人間国宝・柳家小三治師匠が逝去 “孤高の噺家”が見せた温かな人間味

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2021年10月22日 17:00  AERA dot.

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写真2017年の小三治師匠 (c)朝日新聞社
2017年の小三治師匠 (c)朝日新聞社
 江戸落語の大看板、落語家として3人目の人間国宝、柳家小三治師匠が亡くなった。享年81。その芸は飄々として緻密。円熟を極め恬淡(ていたん)の域にしてなおにじむ人情味に多くのファンが魅了された。あの「まくら」は、もう聞けない。


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「噺家(はなしか)は噺家らしくしなきゃいけない、といういわれ方をされるのがすごくいやだったね」


 生前、柳家小三治師匠は、よくぼやいた。ことに「噺家は酒が飲めなければ一人前じゃない」といわれるのがいやで、落語会の打ち上げと称して酒席にしつこく誘われるのが何よりの苦痛だった。


 高座の後は、考えることは多く、クールダウンに時間がかかる。一刻も早くひとりになって、内省したい。あるいは、厳しい批評家でもある親しいプロデューサーと語り尽くす。いずれにしても、自分に満点をつけることはめったになくて、反省してばかりだというのが、いつものことだった。


「何事にも迎合することを嫌い、派手を好まず、極めて芸人らしからぬ、孤高の噺家でした」


 落語家柳家小三治さんが10月7日に心不全で亡くなったことを発表した、落語協会会長の柳亭市馬師匠は、故人の人となりをこう語ったが、その通りの人柄だった。


 柳家小三治、本名・郡山剛蔵さんは、1939年、東京に生まれた。書道の分野で大きな功績を残した教育者であった父は、家での躾も厳しく、箸の上げ下げ、下駄の脱ぎ方、風呂の入り方など日常の所作にうるさく、母親は、テストは百点が当たり前といい、つねに完璧であることを強いた。


「それが親としてのかわいがり方だったのかもしれないけど、子どものほうは、完璧じゃない人間なんて用がない、自分はだめな人間なんだと思っちゃう。こんな育てられ方をされたから、反発して、噺家になっちゃったんですよ」


 あるとき、功成り名遂げたいまになっても、まだそのころ抱いた親へのわだかまりを引きずっているんですか、と聞くと、


「そう。わたしはずっといじけている。被害妄想が強いんですよ。七面倒臭え性格なんだ」


 と、あっさり認めた。




 自分は完璧じゃないと思い込んできたから、噺家になっても、つねに完璧を求めて、自分に厳しく、精進した。


 戦争中は、家族の中で彼だけが父親の故郷である宮城県の岩沼に疎開させられた。親にしてみれば大事な長男を戦火から守りたい一心だったのだろうが、ひとりだけ遠くにやられたことで、またもいじけた。


 けれども、その地で、おばさんに温かく迎え入れられて、存分に甘えさせてもらい、心にうるおいを取り戻す。


 こんな親への複雑な思いや子どもの気持ちが、「子別れ」や「藪入り」はもとより、「寝床」「茶の湯」に登場する小僧のささいなせりふにも投影されている。また、このときの体験で、「馬の田楽」「蒟蒻(こんにゃく)問答」など田舎を舞台にした話や、「宗論」の権助、「百川」の百兵衛の情景・人物描写が無理なくできた、と感謝していた。


 父親は、剛蔵少年にも教育者の道を歩んでほしいと願った。しかし、剛蔵少年は中学時代には落語に夢中になってしまい、都立青山高校に天才少年あり、といわれるほどになる。ラジオ東京(現TBSラジオ)の「しろうと寄席」に出演し、15週勝ち抜いたのだ。


 高校生というだけで珍しがられて注目を浴びただけのこと、と本人は極めて冷静だったが、評判になる。


「30分の番組で、噺なんかほとんどしてねえ、うまいも下手もねえ、おかしいじゃねえか、と思ったけど、スターに祭り上げられてしまった」


 おかげで、教師になる道を、両親もあきらめてくれ、五代目小さんに弟子入りがかなった。


◆志ん朝と談志 二人のライバル


 噺家になろうと決める前、小さん師匠と「しろうと寄席」の狭い楽屋でふたりきりになったことがあった。小さん師匠は、何もいわないで、ただじっと正面を見据えていた。


「そのときの小さんという人の目が、澄んでいて、とってもきれいだった。その目に惹かれた。惚れたんですよ。その後、師匠の『千早振る』を聴いて、度肝を抜かれた。面白いのなんのって」


 まるで男と女の恋愛感情のような、一目惚れだったという。




 噺家の修業ほど厳しいものはないといわれる。しかし、家での躾のほうがはるかに厳しかったので、苦にはならなかった。むしろ、家の呪縛を逃れて、この修業の果てには噺家の道が開けていると思うと、希望に輝いた。


 とはいえ、師匠の下駄の手入れや紺足袋の洗濯には神経をつかった。「こんなことが噺家になるのに何の役に立つんだ」とぼやいたこともあった。


「だけど、そういう一つひとつに細かい神経をつかって、足袋や下駄をきれいにしていくことが、噺を組み立てて自分のものにしていくことにつながるんです。噺ってのは、ただ昔から伝わってきたものを、そのまんま覚えて演じればいいってもんじゃない。自分なりに発想や構成を変えながら、自分に合うように作っていくものだからね」


 69年9月、17人抜きの抜擢で真打ち昇進。翌年、やはり大抜擢で真打ちに昇進した九代目入船亭扇橋さんを師匠として俳句をならい、互いの芸を評価し、生涯の親友となった。


 古今亭志ん朝さんとは、世間からはライバル視され、反目し合っているように思われていたが、お互いの芸風を尊重し合う、やはり親友だった。


「なんで二人会をやらないの。みんな待ち望んでいるのに」とファンや興行主からよく聞かれることがあった。そのたびに志ん朝夫人は、「二人とも似ているから」と答えたそうだ。小三治さんは、「落語は面白くやろうとしてやるもんじゃない、と、二人とも考えが一致していた。やっぱり似ていたんだ」といった。


 やはりライバルといわれた立川談志さんについては、天才と認めていた。だが、国会議員になった彼の権力志向とは、なじまないものを感じていたようだ。


 落語で人気の出た小三治師匠は、映画界から誘いを受けたこともあった。


 加山雄三さんの人気が沸騰していたころのことで、加山雄三に次ぐスターがほしい、と探していた映画会社が、小三治師匠に白羽の矢を立てたのだ。もともと演劇に興味があったので、心は動いたが、おれは噺家なのだと、踏みとどまったのだ。



◆1ミリの誤差も妥協しない散髪



 噺家は往々にして、歌も好きで、高座でもよく歌謡曲を歌う。小三治師匠が好きだったのは、フランク永井さん。落語家になりたかったというフランクさんとはウマが合い、彼のヒット曲を歌って聴かせて、「鼻でせせら笑われた」そうだ。


 高座を離れて、はにかみながら披露するこんなエピソードに、温かな人間性がにじむ。


 理容店を経営する堀内京子さんとは、40年以上のつきあいになる。もとは堀内さんの勤める店の常連だった。当時は話をしたこともなかったが、堀内さんが結婚した数年後、堀内さんの理容店に突然やってきて、それ以降月に2回は必ず堀内さんの前に座った。


「それは、やかましい人でした。いろんなお客様がいますが、あんな完璧主義者はほかにはいらっしゃいません。ガイドラインというのですが、全体の線がほんの少しでもイメージと違うと、やり直し。1本1ミリの髪もゆるがせにしないんです。私はいつやめさせてもらおうかとそればかり考えてました(笑)」


「でも、いつからか考えが変わったんです。この人をやっていれば、私は一人前になれるんだって。私は師匠によってプロの職人に育てられた」


 最後に訪れたのは、9月の半ばだった。杖を持っていたので、「どうしたのですか」と尋ねると、「足がちょっとね。でも大丈夫」といって、その場で軽く足踏みをしてみせた。まさか、それが最後になるとは、堀内さんは今でも死が信じられない。


「死神」「らくだ」「野ざらし」……落語には、死の話も少なくない。


 若いころは、死を怖いものだと思い込んでいたから、ことさら怖く、「どうだ怖いだろう」とおどろおどろしく語った。やがて、「死ぬも生きるも同じ延長線にあるもの。そう思えば、死ぬことも怖くなくなったね」という心境に至ったと振り返る。


 リウマチや糖尿病などの持病をかかえ、折り合いをつけながら高座を務めていたから、自身の死もつねに客観的に見つめていたに違いない。


 かなわぬ願いとはわかっていながら、「最期」をまくらで語ってほしかった、と思わないではいられない。(由井りょう子)




※週刊朝日  2021年10月29日号


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