炎上した空母から脱出も……そこにあった“命の軽重” 「兵隊の命は鳥の羽根ほどの重さ」100歳の記憶

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2021年12月06日 07:00  ウィズニュース

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写真炎上する重巡洋艦三隈(みくま)。ミッドウエー海戦で米軍機の攻撃を受けて炎上、1942年6月7日に沈没した=朝日新聞社
炎上する重巡洋艦三隈(みくま)。ミッドウエー海戦で米軍機の攻撃を受けて炎上、1942年6月7日に沈没した=朝日新聞社

連載『ミッドウェー海戦の記憶』
太平洋戦争の開戦となった真珠湾攻撃から間もなく80年。その直後に出征し、日本が敗戦へと向かう転換点となったミッドウェー海戦で主力空母「赤城」に乗艦した元海軍整備兵が岩手県一関市で暮らしている。須藤文彦さん、100歳。彼の証言から、戦争の実態と、現代の日本につながる共通点を探る。連載第4回は「事実と虚実」。(朝日新聞一関支局・三浦英之)

【写真】ミッドウェー海戦で大破、沈没した日本海軍の空母 100歳の元海軍整備兵の今の姿も

兵隊の命は鳥の羽根ほどの重さ
「戦場では、人の命は決して平等ではありませんでした」

ミッドウェー海戦で米軍機の攻撃を受けて、炎上した旧日本海軍の空母「赤城」から退避したときのことを、須藤さんは今も覚えている。

「位の高い人の命は尊く、兵隊の命は鳥の羽根ほどの重さしかない。今もどこか似ていますかね」

「もう次の艇は来ないぞ」
爆発と炎上が相次ぐ赤城の艦内で、須藤さんが命からがらたどり着いたのは、空母前方の錨甲板だった。

集まっていた乗組員に上官から退艦命令が下された。負傷した須藤さんらは、錨を下ろすための穴から網を垂らして、駆逐艦から送られてきた小型艇で脱出することになった。

そこには、命の軽重があった。階級順に艇に乗り込む順番が決められ、若くて階級の低い須藤さんは後回しにされた。

赤城は傾き、何度も爆発の音がする。辛抱強く順番を待っていると、「もう次の艇は来ないぞ」と言われ、慌てて錨の穴から小型艇へと飛び降りた。他人の頭の上に着地し、須藤さんの体の上にも後続の乗組員たちが次々と飛び乗ってきた。

定員に達すると、小型艇は、まだ多くの乗組員を残したまま赤城を離れた。海面には、母艦がやられたために不時着水した戦闘機の操縦士や、艦船の炎上から逃れて海へ飛び降りた乗組員らが多数浮かんでいた。しかし、小型艇の操縦士は「構うな。引き上げたら、この艇は沈むぞ」と叫んだ。

須藤さんたちは、駆逐艦に収容されると、寒さに震えながら、艦の煙突にしがみつくようにして眠った。

翌未明、目を覚ますと、駆逐艦の横で赤城が沈没せずに燃え続けていた。舷側に並ばされ、魚雷を発射し、赤城を沈めた。

「敬礼!」。あれほどの巨艦が目の前で沈んでいくのが、信じられなかった。

帰国後は口封じに
その後、須藤さんは駆逐艦から別の艦船に引き渡され、他の生存兵らと共に鹿児島県の海軍基地に収容された。誰もいない新しい兵舎に詰め込まれ、「外出を禁ずる」ときつく命じられた。

大本営発表は当時、ミッドウェー海戦における日本側の損害について「航空母艦の1隻の喪失と1隻大破、巡洋艦1隻大破」としていたが、実際には日本海軍は主力空母4隻を失い、約300機の航空機を失う大敗北を喫していた。

須藤さんは戸惑った。

「俺たちがこの目で見てきたものとは全然違う。国民は本当にそう信じているのか」

口封じのために鹿児島で軟禁状態に置かれた生存兵たちは、次第に気分がすさんでいった。

須藤さんは「軍の機密に関することは一切口外するな」と厳命され、1942年8月、今度は空母「翔鶴」の整備兵として、ソロモン海域の戦場へと送られた。(※第5回「特攻兵と現代日本」は7日配信です)

     ◇

ミッドウェー海戦で主力空母「赤城」に乗艦した100歳の元海軍整備兵、須藤文彦さん。彼の証言から、戦争の実態と、現代の日本につながる共通点を探る「ミッドウェー海戦の記憶」を全5回配信します。(連載は須藤さんのインタビューや著作「鴻毛の一毛」、防衛研究所の「戦史叢書」などを参考に構成します)

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