土方歳三の謎に包まれた死…事故死だった可能性や国外逃亡説も?

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2021年09月26日 14:02  日刊サイゾー

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──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

 先週の『青天を衝け』のクライマックスは、なんといっても渋沢成一郎(高良健吾さん)に別れを告げる土方歳三(町田啓太さん)のシーンであったと思います。高良さん、町田さんの熱演もあり、引き込まれてしまいました。新政府軍への徹底抗戦を貫きながらも、実は死に場所を求め続けていたという土方像には「なるほど」と思わせられつつ、「史実の土方は最後まで決して諦めたりしなかったはず」という思いも心をよぎりましたが。

 『青天〜』では、土方が致命傷を受けるシーンは描かれませんでした。決戦の夜、多くの兵士たちの遺体に混じって、静かに息を引き取る土方と、血まみれの三つ葉葵の御紋のついた腕章が映し出されたことで、旧幕軍が壊滅し、徳川の時代が完全に終わったことが示されただけ。史実とは少々異なる部分も含まれましたが、ああいうふうにしか、キレイにはまとめられないだろうなぁという気もしました。土方の死の前後の情報は、本当に錯綜していますからねぇ……。ということで、今回は土方の謎の死に迫りたいと思います。

 まずは土方の死の前後、関係者たちが残した証言を見ていきましょう。新選組隊士・島田魁(しまだ・かい)の日記には、次のような記述が出てきます。なお、『島田魁日記』の原文は漢字とカタカナで句読点も少ないため、筆者の判断で原文をひらがなに変え、句読点と補足を加えた形でご紹介します。

 島田によると、明治2(1869)年5月11日、土方は五稜郭から「彰義隊、額兵隊、見国隊、杜陵隊、伝習士官隊(そして、新選組)」などから成る500人ほどの部隊を率いて「一本木街柵(=現在の一本木関門)」に出陣しました。目的は、新政府軍に攻撃されている「炮台を援(たすけ)」ることです。

 しかし、新政府軍の勢いは凄まじく、「異国橋近く(まで達し、)殆(ほとん)ど数歩(の距離と思える場所)」にまで迫っていたとのこと。当時の一本木関門の正確な場所は不明なのですが、現在の「(史跡)一本木関門」と、「北海道銀行 函館十字街支店」の近くとされている「異国橋」の間は直線距離にして約2キロも離れています。幕末の人の健脚でも徒歩20分ほどかかる距離であると考えられ、「数歩の距離」は大げさな印象ですが、死の恐怖の中にいた兵士たちには敵が間近にいると感じられたのかもしれません。


1:五稜郭 2:一本木関門

 島田によると、「海岸と沙山(=砂山)とより(新政府軍の)狙撃」があり、「(味方が)数人斃(たお)る」事態になりましたが、土方には「倦む色無し」……彼の気迫はまったく衰えませんでした。ところが、ある瞬間に「敵(の銃弾が)、(土方の)丸腰(の)間を貫き、(土方は)遂に戦没」してしまったのです。土方たちは、前方の函館側と、すでに新政府軍の軍事拠点となっていた後方の七重浜側と、前後を挟まれる形で激しい銃撃にさらされ、その混乱の中で土方はいつのまにか被弾してしまった。それが致命傷となって亡くなった、というようにも読めます。

 もうひとり、土方の比較的近くにいたとされる立川主税(たちかわ・ちから)という新選組隊士の証言『立川主悦戦争日記』も注目すべき史料です。こちらも島田の日記と同様、原文に句読点などを加えてご紹介します。

 立川によると、「土方、額兵隊(などを)曳(ひきい)て後殿す(=しんがりを勤めた)。故に異国橋まで敵(は)退く」。土方たちの奮戦によって、一本木関門に接近しつつあった政府軍は異国橋まで約2キロ、一度は後退したという内容が立川の記述にはあり、土方がいかに味方の士気を高め、新政府軍を威圧する存在であったかがうかがい知れます。

 しかし、土方の死を綴った部分の文章は、島田の文と同様になぜか難解です。「七重浜へ敵、後(うしろ)より攻(め)来(た)る故に土方、是を差図す」。ここは、敵が後方の七重浜側からも攻めてきたから、土方はその対策を指示したというような意味でしょう。

 原文は次のように続きます。「(しかし)、亦(また)一本木(関門)を(七重浜側からの敵が)襲(ってきた最中)、敵(の銃弾が土方の)丸腰(の)間を貫き、遂に(土方は)戦死したもう」。ここは「土方は、七重浜から攻め込んできていた新政府軍による狙撃で腰のあたりを撃たれ、それが致命傷でお亡くなりになった」と意訳できると思います。

 実際はどこから銃弾が飛んできたのかもわからないほどの混戦状態だったが、傷痕が腰のあたりだったので、後方の七重浜側から撃たれたと判断するしかなかったのかもしれません。

 なお、ドラマでは、最終決戦の前に土方が成一郎を逃したことになっていましたが、史実では違ったようです。渋沢成一郎は彰義隊の隊長です。彰義隊はこのとき、「(七重浜から攻めてくる新政府軍を食い止めようと)砂浜側」で戦っていた……という証言が『立川主悦戦争日記』には出てきます。史実の土方と成一郎は、最後までさほど遠くはない位置にいたと思われます。

 しかし、やはり解せないのが、伝聞で書かれた『島田魁日記』は仕方ないにせよ、『立川主悦戦争日記』など土方の傍にいたという人物の書いた複数の資料でも、土方の死の瞬間についての記述が妙に似通っており、しかも素っ気ない点です。共通して、土方の「丸腰(の)間を(銃弾が)貫き」と表現され、それで生命を落とした、と書いているだけなのです。

 さらにその後、土方の遺骸をどこに、そしてどういう形で埋葬したかという情報が完全に欠けてしまっていることも不可思議です。土方の遺族がもっとも知りたいであろう情報がなぜか抜け落ちているのでした。

 ドラマでは、土方の小姓の鉄之助が土方に写真と髪束を託され、陣中から日野の土方家を目指して旅立つシーンが出てきましたが、史実では、立川主悦と沢忠助(さわ・ちゅうすけ)の両名も日野の土方家に使者として向かいました。出発は「箱館戦争」終結前でしたが、新政府軍に捕らえられ、身柄を拘束されていたので、日野への到着は戦争終結後、しばらくたってからになってしまいました。しかし、彼らの報告を聞いた土方家が残したメモは簡素なものでした。つまり、この二人は、手記として文字化された以上の情報を土方家に伝えなかったことが推察されます。

 このように謎めいた経緯からは、「何か大事なことを隠そうとしている」と感じる人がいてもおかしくはありません。「味方の裏切りで、背後から銃撃されて土方は暗殺されてしまった。関係者の証言がやけにそっけないのは、それを隠そうとしてのことだったのでは」「そういう報告を土方家も聞かされたが、“味方の恥”を歴史に残さないため、文字に残さなかったのでは」という推論さえできてしまうのです。

 土方は慕われていたので、暗殺の線は薄いように思います。しかし敵が目前に迫る中で、焦った隊士がライフル銃を暴発させ、土方の腹部を弾が直撃という“不幸な事故”であれば、実際に起きた可能性を否定はできないようにも思われますね。

 では、土方の遺体はその後、どうなってしまったのでしょうか? これも実はよくわからないのです。

 関係者からの証言をまとめると、“土方の落馬の瞬間、彼の傍には沢忠助がいた。異変に気づいた安富才助も駆け寄り、二人は土方の死を確認した。安富は土方の愛馬を引き、五稜郭にまで報告に戻った。しばらくして五稜郭からは「市中取締役」の小芝長之助が遺体引き取り役として派遣されてきた”という経緯があったそうです。

 小芝は土方の遺体を背負って五稜郭に戻り、そこで穴を掘って埋めたとされていますが(『両雄士伝』)、しかし、その場所を「なぜか」具体的には伝えてくれていません。

 明治32年に行われた「旧幕府史談会」では、「(土方より遅れること5日後に戦死した)伊庭八郎(いば・はちろう)の遺体が、五稜郭の土方歳三の隣に埋葬された」という、小芝の証言を裏付けるような情報もあります。

 しかし残念ながら、土方と伊庭の遺体が埋葬されたとされる場所の土はすでに掘り返されていました。明治11年に土塁修復工事を受け、その際に出土した多くの人骨は、近隣の願乗寺に改葬されたのだとか。この中に土方や伊庭の遺骨があったかは不明ですが、願乗寺内でも後にさらなる改葬が行われたそうで、もはや真実を確かめる術はないのでした。

 このように謎の多く残る土方の死の前後には、現代人のわれわれの推論が入る余地が十分にあります。面白いのは「土方生存説」があることでしょう。落馬した土方は本当に死んだのではなく、仮死状態にすぎなかった。それゆえ、懇意にしていた函館の豪商・佐野専左衛門のツテでロシアに亡命した、というような“噂”が昔から囁かれています。

 ロシアというのは、“西南戦争で戦死したはずの西郷隆盛が実は生きていて、亡命した先だ”と噂された国でもあり、明治期の日本でこの手の噂に出てくる定番の亡命先のようです。しかし、当時の異国船は日本人を乗せたがらない傾向が強く、豪商・佐野の口利きくらいでは、ロシアとの間に濃密な接点が見いだせず、しかも明治新政府にとって厄介者の土方をロシア船が乗せてくれるとは思えません。

 しかし、それで土方の亡命可能性が潰えたわけではないのが面白いのです。ロシアよりずっと可能性が高いと思われるのは「フランス亡命説」です。旧幕時代にフランスから軍事顧問として招聘され、フランスからの帰国命令を無視してまで土方たちと行動を共にしていたフランス軍人ジュール・ブリュネ(映画『ラストサムライ』のモデル)たちが乗った軍艦が、函館沖にまだ停泊中だったという事実があるためです。

 「箱館戦争」の最終段階で、土方はブリュネらをフランス側の軍艦に乗せ、日本から送り出そうとしたのでした。しかし、ブリュネらはかつての盟友の最後を見届けようとしたのか、函館から出港せずにとどまり続けていたのです。

 “死や埋葬といった情報が少ないのは、土方が実は生きていた証拠であり、秘密裏に土方はフランスに渡った”という推論自体は可能のようで、筆者もこの噂の検証を行ったことがあります(興味のある方は、拙著『眠れなくなるほど怖い世界史』〈三笠書房〉をご覧ください)。しかし、土方は部下を見捨てて亡命するような人物ではないので、この手の話は「源義経がジンギスカンになった」というレベルの歴史ロマンだと受け止めておいたほうが賢明だとは思います。

 『青天〜』の土方は、最後まで近藤勇の名を口に出しませんでしたが、興味深いのは、土方だけでなく、近藤勇の遺体もまた、今どこで眠っているのかがわからない状態になってしまっていることです。真の盟友同士だと、死後の状態まで似てくるものでしょうか。

<過去記事はコチラ>

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  • アイヌ独立のために戦ったりプーチノフ大統領とやりあったりしたんじゃないかな。
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