'96 年、東京・柴又で上智大学に通う小林順子さんが何者かに殺害され、現場となった家は放火された。事件から25年がたつがいまだに犯人は逮捕されず未解決のままだ。平穏に過ごしていた家族はその日から一転、“被害者遺族”と呼ばれ、暮らしを変えざるをえなくなる。父親の小林賢二さんはつらい現実から目をそらさず闘い続け、ついに時効撤廃を勝ち取った。怒濤の日々をどう乗り越えてきたのか――。
いつもの景色がトラウマに
東京下町の住宅街を車で走っていた。車窓から見えるのは何の変哲もない景色のはずだが、後部座席に座るその老紳士は、動揺を隠しきれなかった。
「あの日、駅前からタクシーに乗って現場に向かったんです。車に乗ってここを走ると、その時と目線の高さが同じになるから、否応なしに思い出すんです」
それは、当時から今も引きずっている心象風景だった。
「パトカーも救急車も消防車もずらっと並んで、野次馬の人垣もできていて……」
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脳裏に深く刻み込まれ、決して忘れることはないあの瞬間が、現場へ近づくにつれて一気にフラッシュバックする──。
老紳士は、殺人事件被害者遺族の会「宙の会」(事務所・東京都千代田区)の会長、小林賢二さん(75)である。賢二さんの次女、順子さん(当時21)は、上智大学4年生だった1996年9月9日夕、東京都葛飾区にある自宅で何者かに殺害され、火を放たれた。これまでのべ11万人以上が投入された警視庁の捜査も実を結ばず、犯人はいまだ見つかっていない。
その現場は、昭和を代表する映画『男はつらいよ』の舞台として有名な柴又駅から徒歩10分ほどの閑静な住宅街にある。現在は金町消防団第8分団の格納庫が立っており、そこに当時の面影はない。敷地の一角には胸の高さほどの祠があり、隣の花壇に咲くコスモスが風に吹かれて揺れていた。それらを指さし、賢二さんが、思い出すように語った。
「あの子が好きだった花です」
祠の中には、遺族の思いが託された「順子地蔵」が手を合わせて現場を見守っており、傍らにはポテトチップスなどのお供え物が、さりげなく置かれていた。
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「誰だかわからないんですけど、こうしてお供えしてくれるんです」
かつてこの敷地に立っていた賢二さんの自宅は、放火で一部焼けてしまった。
「消防団が2階に駆け上がったところ、遺体があったからびっくりしたと。間口わずか2間の、うなぎの寝床のような場所ですが、事件前日まで、親子4人がささやかな幸せを感じながらの生活がありました。それが一瞬にして奪われてしまったのです」
以来、賢二さんはこう自問し続けている。
「あれからいまだに解決していません。誰が? なぜ? なぜわが家が? なぜ娘が?」
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私が事件の取材を始めたのは、今から2年ほど前の出来事がきっかけだった。
「警視庁捜査一課です」
日曜日の朝、インターホンのモニター画面に、そう勢いよく話しかける男性の姿が映っていた。続けて警察手帳を差し出された。
「上智大生殺害事件の捜査でうかがいました」
都内のマンションにいた私は、朝っぱらから何事かと驚き、もう1度警察手帳を見せるよう伝えた。だが、相手は確かに刑事のようだ。
ドアを開けると、眼鏡をかけた私服姿の中年男性が立っていた。あらためて事情説明を受け、DNAサンプルの採取に協力を求められた。断ると私の友人、知人にも事情聴取が及ぶかもしれないと言われ、協力することにした。
なぜ私のところにまで、捜査の手が及んだのか。
それは私が、順子さんと同じ上智大学外国語学部英語学科の卒業生だからだろう。私は2年後輩で面識はなかったが、東南アジアの地域研究をするゼミは同じだった。かつ、順子さんは将来、ジャーナリストを目指し、私が現在、ノンフィクションライターとして活動していることも関係していたかもしれない。いずれにしても、発生から間もなく四半世紀が過ぎようというときに、「まだ地道な捜査を続けていたのか」と驚いたのが、正直な感想だった。刑事から名刺をもらった私はすかさず、
「今度はこちらから連絡をするかもしれません」
と伝え、間もなくそのとおりの展開になった。
自宅に到着するなりいきなりパトカーへ
あの日、賢二さんのもとに一報が届いたのは、東北新幹線・新白河駅(福島県)の上りホームだった。勤めていた会社の出張で出席した会議の帰途で、一緒にいた部下の携帯電話を通じて会社から連絡が入った。
「ご自宅で火事が起きたようです」
ひょっとして妻が起こした失火だろうか。そんな不安に苛まれ、飛び乗った新幹線のデッキから電話をかけまくった。
ようやく妻の友人宅につながった電話で、順子さんが病院へ搬送されたことを知る。その病院に電話をかけ、名前を名乗ると、電話口の声が女性から男性に変わった。
不吉な予感がした。
「実はお嬢さん、病院に到着したときにはすでに亡くなられていました」
東京はその日、雨が降っていた。柴又の自宅へたどり着いたころはすでに暗くなっており、周辺にはパトカーや消防車、救急車が止まっていた。二重三重の人垣をかき分けて「小林です」と名乗り出ると、屈強な男性にパトカーの中へ引きずり込まれ、車内でこう告げられた。
「お父さんよく聞いてください。順子さんはただの事故死ではありません。何者かに殺されました」
ここで初めて「事件」だと知った。そのまま亀有警察署へ連れていかれ、すぐに事情聴取が始まった。
順子さんの遺体が見つかったのは、2階にある賢二さんと妻の和室だった。口を粘着テープでふさがれ、首には複数の刺し傷。小型刃物が使われたとみられるが、現場で犯行に使われた凶器は見つかっていない。
両手は粘着テープで、両足はストッキングでそれぞれ縛られ、遺体には布団がかけられていた。着衣に乱れはなく、死因は失血死とみられる。
順子さんはすすを吸っていなかったことから、犯人は殺害後、証拠隠滅のために火を放った可能性がある。
2日後に米国留学を控えていた順子さんの自室には、旅行カバンやリュックサックが用意されていたが、物色された形跡はなく、トラベラーズチェックや現金など14万円相当は手つかずのまま。
順子さんは、賢二さんと母、幸子さん、姉の4人暮らし。その日は姉も仕事で外出しており、幸子さんは午後3時50分ごろ、パート先の美容院へ出かけ、順子さんは1人になったところを襲われた。
火災の119番通報があったのは午後4時39分で、犯人は49分以内という短時間で犯行に及んでいたのである。
米シアトル大学への留学を心待ちにしていた順子さんの身に、一体何があったのか。
語学に堪能、上智大生活を謳歌
英英辞典、メディア関係の本、ブーツ、ヘアドライヤー、ブランドのバッグ、使い捨てカイロ、化粧水……。
段ボールからひとつひとつ遺品を取り出し、賢二さんがテーブルの上に並べていく。
「事件から数週間後、留学先へ送っていた荷物が警察へ戻ってきたんです。それを遺族立ち会いのもと、ひとつずつ確認させられました。留学への期待と、ちょっぴりの不安が入り交じった気持ちで順子は荷造りしたんだろうなと思ったら、遺品を直視できなかったですね」
そうしんみり語る賢二さんは、終戦後間もない昭和21年、事件現場と同じ葛飾区柴又で生まれ育った。5人きょうだいの末っ子で、左官の父親が53歳のときに生まれた子どもだった。その父親から地元の中学を卒業するころ、こう告げられた。
「お前を大学には行かせてあげられない。だけど、これからの世の中、高校は出ないと勤められないから、公立なら行かしてやるよ」
絶対に合格しなければとランクを落として工業高校の機械科に入学した。卒業後は機械や金属の精度を検査する財団法人に検査官として就職。4年ほど勤めた後、コンピューター関係の大手企業に転職し、新橋の職場に通ってデータ処理業務に携わった。
そのころ、先輩が連れていってくれた新宿のダンススクールで、同じ年の幸子さんと出会い、間もなく交際が始まった。ところが賢二さんが北海道へ転勤となり、電話や手紙での遠距離恋愛に。幸子さんも北海道へやってきて、アパートでの同棲生活が始まったが、幸子さんの妊娠が判明して入籍した。
2人は東京へ戻り、昭和46年夏に長女が生まれ、その3年後に体重約3600グラムの順子さんが生まれた。
順子さんは小中学生のころ、成績が目立ってよいわけではない、ごく普通の女の子だったと、賢二さんは振り返る。
「家ではお母さんに甘えん坊で、髪の毛結んで! あれやって! これやって! とねだっていた姿が懐かしいです」
そんな順子さんは、江戸川女子高校の英語科に入学したころから、語学の才能を開花させた。2年生のときに英検2級を取得し、大学受験では受けた大学すべてに合格。第一志望の上智大学に入学する。娘の大学進学については、賢二さんの中で特別な思いがあったようだ。
「僕は大学を出ていないから、キャンパスライフというものに憧れがあったんです。だから自分の子どもにだけは、向学心さえあればどんどん上の学校に行かせてあげたいと思っていました。上智の合格通知をもらったときは、順子より喜んでいましたね」
順子さんが英語学科で所属したのは最もレベルの高いAクラス。周りは帰国子女ばかりで、学生同士が英語で会話する環境だったため、入学当初は「ついていけない」とこぼしていたという。サークル活動は、小・中学生に英語を教えるボランティアサークル「サマー・ティーチング・プログラム(STP)」に参加し、夏休みには新潟で活動を楽しんだ。
3年時に専攻した東南アジアのゼミでは、1週間かけてタイ、マレーシアなどへ調査に出かけた。充実したキャンパスライフを送る順子さんに対し、賢二さんはいつも寛容だった。
「門限を設けなかったんです。大学だったらコンパもあるだろうし、中座するような思いはさせたくなかった。その代わりに条件をつけました。節目節目で電話連絡だけはしなさいと」
たまに、終電に間に合わないような時間帯に電話がかかってくるときがあった。夜道を歩かせるわけにはいかないと、就寝間際の賢二さんはパジャマから着替え、自転車を漕いで高砂駅まで迎えに行った。
「僕は『なんでこんな時間まで!』とは決して叱りませんでした。自分が経験していない大学生活を謳歌しているんだなという思いで見守っていたよね。それで順子と2人、駅からの道を歩いたんです」
賢二さんは懐かしそうに目を細めながら在りし日を語った。
「会話は特にありませんでしたが、よく言えば気持ちが通じるっていうか。もしタイムスリップできるなら、あのころにもう一度戻ってみたいなっていう気持ちはありますね」
将来はジャーナリストを目指し、地方放送局の東京支局でアルバイトをしていた順子さん。その夢は、あの日を境に無残にも砕け散った。
帰る家は失われ、長女の挙式はキャンセル
賢二さんが事件当夜の記憶を呼び起こす。
「今日はお引き取りいただいて大丈夫です」
亀有警察署での事情聴取を終えて解放された賢二さんだったが、帰宅する家がない現実にふとわれに返った。自宅が燃えてしまったためだ。心配して病院まで足を運んでくれた、幸子さん所属のママさんバレーの仲間が「うちに泊まったら?」と声をかけてくれ、しばらく仲間のマンションに滞在させてもらった。
「まさに『地獄に仏』のようなお誘いの言葉でした。とにかく一晩だけでも、雨露がしのげればいい。それより先のことは考えられませんでした。翌日からは現場検証が始まりました」
焼け焦げた自宅の押し入れからすべてを引っ張り出され、ひとつひとつ「これは自宅にあったものか」などと確認される。だが、賢二さんは家のことを幸子さんに任せていたため、答えられなかった。
「家内に聞いてください」と伝えるも、幸子さんはショックのあまり点滴を打って寝込んでいた。その面倒は、ママさんバレーの仲間たちが入れ替わり立ち替わりで見てくれていた。
「警察は事情聴取のために家内のいるマンションまで出向いてくれました。現場検証に加え、葬儀の準備、保険や死亡届の手続きがありました。そんなことが連日続いたわけです」
ママさんバレーの仲間のマンションには1週間ほど世話になり、仲間が探してくれた近くのアパートへ移った。タンスや冷蔵庫などの家財道具も新調した。
「そこへ引っ越しをした最初の晩のことです。事件後に初めて、私と家内と長女と3人だけになりました。それまではママさんバレーの仲間や警察や誰かしらがついていてくれていた。
家族3人だけになって改めて、順子はいなくなったんだと。言葉でたとえようもない寂しさ、むなしさ、悔しさ、悲しさがいっぺんに込み上げてきました」
そう話す賢二さんは、言葉を絞り出すのが精いっぱいといったしかめ面になり、苦悶の表情を浮かべた。
身内が殺害され、日常の生活に戻されようとも、遺族がそう簡単に社会復帰できるわけがない。仕事を再開したとしても、「被害者の遺族」として生きていかなければならず、自分と周囲との間には心理的な壁が立ちはだかる。
賢二さんが職場に戻ったのは、発生から約1か月がたったころだった。
「社内でも事件については触れないようにしていました。ところが警察が会社にまで来て聞き込みをするんです。事件当日に欠勤していた社員を全部洗い出したり。大阪の支社にまで行きましたからね。そのせいで、『小林が余計なことをしゃべったから俺が疑われたんだろう』と迷惑がられて、少しぎくしゃくしました。それが悲しかったですね」
賢二さんの長女には婚約していた相手がいて、事件発生の約2か月前には結納を交わし、翌年の春先には都内のホテルで挙式が予定されていた。
「長女の部屋は放火された火元の真上だったので、いただいた結納品や思い出の写真などはすべて灰と化しました。そのホテルでいちばん大きな披露宴会場を押さえていたんですが、キャンセルせざるをえなくなりました」
結婚式を挙げるはずの前夜、長女は1人、彼の勤務先がある岡山へと旅立った。東京駅まで見送ったが、寂しそうに歩くその後ろ姿が今も忘れられない。
「本当に可哀想なことをしました」
決して涙を見せず、妻を支え続けた夫の存在
犯人を逮捕し、事件の早期解決を──。未解決殺人事件の被害者遺族に共通する願いだ。だがその裏で、遺族は心の傷を一生背負って生きていかなければならない。
事件後に点滴を打って寝込んでしまった妻の幸子さん。それまでは都内の美容院で着付けの仕事をしていたが、しばらく復帰できなかった。いつもは午後4時ごろ、京成金町線に乗って仕事場まで通っていたが、その時間帯に事件が発生したことから、同じ時間帯の電車は2度と乗れなくなった。
「お母さん助けて!」
という順子さんの声が聞こえてきそうだからだ。
順子さんのお墓参りには週1回のペースで通い始め、頭の中には常に順子さんのことが思い浮かんだ。本を読んでも、外出しても「心ここにあらず」といった状態が続き、何事にも集中できなかった。
精神的なショックから立ち直れず、都内の病院でカウンセリングを受け続ける日々。そんな幸子さんをママさんバレーの仲間たちが支え続けたが、賢二さんもまた、今まで以上に寄り添った。
バブル期に新橋の職場へ通い、昭和時代のサラリーマン人生を送ってきた賢二さんは「亭主関白」。家ではお互い「おい」(賢二さん)「ねえ」(幸子さん)と呼び合うような関係だったと、幸子さんが振り返る。
「夫は末っ子で大事にされてきたから、わがままなところもありました。娘たちからは『お母さんが何も言わないからお父さんが図に乗るんだよ』と言われていましたね。でもその場で何か言うと火に油を注ぐだけだから、数日たって伝えることにしていました。そのほうが素直に認めてくれるから、効き目はあるんです」
賢二さんは事件後、幸子さんを人一倍、気遣うようになった。体重が10キロほど落ちてしまった幸子さんの姿を見かねて、
「食べないんだったら、俺も食べない」と、心の痛みを一緒に分かち合ってくれた。
またある時は、幸子さんがお墓参りに行く途中、仕事場から急きょ早退し、「心配になった」と言って、幸子さんのもとへ駆けつけてきたこともあった。
幸子さんが「四国のお遍路に行きたい」と言えば、二つ返事で付き添ってくれた。
「私が何かするかもしれないと常に心配し、腫れ物に触るような感じで接してくれていました。家では事件の話はほとんどしなかったです。弱音を吐いたり、涙を見せることもなかったですね。会社の同僚が亡くなったときに家で声を上げて泣いていたことがありましたが、順子のことではそういうそぶりは見せませんでした」
ひとたび自分が弱さを見せれば、妻はダムが決壊するかのごとくたちまち悲しみの渦に巻き込まれるかもしれない。そうした懸念が常に頭にあったためか、賢二さんは気丈に振る舞っていた。
事件から1年ほどが経過したころ、「働いてくれたほうが俺も安心するから」と賢二さんに背中を押され、幸子さんは美容院での仕事に復帰する。最初は週1回からだったが、少しずつ回数が増えていった。
明治時代から130年続く時効を廃止
殺人事件の被害者遺族の中には、メディアの取材に消極的な人が少なくない。たとえ受けたとしても、顔を出す、出さないに分かれる。出すことで、世間から好奇の目にさらされる可能性があるためだ。賢二さんは発生から3年間、取材は受けなかった。
「口を滑らしたら犯人の証拠隠滅につながるから、メディアには出ないでほしいと警察から止められていました。3年たってそれが解禁され、また事件の風化も心配だったので、以降は取材にはすべて応じてきました」
しかし「顔出し」は自粛した。一方で事件の捜査は、現場の放火によって物証が極めて少なかったため難航を極めた。
その後の調べで、順子さんの両手などに巻かれていた粘着テープは、粘着面に犬の毛や植物片などが付着していたことがわかった。家では犬は飼っていなかったため、犯人が着衣などを通して外から持ち込んだ可能性がある。
順子さんの両足が縛られたストッキングは「からげ結び」と呼ばれる、特殊な結び方が使われていた。
玄関近くで見つかったマッチ箱に付着していた微量の血液、順子さんにかけられた布団に付着していた血液からそれぞれ検出されたDNA型が一致し、犯人の血液型はA型であることも判明した。
自宅玄関前では、不審な中年の男が目撃されていた。身長約150〜160センチで、黄土色っぽいコートを着ていた。
犯人像はおぼろげながら浮かび上がったものの、特定には至らないまま年月が流れ、賢二さんは「顔出し」を決意する。その転機が訪れたのは、発生から12年目を迎えた、2008年夏のことだった。当時、凶悪犯罪の時効は15年と定められていた。2004年の刑事訴訟法改正で25年に延長されたものの、「不遡及の原則」により、改正以前の事件には適用されなかった。ゆえに順子さんの事件は時効15年のままで、タイムリミットまであと3年に迫っていた。
時計の秒針が刻一刻と過ぎゆく中、賢二さんは、付き合いのあった大手新聞社の記者を通じ、警視庁成城署署長を歴任した捜査一課のOB、土田猛さん(74)=宙の会特別参与=を紹介された。そこで意気投合し、時効制度の廃止に向けた水面下の動きが始まった。賢二さんが回想する。
「殺人事件の被害者遺族にとってこんな理不尽な法律はないと訴えたい。にもかかわらず、呼びかける相手にこちらの顔が見えずにわれわれの思いが通じるだろうか。そう土田さんに説得されたんです」
同年9月に行われた献花式の場で、時効制度廃止の意義を伝える文書をメディアに配布。続く12月、世田谷一家4人殺害事件(2000年12月末発生)に関する集会で、賢二さんは司会を務めた。その場に同席していた土田さんが振り返る。
「その時に印象的だったのは、小林さんが順子さんの遺影を持ってきたことです。世田谷事件の集会だったから、報道陣も『あれ』っと思ったのではないでしょうか。何としても自分の事件を知ってもらいたいというなりふり構わない小林さんの姿勢から、無念の気持ちはやはり、相当に強いと感じました」
年が明け、'09年2月末に「宙の会」が結成された。初代会長には、世田谷事件の遺族、宮沢良行さん(享年84)、代表幹事に賢二さんが就任した。メディアの呼びかけも奏功し、集まったのは16の事件の遺族。ここから時効廃止に向けた動きが本格化する。署名活動を展開し、わずか1か月の間に約4万5千筆が集まった。
当時の森英介法務大臣に提出して気運が高まったかに思えたが、同年夏の政権交代で議論は白紙に戻った。だが決して諦めることなく訴え続けると、再び追い風が吹いた。法務省の法制審議会で公訴時効見直しの審議が始まり、同審議会総会で賛成多数により採択されたのだ。
これで時効廃止に向けた改正法案の成立が現実味を帯びてきた。'10年4月の衆議院法務委員会には、賢二さんが参考人として国会に招致された。与えられた時間は15分。土田さんと推敲を重ねた原稿を手に、こう訴えた。
「殺された者は再び生きて帰ることはありません。しかし、この世に正義が存在するなら、犯人に対し被害者の生命の尊厳に替わりうる鉄槌を与えて当然と考えます」
「私たち遺族の犯人への憤りは増すことがあっても薄れることは決してありません。他方、このような殺人事件が1件でも少なくならないかという強い願いがあります。その根底には、殺害された者そして遺族となった私たちと、同じような無念の生涯を味わっていただきたくないという思いがあるからです。そのためには、時効制度を撤廃し、人を殺害したら厳刑に至るという条理が保たれてこそ叶うものと考えております」
この4日後の衆議院本会議。
「賛成する諸君の起立を求めます」
一斉に議員が起立する。
「起立多数。よって本案は可決決定いたしました」
議場内に拍手が響き渡り、賢二さんは涙がこぼれないよう、天を仰いだ。明治時代から130年続いた時効制度が廃止となった歴史的瞬間だった。間もなく記者会見が始まり、その日の晩は遺族一同、勝利の美酒に酔いしれた。
生きた証を残す
事件現場の焼け焦げた自宅は、発生から1年3か月後に取り壊された。
「犯人が捕まったらあそこへ連れていこうと思って残すつもりだったんです。ですが風雨にさらされ続け、両隣に家もある。瓦が1枚落ちてケガでもされたら困るし、老朽化も激しくなる。そんなことで泣く泣く……」
取り壊しの費用約100万円は賢二さんの自己負担で、以来、長らく更地になっていた。ところが時効廃止を機に、賢二さんが動きだす。
「われわれが必死に署名活動をやったりメディアに訴えたりして、時効廃止に向けた世の中の盛り上がりを感じました。われわれの組織以上の力がはたらいた。これは世の中のみなさんに感謝しなくてはいけない。何か社会に還元できないかと、あの土地を使ってもらうことにしたんです」
この時に、賢二さんに土地の提供を申し入れたのが、地元の小学校時代の同級生で、自転車店を経営する鈴木裕司さん(75)だった。鈴木さんは金町消防団第8分団の団員でもあり、事件発生時、現場の消火活動に参加していた。
「けんちゃんとは小学校6年生のときに一緒のクラスでした。頭のいい少年でね。お互い中学を卒業してからしばらく会っていなくて、久しぶりに同窓会で再会しました。その数年後に火災発生を知らされ、現場に直行しました。その時点では、けんちゃんの家だとわからなかったんです」
後に消防団の団員から事件のことを知らされ、鈴木さんは絶句する。以来、街で賢二さんを見かけると声をかけ合うようになった。
「けんちゃんが自宅を解体した後、区役所へ提供しようかと言っていたんです。消防団も地主から移転を迫られたタイミングだったので、けんちゃんにあの土地をほしいと言っちゃったんだよね」
話はトントン拍子に進み、改正法案成立から半年後の'10年10月、第8分団の格納庫が完成した。敷地の一角には順子地蔵もできたのだが、その資金は順子さんの大学時代の同級生が、毎年の法事に持ってきてくれる「順子基金」から賄われたという。賢二さんが語る。
「祠の隣には花壇もできたことで、家内が事件現場に足を運ぶきっかけになりました。それまでは近づけなかった。献花式の前に草刈りに行くことはありました。人目を忍んで夏の早朝5時ごろに家内と一緒にね。
こっちは何も悪いことをしていないんですけど。ところが花壇を作れば四季折々の花を植えられるから枯らしちゃいけないし、お地蔵さんの水も取り替える。ということで家内は今、週2回行っています」
順子地蔵の完成からはや10年以上が経過し、今年は事件発生から四半世紀という節目だったことから、報道の数が増えた。だが、来年以降は風化してしまうのではないかと、賢二さんは不安を募らせる。
そんな胸の内が届いたのか、順子地蔵がいつの間にか、グーグルマップに表示されるようになった。それは順子さんが生きた証をこの世に残す、明るいニュースだった。
「『順子地蔵』で検索すると地図上の位置と写真が表示されます。一度お試しください。いよいよメジャー・デビューです」
そう喜ぶ賢二さんだが、この青い空の下で、同じ空気を吸っているかもしれない犯人に対しては、こう怒りをぶつける。
「とにかく犯人を捕まえたい。それまでは絶対に諦めない。もはや時効はなくなっているので逃げることはできない。僕ができなかったことをひとつひとつ実現してくれた順子の死は、悲しいとか寂しいという気持ちを通り越して、ただただ、悔しいです。本人の無念を重ね合わせると、犯人を決して許してはおけない」
事件発生以来、その絆を深め、二人三脚で生きてきた賢二さんと幸子さん。いつの日かを胸に、順子地蔵の前で手を合わせ続けている──。
(取材・文/水谷竹秀)
みずたに・たけひで
ノンフィクション・ライター。1975年生まれ。上智大学外国語学部卒。2011年『日本を捨てた男たち』で第9回開高健ノンフィクション賞を受賞。10年超のフィリピン滞在歴をもとに、「アジアと日本人」について、また事件を含めた世相に関しても幅広く取材している。