分しかいない。手助けできない監督としては、彼を4番に据え続けることで、主力としての自覚を待ち続けさせるしかなかった」

 たとえどんなに不振であっても二軍に落とすことはせず、どんなに結果が出なくても、四番の重責を担わせ続ける。やはり、森には森の考えがあったのだ。

【秋山幸二、デストラーデによる絶大なるサポート】

 西武黄金時代には「AKD砲」と呼ばれる超強力クリーンアップが他球団投手陣を震え上がらせていた。「A」秋山幸二、「K」清原和博、「D」デストラーデの3人は、それぞれがそれぞれの個性を誇るスラッガーだった。

 かつて、デストラーデはこんな言葉を残している。

「清原さんとは、本当に兄弟みたいな関係でした。年齢は僕よりちょっと下で、最初の頃は僕が来日してすぐにタイトルを獲ったから、ちょっとジェラシーみたいのがあったかもしれない。だけど、それは最初だけで、いい友だちになって仲よくなりました。来日した時から、清原さんはチーム内のスーパースターだということはすぐに理解しました」

 そして、デストラーデは3人の違いを次のように評した。

「AKDのなかで清原さんが、ヒッターとしてはナンバーワンでした。パワーでは僕がナンバーワン、秋山選手がベストアスリートという印象がありますね。清原さんはヒッターとしては一番才能があったと思います」

 当の清原は「AKD砲」について、こんなコメントを残している。

「当時、自分は四番を打たせてもらっていました。秋山さんは三拍子揃ったプレーヤーでしたから、やはり秋山さんが塁に出ると、どうしてもピッチャーは盗塁を警戒するんで、僕に対しては外寄りの速い球の配球が中心になります。僕としては自分の得意コースでもあるので、とても打ちやすかったです」

 清原による「秋山評」は、さらに「デストラーデ評」へと移っていく。

「そして、後ろにデストラーデがいることによって、彼にはホームランというすごい魅力がありますから、相手ピッチャーは『ランナーを溜めたくない、清原を歩かせてはいけない』ということで、必ず僕と勝負してくれたので助かりました」

 指揮官は清原に十分な配慮を施し、清原の前後を固めるクリーンアップは、それぞれが強打者だったことで、互いに相乗効果を生み出した。もちろん、本人の実力があればこそではあるものの、清原の持つ天性の才能を開花させるのに、当時の西武は最適な環境だった。

 こうした、周囲からのさまざまなサポートを受けて、清原は1989(平成元)年6月4日、21歳9カ月で通算100号ホームランを記録する。平成初年度に打ち立てられた偉大な記録は平成期間、一度も破られることがなかった。そして元号が変わり、令和時代となった今、村上宗隆が21歳7カ月という驚異のペースで清原の記録を更新した。

 時代は変わる。スターは常に生まれ続ける。それでも、清原和博の若き日々の輝きは決して失われることはないのだ――。

このニュースに関するつぶやき

  • 年俸を超えるほどの罰金を科せられ、『もうやめてやる!』と駄々をこね、東尾が監督との間に入り落ち着いたと清原の著者にあった。…村上と一緒にしちゃダメ。
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