村上茉愛 「2時間の説教」がもたらした転機と「日本女子」を強くしたいという思い

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2021年11月29日 11:30  AERA dot.

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写真村上茉愛(むらかみ・まい)/1996年生まれ。リオ五輪に出場、東京五輪では銅メダルを獲得。今年の世界選手権では種目別ゆかで金メダルに輝いた。現役引退後は指導者の道に進む[撮影/蜷川実花、hair HIROKI(W)、make up 早坂香須子、styling 大和田ゆき、costume KLOSET(H3O ファッションビュロー)]
村上茉愛(むらかみ・まい)/1996年生まれ。リオ五輪に出場、東京五輪では銅メダルを獲得。今年の世界選手権では種目別ゆかで金メダルに輝いた。現役引退後は指導者の道に進む[撮影/蜷川実花、hair HIROKI(W)、make up 早坂香須子、styling 大和田ゆき、costume KLOSET(H3O ファッションビュロー)]
 東京五輪で銅メダル、世界選手権では2度の金メダルに輝いた。「日本女子として初」がつく功績をいくつも残し、名を歴史に刻んだ。だが、体操人生は決して順風満帆ではなかった。AERA 2021年11月29日号から。


【写真】蜷川実花が撮った!AERAの表紙を飾った村上茉愛はこちら
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――最初に脚光を浴びたのは2010年。14歳のとき、得意のゆかで全日本チャンピオンになった。日本の女子は「脚力が弱い」といわれていた中、132センチ、30キロの小さな体で高々と跳び上がり、高難度の宙返りを連発。まさに「ゴムまり」が弾むような演技で見る者を驚かせた。池谷幸雄(ソウル、バルセロナ両五輪メダリスト)の体操クラブの1期生という話題性もあった。


 あれから11年ですよね。あの頃は人より筋力があって、体も丈夫でした。このままポン、ポン、ポンと上にいくのかなと思っていました。


――13年には、初出場した世界選手権のゆかでいきなり4位に入った。だが、ここから苦悩が始まる。


 日本に帰ってきてから燃え尽きた感じになってしまって、体操に真剣に取り組まなくなっちゃいました。仮病を使って練習を休んだこともありました。もともと気分屋でコツコツ練習を積めない弱さがあるのも自分でわかってはいたんです。でも、指摘してくれる人がいないからと、甘えていました。


――翌年は国内最高峰のNHK杯で4位に沈んだ。高校3年生。女性として体に変化が現れる時期と重なり、減量にも苦しんだ。当時、母がこっそり見たノートには「こんなんじゃ、死んだ方がましだ」と書かれていたという。


 今じゃ考えられないですけど、重量が軽いものを食べれば体重が増えなくて、体が動くと思っていたんです。だから、ごはんを残して、隠れてお菓子を食べていました。だらしないアスリート、っていうか、アスリートですらなかったですね。「村上茉愛は終わった」っていう声も聞こえてきたし、私自身もそう思っていました。


「考えを改めなさい」


――それでも、大学は練習が厳しいことで知られる強豪の日体大を選んだ。


 社会に出て普通に仕事につけるように、とりあえず大学に行って卒業しておこうという思いがあった一方で、弱い自分を変えたいという気持ちもありました。日体大に入れば、立て直してくれるかなと(笑)。「もう、このままでいいや」と投げやりなことを言いながらも、心の底で諦めていなかったのは、体操が好きだったからだと思います。




――この選択は結果的に吉と出た。そして、入学直後、どん底から抜け出すきっかけとなる出来事が起こる。15年4月の全日本個人総合選手権。ゆかで予定していた最後の宙返りを「放棄」したのだ。


 朝起きたら腰が痛くて、「今日の試合はだめだな」とすぐに諦めてしまった。今考えたら、すごく恥ずかしいことをしてしまったけど、あの時は深く考えていなかったから、平然とああいうことができたんだと思います。


――24選手中21位という散々な結果に終わったあと、指導を受ける瀬尾京子監督に呼び出され、2時間の説教を受けた。


「考えを改めなさい」と言われました。その時は気持ち的にも荒れていて、「改めるって言われてもなあ」と思ったんです。そのあとも、すぐに行動を変えられたわけじゃなく、髪の色を明るくして注意されたり、態度の悪さが原因で母が呼び出されたり。でも、母が隣で泣いているのを見て「これじゃダメだ」と。そうやって時間をかけて「改める」という言葉の意味を理解していきました。


 練習も徐々に変わっていきました。以前は失敗したら、そこで終わっていた技の練習も「成功するまで」とか「あと何本はやる」とか毎日コツコツやれるようになりました。


――今月8日の引退会見でも、最も思い出深い試合として、この「惨敗」を挙げた。そして、言葉を詰まらせながら言った。


 あれで強い意志とアスリートとしての自覚を持てるようになりました。あの言葉がなかったら、今はないのかなと思っています。


メダルをとり続ける


――17年の世界選手権のゆかではついに頂点に立った。そして、2大会連続出場となった東京五輪ではゆかで銅メダル。日本女子が表彰台に上がるのは、団体で銅メダルを獲得した1964年の東京五輪以来という快挙だった。


 自分の存在を広く知ってもらえるようになったと感じたのは16年のリオデジャネイロ五輪なので、「遅咲き」と言う人もいると思うんです。でも、日本の女子体操界でこれだけ長く一線でやる選手も、五輪に2度、出る選手もなかなかいない。そういう選手になれて誇らしいです。



――自身の功績には胸を張る一方、日本の女子体操界を見渡すと気がかりなこともある。


 私がメダルをとるまで、日本の女子は前回の東京五輪以降、一度もメダルがなかったことを考えると、もっと強くなっていかなきゃいけないな、と。世界で常に決勝(予選の上位8人)に残れる選手、メダルをとり続ける選手がいる体操界になってほしいと思うようになりました。


――現役生活の終わりが近づくにつれ、その思いはどんどん強くなっていった。だから、セカンドキャリアは指導者の道を選んだ。まずは母校の日体大でコーチとして後輩の指導にあたる。


 いつか日本代表選手にも関わりたいです。日本の女子を強くするためなら何でもします。審判や指導者の資格をとるための勉強をして、振り付けもできるようになりたい。もともと踊ることは好きなんです。現役の時から、家でひとりで平気で3〜4時間は踊っていました。BTSのファンで、振り付けも完コピできます! 今月末からダンスレッスンも始めるんです。早く体を動かしたい。競技としての体操はもういいですけど(笑)。


(朝日新聞記者・金島淑華)

※AERA 2021年11月29日号


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