川中島、関ヶ原、九頭龍川…合戦すべきは「河原」か「野原」か? 野戦の2大定番スポット研究

85

2022年01月14日 09:00  AERA dot.

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

AERA dot.

写真河原で行う野戦/川中島の戦いや姉川の戦いなどに代表される河原での戦い。河川は国境となっていることも多く、川という自然の仕切りを挟んで両軍が集結し、開けた扇状地などで大軍同士の遭遇戦が行われた(週刊朝日ムック『歴史道別冊SPECIAL 戦国最強家臣団の真実』から)
河原で行う野戦/川中島の戦いや姉川の戦いなどに代表される河原での戦い。河川は国境となっていることも多く、川という自然の仕切りを挟んで両軍が集結し、開けた扇状地などで大軍同士の遭遇戦が行われた(週刊朝日ムック『歴史道別冊SPECIAL 戦国最強家臣団の真実』から)
 源平がしのぎを削ったその勃興期、一対一で相まみえることが原則だった武士の戦い。しかし蒙古襲来、鉄砲伝来などの新しい風を受けて、合戦は集団対集団の形態に移行。雑兵・足軽を重用する戦術や陣形が練り上げられていった。その用兵の極意とはいかなるものだったのか? 週刊朝日ムック『歴史道別冊SPECIAL 戦国最強家臣団の真実』では勝つための「陣形」と「戦術」を大研究。ここでは、合戦の場所について論じる。


【河原や野原での戦いはこんなにあった! 合戦地図はこちら】
*  *  *


 合戦は、大きく、遭遇戦・奇襲戦・攻城戦の三つに分類される。遭遇戦は文字通り、両軍がぶつかりあうので野戦ともいい、攻城戦も、守る方からすれば籠城戦ということになる。


 奇襲戦および攻城戦の場合には陣形というものは考察の対象とはならないが、遭遇戦の場合には、陣形が戦術そのものに直接関係してくるわけで、その善し悪しが勝敗を決することも少なくない。陣形と戦術が密接に関係するのはそのためである。


 戦術という言葉と似たものに戦略があるので、あらかじめ、この二つの言葉を整理しておきたい。


まず、戦略であるが、これは、勝敗の大局に関係するような謀略をさすのが一般的で、現代では、むしろ、国家間の軍事的方略をさす言葉として使われている。外交戦略などといわれるように、個々の戦闘よりは上のレベルを指すのが一般的である。ただ、戦国時代の使われ方をみると、大部隊の運用法を戦略と称していることもあり、区別がつかないこともある。


 それに対し、戦術は、局部的な戦闘術をさしており、むしろ戦法に近い。具体的にどのような陣形で敵を迎え撃つかなどはどちらかといえば、戦術の範疇に入るわけである。


 なお、攻城戦から遭遇戦に変わる場合もある。たとえば、城を攻めていた側が何らかの事情で囲みを解いて兵を引く場合、それを籠城していた側が追撃して野戦にもちこまれるというケースもあった。このように、実際の合戦において、陣形が大きな意味をもったわけであるが、陣形の代表というべき「諸葛亮八陣」は吉備真備が伝えたものである。




 吉備真備は、養老元年(717)、留学生として唐に渡っており、唐で儒学・天文学・兵学などを学んで、天平七年(735)に帰国している。のち、もう一度入唐しており、2度の留学によって、中国の兵法を身につけたものと思われる。真備の場合、陰陽道の先駆者として知られている。真備が合戦に際し、軍師として活躍したという話は伝わらないが、のちの軍師にあたる仕事をしていたことがわかる。


 戦国時代の軍師は、陰陽師の系譜を引き、陰陽五行説や、中国伝来の「武経七書」とよばれる兵法書を駆使しながら作戦立案に携わっていたことが知られている。「八陣」に代表される陣形にさらに軍師による工夫が加えられていったのである。


■河原か!野原か! どのような場所で戦うべきか?


 合戦は、両軍がそれぞれ前に進んできて、前衛が衝突したことではじまるということもあるが、多くの場合、事前に、お互い「あのあたりで戦うことになるであろう」と場所を選定しているのが一般的である。


 場合によっては、一方の側が、戦いを有利に進めるため、自軍に都合の良い場所を選び、そこに敵軍を誘いこむということもあった。いずれにしても、遭遇戦とはいいながら、たまたま、そこで敵と遭遇したから戦いとなったというケースは少ない。


 そのことは、合戦名から確かめることもできる。


合戦名に「原」とか「河原・川」の地名がつけられているものが多い。有名な戦いを、思いつくまま列挙すると次のようになる。



●「原」/ 用土原の戦い・塩売原の戦い・江古田原の戦い・実蒔原の戦い・須賀谷原の戦い・高見原の戦い・長森原の戦い・高輪原の戦い・小沢原の戦い・勢場ヶ原の戦い・上田原の戦い・木崎原の戦い・三方原の戦い・摺上原の戦い・関ケ原の戦い


●「河原・川」/田屋川原の戦い・九頭龍川の戦い・芦屋河原の戦い・飯田河原の戦い・立河原の戦い・塩川河原の戦い・長良川の戦い・野洲川の戦い・姉川の戦い・四万十川の戦い・耳川の戦い・神流川の戦い・中富川の戦い・神川の戦い・戸次川の戦い



 中には、「坂」「峠」「畷」「狭間」といった名前のついた戦いもあるが数は少なく、どちらかといえば、少ない軍勢が大軍を相手に奇襲攻撃をかけるといった場面が多いように思われる。大軍同士、正々堂々とぶつかりあうような戦いの場合、どうしても、「原」「河原・川」といった開けた広い場所が選ばれることになる。「原」の字がつく戦いで、最も有名であり、規模も大きかった関ケ原の戦いを例に、この点を確かめてみたい。


 周知の通り、関ケ原の戦いは美濃の関ケ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を戦場とした戦いで、慶長五年(1600)九月十五日、西軍石田三成率いる8万4000と、東軍徳川家康率いる7万4000の合わせて15万を超える大軍がぶつかった戦いである。


 石田三成は、はじめ、尾張で東軍の進撃を防ぐつもりでいたが、そこを突破されてしまった。そこで次に、美濃の大垣城に籠城し、そこを東軍に攻めさせ、その背後から毛利輝元の後詰を受ける作戦を考えていた。


 通説では、その作戦を見破った徳川家康が、「大垣城に籠城されては面倒なことになる」と、「大垣城を攻めず、佐和山城を抜き、大坂城に向かう」と、嘘の情報を流し、三成があわてて関ケ原で東軍の西進をくい止めようとしたとされてきた。


 ところが、近年の研究で、三成はおびきだされたのではなく、はじめから、関ケ原で東軍を迎え撃つ考えだったことが明らかになってきたのである。


 関ケ原はその名の通り、古代不破関があったところで、交通上の要衝で、中山道と北国脇往還が交差し、開けた広い空間があった。三成側が事前にこの場所を重視していた証拠というのが、西軍小西行長陣所近くの土塁の存在である。通説のように、九月十四日の深夜、嘘の情報で大垣城を飛びだしたのでは、土塁を築いている時間的な余裕はない。また、結果的に小早川秀秋が入り、東軍に寝返ったので西軍陣地としては機能しなかった松尾山であるが、三成は、そこを城として築き、毛利輝元を迎え入れるつもりでいたことも明らかになっている。 さらに、三成の盟友・大谷吉継が大垣城に入らず、関ケ原の西南にある藤川台に布陣したこともその証拠である。 三成は三成で、東軍の西進を関ケ原で阻止する陣形で臨んでいたが、それは叶わなかったのである。


◎監修・文/小和田哲男(おわだ・てつお)
1944年静岡県生まれ。静岡大学名誉教授。近著『戦国
武将の叡智 人事・教養・リーダーシップ』(中公新書)他、著書多数。また、NHK大河ドラマ「秀吉」「功名が辻」「天地人」「江〜姫たちの戦国〜」「軍師官兵衛」「おんな城主 直虎」「麒麟がくる」の時代考証も手掛けている。


※週刊朝日ムック『歴史道別冊SPECIAL 戦国最強家臣団の真実』から抜粋


このニュースに関するつぶやき

  • (足軽A)鶴翼の陣?何だべな?(足軽B)そんなのはどうでも良いべな←普段は農民で畑を耕しているのに陣形なんて解るのかニャǭ???��上が解っていれば大丈夫������
    • イイネ!2
    • コメント 0件
  • 米が石高になってた時代だから田畑は避けたって話でしょう?
    • イイネ!27
    • コメント 0件

つぶやき一覧へ(59件)

前日のランキングへ

ニュース設定