訪れるべき「戦国最強」の山城を歴史研究家が格付けランキング! 2位は信長「安土城」、1位は?

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2021年10月21日 09:00  AERA dot.

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写真【4位】備中松山城の天守。二重二階の現存天守。現在は西側面の廊下から直接入るが、本来は八の平櫓を経なければ入れなかった。
【4位】備中松山城の天守。二重二階の現存天守。現在は西側面の廊下から直接入るが、本来は八の平櫓を経なければ入れなかった。
 日本全国には3〜5万の城があるとされ、その多くが山城だという。週刊朝日ムック『歴史道 Vol.17』では、城関連の著書も多い歴史学者・小和田泰経氏に自身が訪れた山城を「遺構の保存状態」「防御力」「登りやすさ」「交通アクセス」の4つの基準で採点してもらい、戦国最強で「訪れるべき」山城ベスト50を選出してもらった。ここでは、同率で4位となった城からトップ5を見ていこう。


【1位はどこの城? トップ5の採点詳細や写真はこちら!】
※ランキングの採点方法
日本全国に数多く残る山城。その中から、小和田氏がもう一度訪ねたいと願う「戦国の山城」を、編集部が独自に選んだ以下の4つの項目で採点してもらった(採点は、小和田氏の主観によるもので、訪れる時期や季節によっても大きく印象が変わります)。
遺構の保存状態……曲輪(郭)や石垣、石塁、土塁、空堀、堀切、切通などが良好に保存されているか否かで採点。
城の防御力……軍事要塞として築かれた山城。曲輪や空堀、土塁などが城の防御力を高める配置になっているか否かで採点。
アクセス……最寄り駅からの交通の便や、高速道路からの利便性。また、山頂部まで車で行けるかなどを総合し、多角的に採点。
登りやすさ……城内散策路の整備状況や駐車場の場所。さらに案内板の設置などを含めて採点。


*  *  * 


第4位 備中松山城(岡山県/92点)
天守が現存する唯一無二の山城


 戦国時代に備中松山城をおさえたのは、三村家親である。しかし、三村家親は、備前の宇喜多直家と争い、暗殺されてしまう。このころ、備中には西から毛利輝元、東から織田信長の勢威が拡大してきていた。家親の子元親は毛利氏に従っていたが、元亀三年(1572)、足利義昭の仲裁で毛利氏と宇喜多氏が和睦すると、織田信長に寝返った。三村元親にとって、毛利氏についた宇喜多直家は父の仇だったためである。結局、松山城は毛利・宇喜多軍によって落とされ、以後は毛利氏の支城となる。


 関ヶ原の戦い後、毛利輝元が周防・長門へ転封されると、備中は幕府領となり、総代官として入った小堀正次・政一が松山城に入って修築された。さらに、松山藩主となった水谷氏によって現在も残る天守などが建てられている。


 城は高梁川の東岸にあたり、麓からの高さが350mほどの小松山に築かれている。相当な山城であるため、山上での作事が困難であったのだろう。天守と二重櫓のほか、建物はすべて平櫓である。ただし、山上の主郭部は三ノ丸・厩曲輪・二ノ丸・本丸・後曲輪・水ノ手門脇曲輪の6曲輪から構成されており、防御力は高い。しかも、麓には石垣造りの御根小屋があり、中腹には中太鼓ノ丸や下太鼓ノ丸といった出丸を構えていた。


【遺構の保存状態 24点/城の防御力 25点/交通アクセス 21点/登りやすさ 22点】




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第4位 岩村城(岐阜県/92点)
戦国時代の山城を近世城郭へと変貌させた


 伝承では、鎌倉時代に加藤景廉の子景朝が築いたというが確かなことはわかっていない。戦国時代には、加藤氏の後裔にあたる遠山氏の居城となっていた。


 岩村は、東濃の要衝で、信濃・三河の国境にも近い。戦国時代の城主遠山景任は、信濃から進出を図る武田信玄に攻められ、織田信長の支援を受けて抵抗を続けたが病没。そのため、城は武田氏の支配下に入り、長篠の合戦後、信長が奪取している。そして、信長の家臣河尻秀隆や森長可・忠政兄弟によって改修された。


 岩村城が築かれている城山の標高は717mで、江戸時代まで存在していた山城の中では最も高い。ただし、麓からの高さは150mほどである。縄張は、頂上に本丸をおき、二之丸・八幡曲輪などを階段状に配す。本丸は櫓・多聞櫓などで囲まれるなど堅固であった。しかも、本丸の南東には出丸を設け、背後を固めている。


 江戸時代には、東濃の要衝として松平(大給)氏の居城となった。ただし、居館などは山麓に移されたため、藩庁の機能は山上の主郭部には存在していない。


 岩村城は、遠山氏時代の縄張を踏襲し、曲輪を石垣造りとしている。いわば、中世の縄張が生きている近世城郭だった。出丸まで林道が通っているが、遺構の破壊に配慮されているのも評価が高い。


【遺構の保存状態 24点/城の防御力 25点/交通アクセス 21点/登りやすさ 22点】



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第3位 月山富田城(島根県/93点)
毛利元就も攻め落とせなかった難攻不落の城


 月山富田城は、交通アクセスが良ければ、第1位に選ばれてもおかしくない名城である。


 城は、出雲の富田に所在し、麓からの高さが150mほどの月山に築かれているため、月山富田城という。この時代、富田は水上交通が盛んで、船で中海から飯梨川をさかのぼり富田城下まで来ることができたという。山陽方面に抜ける陸上交通の要衝でもあり、出雲の中心地であった。室町時代には、戦国大名となった尼子氏の居城となる。そして、出雲・石見・因幡・伯耆など11カ国を支配する拠点となった。


 月山の山頂に主郭部があり、中腹に山中御殿や千畳敷、山麓に里御殿などを配置していた。南北1キロメートル、東西1キロメートルに及ぶ巨大な山城である。登城路は菅谷口・御 子守口・塩谷の三つが存在した。谷筋を通る登城路は、尾根に設けられた曲輪群によって守られており、いずれも山中御殿につながっていた。 山上の主郭部は、本丸・二ノ丸・三ノ丸が連郭式に配置されている。山中御殿から「七曲がり」とよばれる登城路を通らないと、この主郭部には到達できない。つまり、山中御殿を死守すれば、主郭部に侵入される恐れはなかったのである。




 また、万が一山中御殿が攻略されても、三の丸から「七曲がり」を登る敵を迎え撃つことが可能だった。「七曲り」は文字通り、道が幾重にも折れ曲がっており、そこを側射するわけである。 主郭部は総石垣の曲輪であるため、侵入されにくい。もし三ノ丸まで侵入されても、二ノ丸と本丸の間には大きな堀切が敵を阻んだ。加えて、本丸から北東に向かう尾根筋には、多くの小曲輪があり主郭部の背後を固めていた。


 月山富田城を本拠に中国地方に覇を唱えた尼子氏であったが、勢力を拡大する毛利元就が永禄八年(1565)に、3万5000で城を包囲すると、一年半におよぶ籠城のすえ、降伏開城した。


 このとき、毛利軍は、菅谷口・御子守口・塩谷口の三方から月山富田城を攻撃している。これに対し、降伏はしたものの、尼子氏は城を守り切った。その攻防の舞台となった虎口は堅固に守られており、見逃せないポイントとなっている。


 もっとも、現状の遺構は、尼子氏時代のものではない。尼子氏の降伏後、月山富田城は毛利氏の支配下におかれる。そして、関ヶ原の戦い後に毛利氏が退去すると、替わって堀尾吉晴が入城した。この堀尾氏の時代に城は改修され、近世城郭として完成したのである。


 慶長十二年(1607)、堀尾氏は松江に居城を移す。その後、月山富田城は廃城となっている。


【遺構の保存状態 25点/城の防御力 25点/交通アクセス 20点/登りやすさ 23点】



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第2位 安土城(滋賀県/94点)
築城後わずか6年で焼失した織田信長の居城


 安土城は、観音寺城を本拠とする六角氏の支城であった。実際、観音寺城が築かれた繖山の麓に位置する。しかし、六角氏は永禄十一年(1568)、織田信長による上洛に抵抗した末、観音寺城を放棄して脱出。こののち、南近江を制した信長が近世城郭として完成させた。


 城は、琵琶湖に突き出た麓からの高さが100mほどの安土山に築かれている。最高所に本丸を置き、周辺に二ノ丸・三の丸を配す。そして、この本丸・二ノ丸・三ノ丸を守るように、家臣団の屋敷地が配置されていた。なお、曲輪の名称や家臣の邸宅は、江戸時代の絵図によるもので、当時、どのような曲輪名であったのかは不明であり、家臣の屋敷についても、実証されているわけではない。


 本丸・二ノ丸・三ノ丸とされる曲輪群で構成される主郭部は、周囲を多門櫓で囲まれており、防御は堅い。その中央に五重六階地下一階の天主が建てられていた。こうした本格的な天主が建てられたのは、歴史上、安土城が最初とされる。




 また、黒金門跡は、桝形構造となっている。これは、近世城郭における虎口の到達点であり、安土城に採用されている意味は、見逃せないポイントとなる。


 本丸には、大手道・百々橋口道など、複数の登城路が通じていた。百々橋口からの登城路は、城内に創建された寺院である宛寺の境内を通る。宗教に無関心であったとも言われる織田信長だが、仏教による守護を求めていたのは間違いあるまい。というのも、この宛寺は、信長自身が創建したものだからである。


 天正十年(1582)の本能寺の変後、安土城は焼失。織田信長の次男信雄が火を放ったともいわれるが、確証はない。すでに山崎の戦いで明智光秀が敗北したあと、安土城を守備していた光秀の家臣が敗走する際に自焼したものであろう。


 なお、焼失したといっても、城域のすべてが焼失したわけではない。信長の嫡孫秀信が入城し、織田氏の居城となる。天正十三年、豊臣秀吉の養子豊臣秀次が近くに八幡山城を築城し、安土城は廃城となった。天守など建造物の遺構は失われているが、石垣の保存状態は良好なので満点としている。


 現在、整備されているのは主郭部だけであり、本来の城域はもっと広い。そのうえ、観音寺城を詰の城と考えることができれば、その防御力は格段にあがるため、防御力も満点とした。


【遺構の保存状態 25点/城の防御力 25点/交通アクセス 22点/登りやすさ 22点】



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第1位 鳥取城(鳥取県/96点)
江戸時代・近世城郭へ改修された悲運の城


 今回、「戦国の山城ベスト50」の第1位に選んだのは、悲劇の城として知られる鳥取城である。


 天正八年(1580)、織田信長の命をうけた羽柴秀吉が因幡に侵入して鳥取城を攻撃すると、城主の山名豊国は秀吉に降伏した。しかし、これを不服とする家臣らは、安芸の毛利輝元に支援を要請し、山名豊国を追放。こうして鳥取城は、城将として派遣された吉川経家を中心に、織田方と戦うことになったのである。


 羽柴秀吉は、天嶮の要害として知られていた鳥取城を力攻めすることを避け、兵糧攻めを行う。餓死者も続出したこの攻城戦は、後世、「飢え殺し」と呼ばれる。翌天正九年、3カ月ほど続いた籠城戦の末、ついに吉川経家は降伏開城した。


 その後、秀吉の側近宮部継潤が城主となり、継潤の死後は子の長房が受け継ぐ。しかし、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍石田三成に通じたとして、鳥取城は東軍に攻められ開城した。


 関ヶ原の戦い後、姫路城主となった池田輝政の弟長吉が6万石で入封し、この池田長吉によって近世城郭に改修された。さらに元和三年(1617)には池田輝政の孫光政が因幡・伯耆32 万5000石で入封し、城の規模が拡張されている。




 多くの山城では、山頂付近に曲輪が集中するが、鳥取城の曲輪は山頂から麓にかけて配置されている。そのため、山頂一帯の山上ノ丸と山麓一帯の山下ノ丸という2元構造なっていた。


 山上ノ丸は、麓からの高さが240mほどの久松山山頂に築かれている。天守が建てられていた本丸のほか、二ノ丸・三ノ丸といった主郭部が連郭式に連なる。さらに、この主郭部は出丸によって防御されていた。


 山下ノ丸は、久松山の山麓におかれ、幅25mほどの内堀によって守られていた。実質的な本丸に相当するのが天球丸で、このほか二ノ丸・三ノ丸などが階段状に配置されている。 山上ノ丸と山下ノ丸との間にも、無数の曲輪が設けられ、さらには斜面の移動を阻む竪堀や登石垣も構築されている。山下の丸を落とさない限り、敵は山上ノ丸に攻め込むことはできなかった。こうした点も踏まえ、防御力は満点とした。


 ただ、山上ノ丸は防御力が高いものの、政庁としては利用しにくい。一方、山下ノ丸は政庁としては利用しやすいが、防御力は低い。しかし、鳥取城では山上ノ丸と山下ノ丸が一体化しており、それぞれの長所を生かすことができた。鳥取城は、戦国時代から江戸時代にかけて、最先端の技術を取り入れながら改修されている。時代による石垣の積み方の違いも、この城の見どころのひとつである。 江戸時代に、山上ノ丸が重要視されることはなくなった。しかし、有事の際には、利用するつもりだったのである。


【遺構の保存状態 24点/城の防御力 25点/交通アクセス 23点/登りやすさ 23点】



◎監修・文/小和田泰経(おわだ・やすつね)1972年、東京都生まれ。歴史研究家。國學院大學大学院文学研究科博士課程後期退学。専門は日本中世史。著書に『家康と茶屋四郎次郎』(静岡新聞社)、『戦国合戦史事典 存亡を懸けた戦国864の戦い』(新紀元社)など。


※週刊朝日ムック『歴史道 Vol.17』では、戦国最強の山城「ベスト50」を徹底解説しています


このニュースに関するつぶやき

  • 山頂に「丸」が付く西丹沢は、武田方の要塞だった説に一票!
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  • 岡山の備中松山城いいですよ。途中までシャトルバスありますよ。籠もあります。猫のサンジューローがいますよ。
    • イイネ!21
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