立川談志とのお別れ【しあわせの基準 ー私のパパは立川談志ー 第二十八回】

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2021年10月18日 12:01  週プレNEWS

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写真立川談志師匠とゆみこ氏、マンションの廊下での1枚
立川談志師匠とゆみこ氏、マンションの廊下での1枚

天才、奇才、破天荒......そんな言葉だけで言い表すことのできない、まさに唯一無二の落語家・立川談志。2011年11月、喉頭がんでこの世を去った。高座にはじまりテレビに書籍、政治まで、あらゆる分野で才能を見せてきたが、家庭では父としてどんな一面があったのか? 娘・松岡ゆみこが、いままで語られることのなかった「父としての立川談志」の知られざるエピソードを書き下ろす。

テレビ出演をし、エッセイの執筆もしているゆみこ氏。それは、談志師匠の一言から始まっていた。ゆみこ氏を動かした、その言葉とは?

* * *

今年の春に集英社の方と知り合い、「エッセイを書いてみたい」と私が言うと、週刊プレイボーイの方をご紹介してくださり、すぐにこの連載を初めることになった。私のいつもの悪い癖の思いつきだった。

私は物書きではないし、高校中退で漢字もろくに読み書きもできない。ただ、立川談志が亡くなって今年の11月21日で10年になる。父の事、父と私の事を思い出して書いてみたいと思った。

私が40代の頃、父が「ゆみこ、本を書いたらいいよ!」「お前、テレビに出てこいよ!」と時々言っていた。私が「本なんて書ける訳ないじゃないー」と言うと「思ったことを書きなさい」と言った。

「テレビに出る!? 私を何歳だと思ってんのよー」と答えると「恥ずかしかったら、メガネをかけて出るといいよ!」と父は言っていた。その時はどちらも現実味のない話だったが、皮肉で残念な事に父が死ぬ事で実現した。

10年前の3月。父の介護が始まり11月に亡くなるまで、私は毎日日記を書いた。小学生の夏休みの宿題以外で日記など書いたこともなかったが、父が気管切開をして喋れなくなり、筆談になった影響もあったのかもしれないが、とにかく毎日、父のお古の原稿用紙に自然に書いていた。

父に言われた通りに、その日の様子と思ったことだけを書き続けていた。半年くらいたったある日、こっそり弟に「これ、いつまで書いたらいいんだろう?」と相談したら「ここまで書いたなら、最後までじゃないのかな」と言われて、結果、父の亡くなった日の次の朝まで書いた。

その日の朝は抜ける様な青空だった。父は紋付き袴姿で、お布団の上で眠っていた。私は1人で原稿用紙とボールペンを持って、近所の喫茶店でモーニングを頼んだ。すると、父が大好きで、最後はこの曲で送って欲しいと言っていた『ザッツ・ア・プレンティー』というタイトルが、空から降りてきた。「これで満足!」と父が教えてくれていた言葉。258日。父の看取りの記録となった私の日記は、その日で終わった。

そして奇跡的に、1か月後の立川談志のお別れ会の日にそれは本になった。その奇跡はおきたのではなく、おこしてくれた人達がいたからだった。

当時、一緒に暮らしていた彼氏が、私の誤字脱字とひらがなだらけの日記をパソコンにきちんと入力してくれていた。以前から立川談志の本を沢山作ってくださって、父が信頼していた出版社の女性が、父が亡くなり談志ロスになっていると弟から聞き、思い切って私の日記を送った。

そしてお別れ会に間に合う様にと、徹夜をしてわずか3週間で本にしてくださった。何人もの方々が泣きながらの作業だったそうだ。「ゆみこ、本を書いたら?」「思ったことを書きなさい」。父が言ってくれたことが、父が亡くなった事によって実現した。 

「ゆみこ、テレビに出てこいよー」も同じタイミングで突然やって来た。 私が日記を書き終えた次の日は、父の火葬だった。長年父のマネジャーをしていた私の弟は、火葬までは家族葬で、その後にお弟子さんとマスコミにお伝えする予定でいた。

葬儀屋さんと相談をして、いちばん空いている場所と時間を決めた。家族だけで紋付き袴姿の父と最後のお別れをして、私は父と一緒に火葬場に向かった。落合斎場に到着すると、入り口は既にマスコミの方々でいっぱいだった。

驚いたし怖かったが、引き返す訳にいかない。私は父の棺に手をあてて「パパ! 行くよ!」とかけ声をかけて斎場に入った。それまで知らなかったが、斎場は午後3時が最後の予約で、少し遅れても待っていてくれるそうだ。

父の遺言通りにお坊さんもお経も無しにしたため、すぐに棺は火葬された。気絶するほど悲しくて、大声で泣いた。火葬が始まると同時に、私と弟の携帯が鳴り出した。もうこれ以上は秘密にできないと判断し、私と弟は父の火葬の間、いろんな方々に電話で訃報をお伝えした。

火葬を待つ時間は長く感じると聞いていたが、あっという間だった。葬儀屋の方に後どれくらいですか?と聞くと「あと5分、今さましてます」と言われたのが忘れられない。父の最後は痩せていたが、お骨は立派でLサイズの骨壷だった。

お清めの時間もなく、私達家族は父のお骨を持って、どこへどう帰ればいいのだろ?と呆然とした。出口にはマスコミのカメラとオートバイが待ち構えていた。幸いチャーターしていたマイクロバスがどこにでも行ってくれると聞き、バスに乗り込みその中からニューオータニホテルの友人に電話をすると、今日なら記者会見の対応ができると言われた。

母と姪達はタクシーで帰らせて、私と弟はそのままホテルに行き、記者会見の準備を始めた。父の訃報が速報で流れ、志の輔さんは囲み取材を受けていた。突然な事だったが、私の店のスタッフもすぐに駆けつけてくれて、夜、無事に弟と並んで記者会見が出来た。無論、テレビ中継もされた。

そしてその直後から、私はメガネをかけてテレビに出るようになった。 

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