鈴木さんと富永さんのバトルは「最初からお願いした」―― 令和によみがえる「お笑いマンガ道場」初代Pと放送作家が語るお化け番組の裏側

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2021年09月24日 20:02  ねとらぼ

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写真令和版でもセットは当時の雰囲気を再現
令和版でもセットは当時の雰囲気を再現

 9月26日の16時25分〜17時30分に中京テレビで放送される「復活! 令和もお笑いマンガ道場」。タイトルから分かるように、1976年から1994年にかけて放送された人気大喜利番組「お笑いマンガ道場」のリニューアル版です。基本的には司会者から発表されるお題に対して漫画で回答することを繰り返すというシンプルな作りながら、鈴木義司さんと富永一朗さんという漫画家2人の掛け合いや、意外なほどの絵のうまさを披露しこの番組がきっかけで漫画連載まで持つことになった車だん吉さんなどが、当時の視聴者に強い印象を残しました。



【写真をもっと見る】左が大岩さん、右が澤田さん



 ということで、「復活! 令和もお笑いマンガ道場」の放送に合わせて、初代番組プロデューサーの澤田健邦さんと構成作家の大岩賞介さんの対談を敢行。それぞれの立場から番組の成り立ちや、思い出を語っていただきました。元は中部ローカルながら、今では伝説的番組として知られることになった「お笑いマンガ道場」は、いかにして作られたのでしょうか。



●澤田健邦さん(初代プロデューサー)、大岩賞介さん(構成作家)インタビュー



大岩:澤田さんがこの番組の生みの親ですよ。初代プロデューサーであり、企画者です。



―― この番組はどのようにして生まれたんですか?



澤田:そもそもは思い付きだったんですよ、いろんな事情があって(笑)。中京テレビができたのは1969年で、名古屋のテレビ局としては4番目の後発局。しかも最初はUHF局だったんです。UHFってのは電波の問題があって売り上げが苦しかったんですね。先に開局した3局が東京のキー局のいい番組をほとんど取ったあとの残り物だったんで、営業的にすごく弱かった。



―― そもそも中京テレビにはハンディがあったんですね。



澤田:会社ができて4年間は制作部とか報道部とかがなくて、まだ“制作報道部”とかでしたね。ニュースはフィルム時代で、テロップだけのニュースとか。それでも週に1本くらいは番組を作りましょうということで、スタジオや公開録画でやってたんですね。それが1973年にようやく日本テレビに一本化して、出向で日本テレビ社員が来るようにもなった。そのタイミングで制作部がようやくできたんですよ。それまでは娯楽系の番組をやってきた人が会社に一人もいなくて、日本テレビから来たカメラマン上がりの部長、他の会社で文化映画をやっていたディレクター上がりの副部長、そこに入社4年目の僕と、その年に入った男性と女性のスタッフという5人だけの制作部で週一の番組をほそぼそと続けてたんです。



―― 5人だけ……。



澤田:そのころ、ちょっとしたご縁があって、大岩さんが東京から来てくれることになったんです。僕らは萩本欽ちゃんの「パジャマ党」とかいう名前を一生懸命覚えてる時代ですよ。そのパジャマ党の大岩さんだよ。それで何か新しい娯楽番組を作ろうと試行錯誤していたんですね。で、たまたま日本テレビから来た人、報道部長だったかなあ? その人が漫画家の鈴木義司さんを知ってたんですよ。東京時代からの付き合いで。一緒に日本テレビから来た制作部長も、報道部長と鈴木さんの付き合いが長いからってんで「鈴木さんの4コママンガを使って何かできないか?」と、自分は番組を作ったことがない人なんだけどもそれを言い続けてたんだよね。あんまりうるさいんで、僕が「マンガでやるんなら、マンガの大喜利しかないんじゃないですか?」って言ったんだよ。そしたら、それをやれってことになったんです。乱暴な話なんですよね(笑)。



―― それで鈴木さんが富永さんに声をかけるんですよね?



澤田:そう、紹介。仲が良かったんです。その関係も聞いてたので、一応その2人を前提にして番組を考えたんです。ほんとにもう思い付きなんですよ。で、他のレギュラーの構成をお願いしていた大岩さんに、部長が「澤田が考えたこういう番組をやるから」って言ったら、大岩さんは僕に「なんで? 他にいい企画あるよ」って(笑)。



大岩:当たんないだろうなと思ったね。当時としても相当アナログというかさ、しかもテレビは動くもので、止まったマンガであってアニメーションじゃない。どうなの? って最初は思ったよね。



澤田:実際まあやるんだとなって、日本テレビから来た部長と副部長と僕と3人で日テレに行って、マンガの大喜利だから「笑点」にもあいさつにも行こうと。仁義切りに行ったんですね。あとは「スター誕生」とかね、当時は公開録画で仲が良かったんで、そこにも行ったら「ふーん」みたいな感じで。そのときにも日本テレビの誰かが、うちの上の2人に「面白くないよ」と。とにかく来る人来る人みんな「当たんないよ」って言ってた。水森亜土さんくらいですね。「面白い!」って出演交渉のときに言ってくれたのは。あとその横にいた作家の城悠輔さんも「僕は面白いと思うな」って言ってくれました。でも亜土さんは名古屋で収録するって言ったら、「朝早く起きるのはできな〜い」って一瞬のうちにNGが出ましたね。もし東京収録だったら亜土さんは出てくれていたかもしれないですね。



―― それは見たかったですね!



澤田:鈴木さん、富永さんという漫画家2人に、もう一人くらい器用そうな漫画家がほしいなって思って亜土さんにお声かけたんですよ。でもダメで、そこで大岩さんが「だんちゃんは? お笑いもできるし、マンガ描けるよ」って。それで浅井企画に電話かけてマネジャーに話をして、車だん吉さんにオファーしたんです。銀座テレサで「ぎんざNOW!」の審査員やってたんだよね?



大岩:そうそうそう、浅井企画の社長がね。



澤田:それで銀座テレサの1Fの喫茶店で、だんちゃんと会って、「こういうのを考えているので、よろしくお願いします」と。それでサラサラっとマンガを描いてくれたのは覚えていますね。手探りですね。上司も芸能界には詳しくないんで、それまでの番組は日本テレビにキャスティングを頼んでいたんですね。だけど僕はこの番組は全部自分でやろうと思ってね。インターネットもない時代なんで「タレント名鑑」だけですよね。



―― 他のレギュラーの人選もしないといけませんよね。ゴールデン・ハーフのエバさんとか。



澤田:エバも、大岩さんに相談して、「笑いのセンスがある子がいいね。キャラクター分けでいうとかわいい子みたいなことでいいんではないか」と。エバはナベプロ、そこに電話入れて、1週間待ってくれって言われて、OKだよと。結局マネジャーとも会わずに企画意図だけ話してOKもらって、よし、あともう一人だという感じで、順番に詰めていった。もう手探りです。



―― 企画の構想からオンエアまでどのくらいかかりましたか?



澤田:どのくらいかかったんだろう……。長い構成会議は東京でやったよなあ。あまりに長いんで大岩さんにいい加減にしろって言われました。お金ないから誰かの家でやってたんだよなあ。軌道に乗ってからはうちの東京支社の会議室でやるようになりましたが、最初はねえ、構成作家の誰かの家でやったのを覚えている。いい加減長いよって怒ってましたよ。



大岩:そう?(笑)



澤田:長けりゃいいってもんじゃないんだってね。でもね、そのときに大岩さんが、クルッとフリップを回してマンガのコマ転換を見せるというやり方を考えて、これは僕にとっての衝撃で、「それだね!」って。でも本人は覚えてないって言うんだ。



大岩:覚えてないですね。僕は大体覚えてないんですよ。マンガ道場に限らず、自分の番組の経緯とかほとんど覚えてないんです(笑)。



澤田:このフリップを回すことって番組作りの根底であって、ものすごく大事なことを学んだんですよ。コママンガを見せるということをちゃんと考えなきゃいけないんだっていうことをね。その話ずーっとしてなかったんですけど、数年前に大岩さんにまた名古屋で仕事してもらったときにお茶飲み話でちょっとしたら、「ん? そんなこと言った?」って言われてびっくり(笑)。



大岩:そもそもでいうと、静止画だからね。あと、マンガ道場がヒットした要因の一つに、優秀な作家がいたんですよ。こじま琢磨っていう。彼がものすごくアイデアマンだし、熱心だし、フリップにマンガを描くってことと、フリオチってこともあるんだけど、フリップ自体にいろんな遊びを入れていったんですよ。フリップを2枚重ねておいて、上を引っ張ると伸びるとか開くとか、ドアに見立てたりだとか、フリップに工夫をしたんです。やっぱりそれが後々、マンガ道場の特徴になっていきました。彼がこの番組を命がけで考えてきたってところだと思うんですよね。彼がいなければ多分続いていなかったかもしれない。それくらい貢献度は大きいですよ。結局急逝したんですけどね。



澤田:1983年、享年34歳。33回忌が6年前でしたね。だから番組が始まって7年たったくらい。彼にはマンガ道場と「5時SATマガジン」の両方やってもらってましたから。



大岩:弟子とは言わないけども、僕の唯一の弟みたいな存在でしたね。はかま満緒先生(大岩さんの師匠)の流れでいうと、1番手2番手3番手の3番手。すごい優秀でしたよ。ものすごい努力家でね。彼の名前をなくしては、マンガ道場はないと思う。あとは、かすやたかひろくんがね、よく貢献してくれましたね。



―― 番組ロゴはどなたが作ったんですか?



澤田:これはうちのテロップ屋さん。手書きで書いてるテロップの担当の人が作りました。今回のロゴは初期のもので、後期にもう一回ロゴが変わるんです。



大岩:よくこの第1回目の台本残っていたねえ。



澤田:会社には残してなくて、高畑(部長)が持ってたようです。僕は一切捨てましたよ。ここ(プロデューサーのところ)にWって書いてある。これ僕が書いたんだけど、忖度で上司の名前を書いた。でも、さっき言ってたような事情でやらなくなっちゃったの。じゃあ、まあいらないかと。でも台本が残ってるもんだから、フライデーの取材でも「Wさんが初代プロデューサーですか」って問い合わせが来て、瀬古(7代目プロデューサー、今回の番組も担当)から私に電話かかってきて。



大岩:まあね、当たりゃみんなの手柄になるんだ。



澤田:先ほどのこじま琢磨も大岩さんが「すごくいいのがいるから」って言って連れてきてくれた。



―― こじまさんもだん吉さんも大岩さんですね。



大岩:当てようと思ったら、人の力を借りないと絶対に当たらないんですよ。まあ当たり前のことだけど。番組って当たらないとね、誰かが足引っ張って誰かのせいだって言う。でも当たると、それがみんなのせいになる。芸能界は特にそうなんですよ。だから僕いつも言うんだけど、「五木ひろしは俺が育てた」って言う人が500人くらいいるんですよ。



―― なるほど。よくある話ですね……。



大岩:でも僕自身はそれでいいと思うんです。僕はずっと視聴率にこだわって生きてきた。それはなぜかというと、当たればみんなハッピー。当たらないときに必ず誰かが悪者になるんですね。悪者にさせられるんです。「俺はこう言ったのに、あいつはこう言ったからだ」とかね。何一ついいことないから、数字は取らないとダメなんです。本もそうです。売れなきゃダメなんです。やるからには、どんな手を使ってでも。そうしないと、いいことないじゃないですか。



―― それで最初の収録をして、すぐに手応えは感じましたか?



澤田:スタジオで笑いが出たのはとにかくうれしかったですよ。最初から視聴率的にはそんなに悪くはなかったですが、日曜のお昼の放送だったんですよ。大阪の読売テレビは中京テレビに対してすごく好意的で、最初から金曜の夕方5時台に編成してくれていたんです。その大阪で視聴率がすぐに10%以上取っちゃったんですよ。それで名古屋も時間帯を変えようということになったんですが、すぐには変えられなくて、1年後に土曜の夕方6時に変えてもらえたんです。



―― 最初から好調だったんですね。



澤田:同時に、司会の桂米丸さんがちょっとパンチが欲しいなということで柏村さんに替える。それも大岩さんに相談して、いい人いないかなと。ちょうどフリーになったばかりですね。ラジオ局でちょっとのぞいて、交渉してチェンジして。そのへんもみんなうまくいって、これからはすごかったです。視聴率がどんどん上がっていって、その年の暮れに20%に行きました。はじめは「素人マンガ道場」っていう視聴者投稿コーナーがあったんですが、そのハガキの枚数がバンバン増える、視聴率もどんどん上がる。そうするとなんか雰囲気がいいわけですよ。まあでも、当時の20%はそんなにすごい数字ではないんですよ。



大岩:そんなにね、20って言ったって、テレビのいい時代だから他にもたくさん高視聴率番組はありましたね。今にして思うと、けっこうな数字だよね。



―― 全国で放送されるようになったのは?



澤田:2年目が読売テレビとうちくらいしかやってないと思うんですよ。そこからどんどん増えていく。いわゆる系列販売では日テレから無視されていた時代ですから、ローカルのTBS系の古い局がやってくれたんですよ。日テレ関係なしにやってくれたのが、みんなものすごく評判が良かったんです。時間帯もみんな違いますし、ピークは何十局だったと思いますが、みんな評判良かったですね。



大岩:ただ局が増えていってるのは、毎回あったね。またどこかが取ったとかね。それがどんどん増えている実感はありましたね。ああ、売れてるなあって。まあ、特殊な番組ですよね。



―― 大岩さんは今まで数々の番組を手掛けてこられましたが、その中で見ても特殊?



大岩:特殊ですね。



澤田:この台本は最終回だな。途中TBS系の局も入ってたりして、最後は日本テレビがいつごろからか取ってくれたんで、それからNTV系列がバンバンやりだすんですよね。



大岩:最終18局? すごいよね。今からしたら18ってすごい。



―― テーマ曲はどなたが作ったんですか?



澤田:永作幸男さん。これは僕が頼んだんですが、自分が番組を作ることになったらテーマ曲を作りたいなとかねがね思っていたんです。今思うとローカルではなかなかできないよね、続くという前提でないと(笑)。永作さんは「スター誕生」の音楽担当で番組収録にいつも立ち会ってたんですよ。穏やかそうな良さそうな人だったんで、「今度番組を作るんでテーマ曲をやりたい」と。勝手な話だけど、それで「買取にしてほしい」と。で、「笑点」が童謡か何かがテーマであると聞いたことがあったので、僕は「めだかの学校みたいなイメージがこっちにはあるんだ」と。



―― かなりはっきりしたイメージがあったんですね。



澤田:それでテレ朝の前の録音スタジオに行って、東京室内楽を使って、ファゴットかな? 温かい音を作ってくれたんですよ。一発だけで録音です。1パターンだけです。永作さんは買取だからいいって言ってたんですけど、名前も義理でスタッフロールに入れておいて、ずっと東京で放送してなかったから永作さんは知らないわけですよ。それが東京でやるようになって「名前出てら!」って感じですよね。僕ずーっと会ってないんだけど、永作さんの名前ネットで調べると、代表作がマンガ道場のテーマって出るんです。よかった〜と思ってね。作曲家協会の会長をやってた時期もある。それ以来ね、僕1回も会ってないんでね、1回どこかで会って、その節はお世話になりましたって伝えたいですよね。



―― お2人はそれぞれ何年くらい番組に関わってらっしゃいましたか?



澤田:大岩さんは最後まででしょ?



大岩:最後までじゃないと思うよ。



澤田:(最終回の台本を見ながら)あ、外れてる。いつごろだろう? スタッフに三谷幸喜がいたんですよ。出来は悪かったけど(笑)。名古屋の他局の番組に出たときに、名古屋駅のそばで「僕はずっとマンガ道場で名古屋には来てたんだ!」って言ってましたから、隠してるキャリアではない。



大岩:多分外れたのは、最終回の3〜4年前かなあ。



澤田:18年続いてますから、大岩さんは15年くらいやってるはず。僕は3〜4年なんだよな。「11PM」(木曜の「11PM」は大阪YTV制作で、系列ローカル局が制作に参加できた)とかやりたかったんですよ。いろいろやりたいものがあって。ちょうど「ズームイン」も始まったりして、いろんな事情があって。たしか僕は3年か4年やって一緒にやっていた伊藤くんにプロデューサーを任せて離れるんですね。ただ、顔は出してましたから。スタジオに行けるときはしょっちゅう行ってました。



―― 鈴木さんと富永さんのバトルはいつから始まったんですか?



澤田:最初から僕がお願いしました。大喜利って言った時点でそうですもん。



大岩:「笑点」の歌丸・小圓遊のポジションですね。



澤田:ちょうどその2人です。要するにテレビ的に鈴木さんも富永さんも素人だから、何らかの演出のお願いはしないといけないだろうと、2人に「ケンカしてほしいんですよ、両端に置きますから」って言ったら、「アレだね?」って2人も分かるわけですよ。でもちょっと照れくさそうにね、「え〜?」ってな感じでしたけどね、これが予想以上に面白いわけですよね。面白いんで彼らもノルわけですよ。最初は半信半疑だったし、抵抗感もあったと思います。でも僕の予想を裏切る面白さで、2人も面白いということが分かってきて。細かいことを言うと、鈴木さんは無表情だからあんまりリアクションできないんですよね。一方、富永さんは「ん?」という表情をするしタレント性がある。あとは2人にはマンガの表現力がむちゃくちゃありますからね。



―― あの2人の掛け合いは印象的でした。



澤田:富永さんが亡くなったときに、ネットのみんなの書き込みが「アレは本当は仲良かったんだ」「そんなこと分かってるじゃねえか」って書いてあったから、あ、これは演出でやっているとかなりの人たちが分かってると思うので、言っちゃって構わないと思うんですが、あそこまで面白くなるとは僕も思わなかったです。



―― それを楽しみにしている視聴者もたくさんいました。



大岩:ただ一方で、やっぱりマンガっていう特性なのかなあ。マンガ好きにはたまらないんだけど、一つのバラエティ番組として見る人にはダサく見えるところも当時はあったようです。



澤田:富永さんも書いてるけど、放送当時はアニメ・コミックの勢いのいいときだったから、コママンガに対する郷愁というか、僕なんかは古い人間だからあるんだけども、その話をよくしました。「こんなの当たらないだろう」って富永さんのほうが冷静だった。来期も放送されることが決まったときには「ワンクールもたないと思った」と言ってました。彼はわりと単発でテレビに出ていた人ですから。僕ね、2代目プロデューサーの伊藤くんと一緒に雑誌の取材に出たことがあって、それもね、コママンガの特集をやってる東京のすごいマニアックな雑誌で、「どうしてこの番組を作ったんですか?」と若いスタッフに聞かれました。コママンガってアニメやコミックに比べると狭い世界のものなんですよね。



―― でも結果的に18年も続きましたからね。



大岩:思い付きは大事だよね。



澤田:僕は思い付きと、あともう一つ、過程、練り上げていくプロセスは本当に大事だと思いましたね。「他にない、自分の一番の核になるものはなんなんだ?」っていうところは大事だなあと思います。だから大岩さんが忘れた、このフリップを使った2コマの見せ方は大事なんですよね(笑)。



―― 想定した視聴者ターゲット層は?



澤田:ターゲットは広いですね。まあ、若者とは言いにくいですが。だからもうちょっとかっこいい番組をやりたいなあと思って、その反動が僕の次の番組に出るんですが。若者ウケみたいなものをやろうと思って、それが名古屋ローカルで「5時SATマガジン」っていう番組になりました。土曜の5時のマガジンのような番組っていうコンセプトです。



―― 「5時SATマガジン」は反動なんですね(笑)。



澤田:だって「お笑いマンガ道場」のタイトルを大岩さんが見ながら、「なんかダサいタイトルだよなあ」って(笑)。大岩さんは「ひょうきん族」とかやってる頃だったから、もっとおしゃれなタイトル考えろよって。



大岩:それは覚えてる。「“お笑い”って……」って言った(笑)。



澤田:「澤田くんがそんなタイトルつけるとは」って言われたんですよ。僕は僕なりにちょっとダサめなほうが親しみを持たれるだろうっていう姑息(こそく)な計算ではあったんですよ。



大岩:見事に当たったね。澤田さんってどちらかというと「5時SATマガジン」の感覚の人なんですよ。5時SATマガジンをやる前から、そういうセンスを志向しているし、そういうセンスを求めているディレクターっていうのがずっとあったから、だから「お笑いマンガ道場」というタイトルが出てきたときに、「どうしちゃったんだ!?」っていう(笑)。



澤田:企画も企画だし、タイトルもタイトルだし。



大岩:“お笑い”に“道場”だもんねえ。



―― ちょっと「いなかっぺ大将」みたいな感じですよね。



澤田・大岩:そうそうそうそう。



―― なんで“道場”にしたんですか?



澤田:悩んだんですよ、これは〜。最初、“講座”っていうのを考えたんですが、これは略すと下ネタみたいになっちゃうからまずいなと思って(笑)。本当は“講座”くらいがちょうどいいんですけどね。“教室”だとちょっとなあって。内容は道場じゃないんだけどなあと思いながら、なんで付けたんでしょうね。あんまりいいのがなかったんですね、多分ね。



―― でも道場のおかげで、パンチ力は出ましたよね?



澤田:う〜ん、結果論ですねえ。



大岩:タイトルはね、当たるとよくなるってのは昔から言われてるからね。外れるとタイトルがダサいって言われる。



―― タイトルのよしあしは後で決まると?



大岩:もちろん「5時SATマガジン」なんてのは相当考えたタイトルだと思うし、自分がやった番組だと「ひょうきん族」なんかもそうだと思うけど……。



澤田:「ぴったし カン・カン」とか。



大岩:それもそうで、考えに考え抜いたタイトルなんだけど、「8時だョ!全員集合」ってバカみたいなタイトルじゃないですか。だけどやっぱり歴史を作ったいいタイトル。当たればね。お化け番組になればね。だから僕はタイトルってそんなに、多分ね、この「お笑いマンガ道場」からタイトルにこだわってないと思います。だからそういう意味でも番組は当たらないとダメなんですよ。自分がやってきた番組ってみんなそうだな……。



―― では大岩さんは最初に、田舎臭ささえ感じるタイトルにちょっとびっくりしたんですね。



大岩:その瞬間だけですよ。別に番組が始まってからはそんなこと全然。そんなことに関わっていられなかったし、中身をなんとかしていかないといけなかったら。まあでも楽しかったなあ、中身を考えるのはね。



澤田:このタイトルは時間がない中で考えましたしねえ。その前に結局流れてしまった別企画があって、そのときにもっとキザなタイトルを付けたんですが、それを後に5時SATにしたんですよ。マンガ道場のときは切羽詰まって考えた記憶があります。で、自分でもダサいなーって思ってます。だから大岩さんに言われたときはドキッとしました。「なんだ、高畑さんかと思ったら、澤田くんが考えたの?」といわれて、わ〜って恥ずかしくなった(笑)。



大岩:高畑さんという部長は、本当にそういうキャラクターだったんですよ(笑)。なんかいかにも付けそうだなっていう。逆に澤田さんが気の毒だったんですよ、部下として言われちゃったからさ、使わなきゃしようがなかったんだなって。



―― でも、私は当時小学生だったのですが、このタイトルだからこそ見たという記憶があります。これが例えば「5時SAT」だったら、ちょっと大人向けの番組なのかなと敬遠したかもしれません。



澤田:どこで見たの? 大阪? 大阪はわりと早くからオンエアしてたからね。大阪のお笑いにハマったのが大きいよね。



―― 「笑点」には東京っぽさを感じますが、マンガ道場にはそれがないですよね。



澤田:江戸っ子の風があるよね。僕は三波伸介さんが司会のときに、見学に行ったり、収録を手伝ったりしてましたよ。



―― マンガ道場と同時にひょうきん族も見ていました。



澤田:それまたすごい組み合わせだな(笑)。ひょうきんの構成やってたから大岩さんによく聞いたんだけどね、作家も考える、美術さんもものすごく考える、演者もそれを喜ぶ。みんながノッてきてるんだって話を聞いて、いいなあ〜って。どこかが負担するだけじゃなくて、みんながノッてきて、その相乗効果でどんどん面白くなっていった。当たるってのはそういうことなんだなあって。



―― 当たる番組にはそういう循環が必ずあるのでしょうか?



大岩:ありますね。隅々にまでね。逆に隅々にまで神経を使った番組で外れることはないですよ。外れるのはやっぱりどこかで手を抜いちゃってる。



―― スタッフみんなが一人一人ちゃんと機能している感じなのでしょうか?



大岩:そうですそうです。みんなが番組のことを考えていれば、心象的な話で申し訳ないんですが、エネルギーが集中するんでしょうね。テレビはやっぱり生モノだってのを感じますよ。ジャンルを超えて番組のために集中できる空気がちゃんとあるかどうかが、番組の当たり外れに関わってきますよね。例えば美術のことに口を挟むのはディレクターの仕事だったり、美術の仕事だったりするんだけど、僕はけっこううるさく言うんですよ。領域関係なしに、セットと色に関しても、細かく注文つけたりするんですよ。



澤田:そういうとき、大岩さんは「なんで?」って聞くんだよね。「なぜその色にしたのか?」って。「ダメだよ」って言うんじゃなくて、その色にしたディレクターの考えを聞こうとするね。考えてないと答えられないわけですよ。ドキッとしますよね。



大岩:そういうことを言うから煙たがられるんですよ。



―― 大岩さんのセットに対するこだわりとは?



大岩:一番はそこに佇む人、その人がちゃんと引き立つセットであったり、色であったり、照明であったりするのかどうかですね。大体デザイナーだからいいデザインを考えるんだけど、そこに演者が入ると埋没しちゃうことがあるわけですよ。全てが人を引き立たせるための材料じゃないですか。そうなってるかどうかが一番重要です。



―― あくまで背景じゃないといけないということですね。



大岩:いまだに番組を見てても思うんですけど、日本ほど色使いの多い番組はないですよね。欧米がいいか悪いかは別として、3色、あるいは4色だと多いですよ。どんな番組見ても。あと、すぐに花を置きたがるんですよ。それはデザイナーの能力を放棄していると僕は思っているんです。セットに花を置かないと空間が埋まらないみたいなね。だけど優れたデザイナーは、例えば昔の「ミュージックフェア」で言うと、シワシワの壁だけでも十分効果が出て、歌手も引き立つと。だけど今の番組はグッチャグチャになっちゃって……。



―― 花が置いてある番組、確かに見たことがありますね!



大岩:僕は「世界まる見え!テレビ特捜部」っていう番組もやってるんで、世界中のテレビを見るわけですよ。そうするとね、日本の番組のデザインはまだまだだなあって思いますね。だからセットを作る人たちは舞台をちゃんと見てないと。舞台は絶対にそんなことないですから。ちゃんと人を立たせるようになっている。テレビはそこがねやっぱりね……いまだに気付いていないですよ。



―― 確かに足し算ばっかりな気がしますね。



大岩:この番組では誰に注目してほしいのかっていうことをみんなが考えれば、デザイナーも照明もカメラマンも、自然と削ぎ落としていくんですよ。それができてない、みんなそれぞれのパートをやってる感じで。でも視聴者の目線で考えたら、普通に分かりそうなんだけどね。目がチカチカして嫌だろうと思うんだけどね。



―― 特に今は薄型テレビになって大画面化しているから、よけいに圧を感じて、パチンコ屋の中に放り込まれた感じがします。



大岩:そうそうそう(笑)。



―― マンガ道場を始めたころはどんな思い出がありますか?



大岩:スタートするときはけっこう切羽詰まってたけど、スタートしてからはすごいみんな一生懸命だったよね。それは感じたね。スタートして1年2年なんてのは。やってて楽しかったんじゃないかな。番組を作ることが。気の合う仲間と楽しくできるなっていう。



澤田:最初に笑いが発生して、なんとなくスタジオの雰囲気がいいわけですよ。控室も大部屋でみんな一緒になって、偉そうな人もいないし、こっちも全然若い。僕は当時入社7年目で29歳だったし。年上も2人くらいしかいなかったですね。最高でも30代とか。みんな若いから雰囲気がいいですよね。それが全国でも放送されるようになるんだけど、みんな全国の反応を知らないから。演者は東京で何か言われたりするだろうから、全国でヒットしているという実感があったかもしれない。最初ブッキングも大変だったんですよ。どんな番組か分からないから。演者の皆さんの理解は、東京でも放送するようになってから全然雰囲気が変わりましたね。



大岩:僕一回富永さんのお宅にお邪魔したことがあるんですよ。なんで呼ばれたのか全く覚えてないんだけど、そのときにボソッと「この番組楽しいよね」って言ってくれたんですよ。それは覚えている。だけど「実は大変なんだよな〜」とも言ってました。「でも楽しいね」って言われたときに、これはひょっとしたら当たるのかもなと思いました。



澤田:描いているマンガの枚数が半端じゃないんで、マンガ界の相場で1枚いくらで考えたら本来ものすごいギャラになるんですよ。それでも楽しかったっていうことは、やっぱり雰囲気が良かったんでしょうね。



大岩:そうなんだよ〜。今回復活するマンガ道場でも、鈴木・富永っていう対立関係はやっぱ目玉だから作らないといけないということで、くっきー!さんが入ったりしてくれて、まあ、その形になるかどうかはやってみないと分からないんだけど、そのキャスティングをするときに、鈴木・富永に代わる今のマンガ家さんをイメージするじゃない? それでいろいろ候補が上がる、それで当たるじゃん? そうするとさ、まさに今澤田さんが言った、マンガ1枚いくら? なんですよ。もちろん当時もそうなんですけど、それで今回は何人も断られたんです。その点って、実はこの番組が始まる当時はまったく考えてなかったんです。よく考えてみたら、1枚いくらでとんでもない人たちなんですよ、鈴木・富永、この両先生って。実はものすごくぜいたくな番組なんですよね。とんでもない枚数をさ、よくやったよね、よく考えてみたら(笑)。



澤田:こっちは全然考えてなかったけど、後々考えてみると、そういやなあ……ってなりますね。だから朝早く起きて、名古屋まで来て収録するって水森亜土ちゃんだけじゃなく、みんなやっぱり嫌なんだなあって(笑)。何も考えてなかった。でも名古屋のCBCでは(東芝日曜劇場のころ、基幹局も制作)、東京の役者がみんな1週間名古屋に来て、缶詰になって1週間番組を作ってると。スケジュール的にはありえない。ギャラもあるし。でもそのときの濃縮度が楽しいんだとあとから聞いて、面白いもの、自分たちが納得するものをやってると、普段のプラスマイナスではないものが出来上がるんだなと思いますね。



大岩:今分かった。すごいぜいたくな番組だったということが。ほんとに。枚数だけで言っても相当だもんね。週刊誌とかでもせいぜい2ページとかだよ。そら当たるわな。



澤田:だんちゃんのもそうだし、女の子が描いたかわいいマンガもあるしね。やっぱり番組のリズムとしてクスクスもあっていいわけで、それぞれに役割があるんですよね。



大岩:なんか今後聞かれたら、そう言おう。



澤田:われわれだけではもう昔のことは話さないから、こういうときに話しながら整理がつくっていうね。



大岩:そうそうそう。しかしなんで富永先生の家に行ったんだっけなあ……。



澤田:まあ、覚えていないこといっぱいありますよね。



大岩:ただでさえ記憶力悪いんだから。



●復活! 令和もお笑いマンガ道場



中京テレビ 9月26日午後4:25〜5:30



※「hulu」で9月27日12:00から見逃し配信



※中京テレビ公式チャンネル(YouTube:https://www.youtube.com/c/ChukyoTV)で事前配信中 18日からは第3回が配信



出演/柏村武昭 磯貝初奈(中京テレビアナウンサー) 【回答者】車だん吉 島本和彦 くっきー!(野性爆弾) 土屋伸之(ナイツ) 足立梨花



1976〜1994年に放送された『お笑いマンガ道場』(中京テレビ)が令和の時代に復活。当時のセットを再現した中で、お題に沿って回答者たちがマンガを披露し、その面白さを競う。柏村、車の往年のやりとりのみならず、“令和“の回答者たちのマンガの完成度は見ものだ。


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