妖怪伝説残る「猫又坂」と歴史を重ねた「白鷺坂」 急勾配をトロトロ上る56年前の都電

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2021年11月27日 07:00  AERA dot.

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写真妖怪伝説の猫又坂を訪れたのは晩秋の底冷えがする祝日だった。都電の背後に登坂を始めたボンネットスタイルの日産FS580型ダンプトラックが写っている。画面左奥の氷川下町交差点角には木下薬局の店舗も見える。 氷川下町〜丸山町(撮影/諸河久:1965年11月23日)
妖怪伝説の猫又坂を訪れたのは晩秋の底冷えがする祝日だった。都電の背後に登坂を始めたボンネットスタイルの日産FS580型ダンプトラックが写っている。画面左奥の氷川下町交差点角には木下薬局の店舗も見える。 氷川下町〜丸山町(撮影/諸河久:1965年11月23日)
 1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は、妖怪伝説のある「猫又坂」と都電最急勾配の「白鷺坂」を上り下りした都電を紹介しよう。


【56年が経過した現在はどれだけ変わった? いまの同じ場所の写真や「白鷺坂」の写真はこちら】
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 現在の文京区を北東から南西に横断する不忍通りに市電の護国寺線(駕籠町〜護国寺)が開業したのは1921年2月だった。系統番号が設定された1928年頃には、上野公園〜神明町〜矢来下を結ぶ28系統が護国寺線を走っていた。戦後になると、同じ神明町車庫が所轄する20系統(江戸川橋〜須田町)に変わっている。


 護国寺線の丸山町(後年千石二丁目に改称)から氷川下町(後年千石三丁目に改称)を経て大塚仲町(後年大塚三丁目に改称)に至る区間には、本郷(白山)台地から千川通りに下る猫又坂と千川通りから小石川台地に上る白鷺坂の急勾配があり、急坂を力走する都電の姿が見られた。


妖怪伝説が残る「猫又坂」


 冒頭の写真は、氷川下町停留所を発車して、最急勾配68パーミルの猫又坂に挑む20系統上野広小路行きの都電。画面左後方には氷川下町停留所に停車する20系統大塚仲町行きも写っている。画面右側一帯が丸山町で、手前に見える石垣が終戦時に内閣総理大臣を務めた鈴木貫太郎氏の邸宅だった。


 路面電車が走り出す前の不忍通りは急峻な細道だった。坂を下ったところが千川谷と呼ばれる窪地で、千川または小石川といわれる川が流れていた。江戸期の昔、千川はとても細い流れなので、木の根っ子の股で千川に架橋したことから根子股橋と呼ばれた。この辺りには狸がいて、夜な夜な赤手ぬぐいをかぶって踊るという話があった。ある日暮れ時、大塚辺の少年僧がこの近くを通ると、草原から白い獣が追ってくるので「すわ、狸か」と慌てて逃げて千川にはまった逸話があり、それからこの橋は猫狸(ねこまた)橋とも猫又橋ともいわれるようになった。ちなみに、猫狸とは妖怪の一種に数えられている。


 このような伝説のある猫又橋と繋がっていた坂なので猫又坂と命名されたようだ。現在の不忍通りが開通したのは市電の開業と軌を一にしており、猫又橋は開通直前の1918年にコンクリート橋に改築されている。後年、千川は度重なる水害に見舞われたため、暗渠化工事が1934年に施工され、猫又橋は廃橋となった。




 次のカットが猫又坂の近景で、旧景に写る氷川下町交差点(現千石三丁目交差点)角の木下薬局が現在も盛業中なのが嬉しかった。画面左端の歩道の奥に、猫又坂の由来説明板と廃橋になった猫又橋の親柱袖石が展示してある。


 1967年に実施された住居表示変更の結果、この一帯の町名は総じて「千石」になった。都電作家で、生粋の本郷っ子だった林順信氏(1928〜2005)は著書『焼跡・都電・40年』の中で、「千石のいわれを聞いて驚いてはいけない。<この西方の氷川下を流れていた細流をば、こいしかわといい、戦前までの小石川区の区名にまでなっていた川は、上流を千川をばとなえるにより、千と石とをくっつけて千石とはなしたり>という解説を聞けば、いかに新住居表示がいい加減なまやかしものだかがわかる」と記述されている。往時の駕籠町、西丸町、丸山町などの町名は小学校や町会の名称として僅かに残るのみだ。


都電最急勾配の「白鷺坂」


 2020年3月28日に配信したコラムで、都電最急勾配は白山線の「白山坂」で69パーミルと記述した。その後、東京都交通局工務部軌道課の「主要坂勾配表」を閲覧したところ、護国寺線氷川下町〜大塚仲町の「大塚仲町上坂」(白鷺坂が通称のため、この坂名が用いられたと推察する)の69.5パーミルが都電最急勾配と判明した。氷川下町停留所側から69.5パーミルの最急区間が58mあり、その先の33.4、45、66パーミルの坂を登ると、大塚仲町停留所が近接してくる。


 白鷺坂を大塚仲町方面から下るシーンが次のカットだ。氷川下町の遠景に写っていた20系統大塚仲町行きの都電が大塚仲町で折返し、上野広小路行きとして戻ってきた。当日は勤労感謝の日だったため、上野公園方面の行楽客輸送に増便されていたように思える。大塚仲町から左にカーブを描きながら緩勾配を下り、69.5パーミルの最急勾配区間に入ったところを撮影していた。自動車交通量が少ない祭日の撮影は、自動車に被られるリスクが少なかった反面、都電の背景にあたる大塚仲町(現大塚三丁目)の商店が休業しており、生活感が乏しい描写となった。


 この坂の一帯には、宇和島藩主伊達家の下屋敷があって、庭園の大池には白鷺が群がっていたと伝えられている。明治末期の道路整備で、この旧伊達屋敷跡を現在の不忍通りの道路用地に転用して、大塚仲町方面に向かう長い坂道が竣工した。当初は坂名のないままだったが、昔からの言い伝えの白鷺にちなんで、「白鷺坂」が愛称として用いられるようになった。


 最後のカットが氷川下町からの最急勾配を上り終え、33.4パーミルの緩勾配を大塚仲町に向かう20系統江戸川橋行きの都電。不忍通りの軌跡が見えなくなるような最急勾配の様子が都電の背後に展開している。画面右側の大塚窪町(現大塚三丁目)側は、道路拡幅工事のセットバックで旧来の家並が消失したが、画面左側の大塚仲町(現大塚四丁目)側には理髪店、写真店などの商店が軒を連ね、生活感溢れる昭和の風情が残されていた。


 昔日の伝説に満ちていた不忍通りの「白鷺坂」や「猫又坂」から都電が消えたのは、この撮影から5年半後の1971年3月だった。


■撮影:1965年11月23日


◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。著書に「都電の消えた街」(大正出版)、「モノクロームの軽便鉄道」(イカロス出版)など。2021年4月に「モノクロームの国鉄情景」をイカロス出版から上梓した。


※AERAオンライン限定記事


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