ヤクルト日本一 高津監督は“新時代の名将”大学時代から際立つ「人間力」

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2021年11月27日 23:10  AERA dot.

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写真ヤクルトの高津臣吾監督
ヤクルトの高津臣吾監督
 ヤクルトを日本一に導いた高津臣吾監督への評価が高まっている。指揮官としての手腕はもちろん人間性を称賛する声も止まない。そんな高津監督と大学時代を寮の同部屋で過ごした永井浩二氏(静岡・オイスカ高野球部監督)が日本一の指揮官となった男との思い出を語ってくれた。


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「気配りがすごかった。当時を知っている人なら高津さんが称賛されているのを不思議に思わない」


 広島出身の2人が直接の面識を持ったのは永井氏が亜細亜大に入学した時だった。高津監督は広島工、永井氏は広島商と全国的にも有名な強豪校卒で同県人ということもあり野球部寮で同室となった。高津監督が4年生、永井氏が1年生の『部屋子』と言う立場で身の回りの世話などを任された。


「最初に挨拶した時に僕のことを知ってくれていて驚いた。当時の運動部は今では考えられないような縦社会で1年生にとって4年生は神様だった。他部屋の1年生はキツかったこともあったらしいが僕は平和で過ごしやすかった。2、3年の人も優しかったのは高津さんを見ていたからだと思う」


 1年生にとって野球以前に1日を平和に過ごすことが重要なテーマという時代。寮では1部屋に4年から1年まで4〜5人の相部屋だった。トップである4年の考え方や振る舞いが掟にもなる。部屋によっては身の回りの雑用だけでなくシゴキに近いことも存在したが、高津監督の方針や気配りもあり、永井氏の部屋は他選手が羨むほどの環境だった。


「2、3年の先輩も広島出身だったので雰囲気は良かった。寮の近くに広島風お好み焼き屋があり高津さんが我々を引き連れてよく食べに行った。他の先輩もいるので1年生はあまり話せない中、高津さんがいつも気を遣ってくれた。ジョークを言って周りを笑わせていたのは今と変わらない。面倒見が良くて優しかった」


 寮生活だけでなく練習での直接的な絡みも増えていく。捕手だった永井氏はブルペンで高津監督の投球を受ける機会に恵まれる。NPB通算15年間で286セーブを挙げた球史に残るクローザーの投球技術を体感、要所では的確なアドバイスをもらえた。




「高津さんは小池秀郎さんに次ぐ2番手投手だったが負けないくらいの結果を残していた。球速は135キロくらいしか出なかったがコントロールが正確。正直、一番最初に受けた時は球が遅いと思った。でもそのうちにコントロールの正確さに鳥肌が立った。大袈裟ではなく狙った場所に来る。これなら抑えられるのは当然と納得した」


「最初は高低、内外角とミットをアバウトに構えていた。そのうち『1球ごとにしっかりとミットを固定してくれ』と言われた。その後に『1〜2球同じコースに決まったらボール半分、2〜3cmくらい動かしてくれ』とも言われた。当時からコントロールという自分の強みを熟知し磨き続けていた。僕のキャッチング技術も見透かされていたんでしょうね。選手の細かい部分を見る目がすごいと感じた」


 当時の亜細亜大のレベルは高かった。エース左腕の小池はリーグ通算63試合に登板して28勝14敗、防御率1.45をマークし、4年秋のドラフトでは8球団から指名された。2番手だった高津監督もリーグ通算40試合に登板して11勝15敗、防御率2.34、140奪三振という堂々たる数字を残しドラフト3位でヤクルトに入団。またのちに阪神で活躍する川尻哲郎も投手陣の同期に名を連ねていた。


 高津監督のプロ入り後の活躍は知りつつ連絡は途絶えていた。永井氏は社会人・NKK福山でプレーを続けたがプロ入りは叶わず渡米してニューヨーク・メッツでブルペン捕手の職に就く。この時メッツ在籍していた吉井理人(現ロッテ投手コーチ)を介して再び高津監督と話す機会に恵まれた。帰国後、浜松大(現・常葉大)野球部監督を務めていた12年に高津監督が現役を引退。その際には野球部在籍当時の4年生から1年が集い慰労会を開いた。


「吉井さんがニューヨークから連絡してくれた。2人はヤクルトのチームメイトで仲が良かった。『おお、元気か? ニューヨークなんて行ってたのか?』と昔の先輩のままだった。慰労会は新宿の普通の居酒屋でしたが喜んで来てくれた。時間が経っているのに30人近く集まったのも高津さんだったから。大学当時のくだらない話で盛り上がった」



 高津監督は現役引退後、ヤクルトのコーチや二軍監督を経て20年から現職に就いた。1年目はチームを再建できず前年に続くリーグ最下位。今年も開幕前の下馬評は高くなかった。FA権を持っていた山田哲人、小川泰弘、石山泰稚という投打の柱の引き留めには成功したものの厳しい戦いが予想された。ところが開幕から首位に離されないようにAクラスを死守。夏場以降は勝負強さを発揮して就任2年目でリーグ優勝と日本一を果たした。


「人間性に加え野球経験が凝縮されているような采配。NPB、メジャー、マイナー、韓国、台湾、BCリーグなど色々な野球を体感した。最下位の悔しさも知っている。現役時代の実績だけではなく監督としての技量を常に磨き器を大きくしようとしているように見える。野村克也さんの影響も感じます。攻守の柱を中心としたオーソドックスな野球がベースだが時に奇襲も仕掛ける。『絶対大丈夫』という言葉の力を大事にしているのもそうです」


「選手個々の見極めの上手さにも驚かされる。青木宣親を使い続けるのは勝負どころへ向けたベテランの集中力を信じていたからだろう。超積極的な塩見泰隆には思い通りにやらせている。日本シリーズ第2戦、高橋奎二に最後まで任せたのも『投げたい』という投手気質がわかっているから。普段からコミニュケーションを欠かさず細かい部分まで観察して周到に準備しているはず」


 ヤクルト時代に4度のリーグ優勝(すべて日本一)を経験するなど、華々しい経歴に目が行きがちだが米国マイナーやアジアでのプレー経験もある。独立リーグ・新潟アルビレックスBCでは12年に兼任監督としてリーグ優勝も果たしている(四国アイランドリーグ覇者とのグランドチャンピオンシップにも勝利)。その後も14年から古巣ヤクルトで指導者の勉強を重ねてきた。一軍監督としては2年目だが、経験を積み重ねた引き出しの多さは他球団監督に引けを取らない。歴史に残る名監督への歩みを我々は見ているのかもしれない。永井氏は同じ監督業の立場から尊敬しかないと語る。



「クリスタルキング『大都会』のモノマネは大学時代からやっていて爆笑した記憶がある。なかなかチャンスはないと思いますが、どこかで披露してくれたら良いですね」


 高津監督は学生時代から明るく楽しい男だったことを付け加えてくれた。プロ入り後に珍プレー大賞を獲得したネタは学生時代から鉄板だったようだ。新しい世代の監督が出現し始めた野球界、未来は明るく楽しみが多い。(文・山岡則夫)


●プロフィール
山岡則夫/1972年島根県出身。千葉大学卒業後、アパレル会社勤務などを経て01年にInnings,Co.を設立、雑誌『Ballpark Time!』を発刊。現在はBallparkレーベルとして様々な書籍、雑誌を企画、編集・製作するほか、多くの雑誌、書籍、ホームページ等に寄稿している。Ballpark Time!公式ページ、facebook(Ballpark Time)に取材日記を不定期更新中。現在の肩書きはスポーツスペクテイター。


このニュースに関するつぶやき

  • 高津監督が広島市内の小学生だった時に俺も広島市内に住んでいたので、広島の繁華街ですれ違っていたかもしれない。(笑)
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  • 今年の日本シリーズは「野球ファンの為日本シリーズ」ですよ\(^o^)/
    • イイネ!21
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