日本代表がブラジルW杯で惨敗した理由。平穏すぎたザックジャパンの4年間

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2022年01月19日 11:11  webスポルティーバ

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何かが起こるW杯イヤー(5)〜2014年
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 2014年ブラジルW杯を目指したザックジャパンは、オシムジャパンと岡田ジャパンが費やしたその前の4年間とは、対照的な姿を描いた。解任騒動などは起きなかった。大きな波風が立つことなく平穏に推移した。

 だが、本大会の結果はグループリーグ最下位だった。初戦でコートジボワールに1−2と逆転負け。続くギリシャ戦には0−0で引き分け。3戦目のコロンビアには1−4で大敗した。見せ場なく、あっさりとW杯の舞台をあとにした。

 エンタメ的にも大きな問題を抱えていた。ドタバタした4年間のほうが結果は出る。監督交代騒動を起こしながらW杯本番でベスト16入りしたその前後の4年間と比べると、ついそう言いたくなる。2022年カタールW杯に向けた4年間の最後の年にあたる現在にも、あてはまる教訓ではないか。その伝でいけば、森保ジャパンの行方が心配になる。騒動なき4年間を案じたくなる。




 アルベルト・ザッケローニは、日本サッカー協会があるコンセプトを打ち出し、それに基づいて招聘した初めての代表監督だった。パウロ・ロベルト・ファルカン、ハンス・オフト、加茂周、岡田武史、フィリップ・トルシエ、ジーコ、イビチャ・オシムという歴代の代表監督とは、その点で決定的な差があった。

 原博実技術委員長(当時)が中心となってリストアップした候補には、ザッケローニのほかに、ハビエル・アギーレ、マヌエル・ペジェグリーニ、エルネスト・バルベルデらの名前が挙がっていた。ザッケローニはつまり、攻撃的サッカーを標榜する監督として選ばれたのだった。

 ザックジャパンはスタートから快調だった。初戦のアルゼンチン戦に1−0で勝利すると、半年後の2011年1月にカタールで開催されたアジアカップで優勝。期待感は一気に膨らんだ。

 ザッケローニは、ウディネーゼというイタリアの地方クラブを、3−4−3という攻撃的な3バックを用いて、セリエA上位に押し上げ、名を上げた。守備的志向の強い監督の割合が高いイタリアにあっては、珍しい存在だった。

【ザッケローニへの疑念】

 しかし、日本代表監督に就任すると3−4−3を封印。正確に言えば、2試合だけ試合の頭から使ったが、その他の試合は4−2−3−1で戦った。

 4−2−3−1は4−3−3と並ぶ攻撃的な布陣として知られるが、当時、世界のサッカー界は、もう攻撃的サッカー対守備的サッカーの時代ではなかった。守備的サッカーはかつてないほど衰退。3−4−1−2を代表とする守備的な布陣も同様に激減した。気がつけば、世界のサッカー界は攻撃的サッカー対攻撃的サッカーの時代を迎えていた。「攻撃的サッカー」は少なくとも欧州では死語になりつつあった。問われていたのは攻撃的サッカーのディテールになる。

 ザッケローニも気がつけば、特別な存在ではなくなっていた。布陣を4−2−3−1しか使用しなかったり、戦術的交代を積極的に取り入れなかったり、世界のスタンダードに照らせば特段、進歩的な監督には見えなくなっていた。

 先に述べたアジアカップの準決勝の韓国戦では、逃げ切りを図ろうと5バックで守りを固める作戦にも出ていた。挙げ句、韓国に同点に追いつかれてしまう。PK戦に勝利したため、それを問題視する声は高まらなかったが、ザッケローニへの疑念が膨らむきっかけになったことは確かだった。

 W杯アジア3次予選では北朝鮮、ウズベキスタンに敗れ、肝を冷やしたものの、最終予選では、オーストラリアに4ポイント差をつけ、この組を首位で通過。順当に本大会出場を果たしていた。ザックジャパンは強くなっているのか否か。ブラジルで開催されたコンフェデレーションズ杯、韓国で行なわれた東アジアカップを経ても、不透明な状態が続いた。

 一進一退するなかで、2014年W杯イヤーに向けて弾みがつく試合となったのが、2013年11月に行なわれたオランダ、ベルギー遠征だった。オランダに2−2、ベルギーには3−2で勝利した。そして悪い意味で、その余韻はいつまでも続くことになった。

 ザックジャパンはそこからブラジルに向けて旅立つまでの半年強の間に、国内でわずか2試合しか行なわなかった。行なえなかったというのが正解だろう。2010年初頭から南アフリカに向けて旅立つまで、8試合を行なった4年前の岡田ジャパンとはまさに正反対の姿を描いた。

【本田圭佑、香川真司のピークは2011年】

 岡田ジャパンは最後の半年間で失速。岡田監督の進退問題に発展したことは、前回の記事で触れたとおりだが、ザックジャパンの場合は、ラスト半年間で何も起きなかった。

 対戦した2試合とは、取り壊される前の旧国立競技場で、さよならイベントとして行なわれたニュージーランド戦(3月5日)と、日本を発つ直前に壮行試合として行われたキプロス戦(5月27日)だ。

 こう言ってはなんだが、わずか2試合しか戦わないのであれば、相手は厳選すべきだった。弱すぎる相手とのホーム戦。マッチメイクに問題があることは明白だった。世界のサッカーカレンダーは確かに年々、立て込んできていた。相手探しは簡単にはいかない。Jリーグの日程も絡んでくる。だが、たとえば隣国の韓国は、その間にガルフカップに参加していた。

 2013年、技術委員長から専務理事に昇格していた原博実氏に、筆者がそのあたりを追及したところ、「韓国はベストメンバーを送ったわけではない。大会に出場し、コンディションを崩した影響で、本大会で力が出なかった」と返してきた。だが、常識的に考えて、2試合はやっぱり少なすぎるし、ニュージーランドとキプロスは弱すぎる。失速した原因と言われても仕方がない。くり返すが、こちらにはその4年前が懐かしい思い出として蘇ってくるのだった。

 もっと言うならば、攻撃的サッカーをコンセプトに掲げながら、その特色を、ザックジャパンが本大会で全く発揮できなかったことも問題だった。「方向性は間違っていない」と、原氏は毎度、口癖のように語ったが、こちらが問いたかったのはディテールである。攻撃的サッカー対攻撃的サッカーの時代に、方向性は間違っていなかったと言われても、そんなアバウトな物差しでは勝ち目がないと言いたくなった。

 ザッケローニにとっての誤算は、本田圭佑と香川真司が所属クラブで活躍できなくなっていた点だ。両選手ともピークは2011年だった。アジアカップでMVP級の活躍をした本田はその後、ケガに泣いた。気の毒なくらいパフォーマンスを低下させた。

【ディテールで敗れた日本代表】

 香川もドルトムント、マンチェスター・ユナイテッド、ドルトムントと移籍をくり返したが、2011年当時のようなパフォーマンスは拝めなくなっていた。所属クラブで活躍できずにいた2人が代表の中心選手を張る姿は、けっして健康的とは言えなかった。

 香川はポジショニングにも難を抱えていた。4−2−3−1の3の左を任されながら、本田が構える1トップ下付近で多くの時間プレーした。マイボールの時以上に問題だったのは相手ボール時で、「3の左」はそのまま穴になった。

 初戦のコートジボワール戦で喫した2失点は、その穴を突かれた結果だった。まさにディテールの問題になるが、初歩的な問題でもあった。日本を偵察したチームには、穴はどこなのか、一目瞭然だったはず。

 ラスト6カ月、細部を詰めずに本大会に臨み、あっさり沈んだザックジャパン。ドタバタ劇を演じた挙げ句、大手術を敢行して臨んだ4年前の岡田ジャパンが、必要以上に懐かしく感じられた。
(つづく)

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