原田雅彦「頭のなかは真っ白になった」。冬季五輪で大失速となったスキージャンプ団体最後のジャンプ

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2022年01月20日 18:22  webスポルティーバ

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<冬季五輪名シーン>第1回
1994年リレハンメル五輪 スキージャンプ・ラージヒル男子団体

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いよいよ2月4日からスタートする北京五輪。開幕を前に、過去の冬季五輪で躍動した日本代表の姿を振り返ろう。あの名シーンをもう一度、プレイバック!

◆ ◆ ◆




 1994年2月22日のノルウェー・リレハンメル五輪ラージヒル男子団体。優勝がかかった最後のジャンプで大失速した原田雅彦は、ブレーキングトラックの端で頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。

 先にジャンプを終えて原田のジャンプを待ち構えていた岡部孝信と西方仁也、葛西紀明が駆け寄り、「銀メダルだよ、原田さん。よかったじゃない」と声をかけた。

 葛西はのちに「泣いていると思って心配して声をかけたら、顔を上げてニヤッと笑ったんです。このヤローと思いましたよ」と笑いながら話した。

 原田はその時、「飛び出した瞬間に"やってしまった"と思って頭のなかは真っ白で止まった時に頭を抱え込むしかなくて。どうしたらいいんだろう、どんな顔をすればいいんだろうと思っていました。そうしたら3人が駆け寄ってきて『よかったじゃない』と笑顔を見せてくれたので、ホッとしました」と振り返った。

 日本のスキージャンプ界にとっては4大会ぶり、1988年カルガリー大会から正式種目になったラージヒル団体では初めての銀メダルだった。うれしさはあったが、戦いぶりを考えると悔しさのほうが大きいメダル獲得だった。

【金メダルの確率は4分の3】

 2年前の1992年アルベールビル五輪(※同大会までは夏季・冬季五輪を同じ年に開催していた)で日本は、団体4位、ラージヒル個人は原田が4位の成績を残した。新たな潮流となりつつあった「V字ジャンプ」習得を代表選考の条件にした大会だった。五輪直後のフライング世界選手権を兼ねたワールド(W)杯ではV字ジャンプ習得に最も苦しんだ葛西が初優勝すると、翌1992−1993年シーズンは世界選手権ノーマルヒルで原田が優勝し、W杯で3勝した葛西が総合3位と世界のトップに迫っていた。

 そして迎えたリレハンメル五輪シーズン。五輪前のW杯14大会では葛西は1勝を含めて3回表彰台に上がり、岡部と西方は2位と3位で2回の表彰台と好調だった。個人戦はイエンス・バイスフロク(ドイツ)とエスペン・ブレーデセン(ノルウェー)、アンドレアス・ゴルトベルガー(オーストリア)が3強でメダルは難しかったが、団体を考えれば4位が最高の原田も含め、4人がW杯総合で15位以内につけており有力なメダル候補になっていた。

 ただ現地に入ってからの不安要素は、原田の調子が上がってこなかったことだった。開会式前日に別の会場で行なわれたナイタージャンプ大会では、葛西と岡部、西方で表彰台を独占したが原田は46位。公式練習が始まっても他の選手の名前は10位以内にあっても、原田の名前だけはなかった。

 それでも最初の種目だったラージヒル個人で原田は、1本目に4位につけるジャンプを見せた。2本目は悪条件になって13位に落ちたが、それまでの不安は払拭するジャンプだった。日本勢は岡部が4位になって西方は8位、葛西も14位。エースふたりの調子はもうひとつではあったが、団体は金メダルを狙える位置にいることを証明した。

 ラージヒル団体のオーダーは、1番手から西方、岡部、葛西、原田の順番だった。小野学ヘッドコーチの思惑は「3強がいるドイツやノルウェー、オーストリアは2番手以下の選手の層が薄い。15位以内の4人がそろう団体では、金メダルの確立は4分の3だろう」というものだった。

「4番手に原田を選んだのは、世界チャンピオンだからという理由。各国のエースが出てくる4番手は、当然のように前の組よりスタートゲートが下げられてロースピードのジャンプになる。あの時は葛西も絶好調ではなかったので、その条件に一番対応できるのはエースの原田だとなるのは定石でもあったと思う」

 小野がこう話す裏には、他国が戦力的に弱い1番手と2番手に好調な西方と岡部を当てれば、先手を取って主導権を握れるとの狙いもあった。

【踏み切った瞬間「ダメだ」】

 試合はその期待どおりに展開した。1本目は3人とも各組トップの飛距離のジャンプを見せ、葛西が終わった時点で2位ドイツの16.9点差をつけた。最後の原田はバイスフロクが131mを跳んだドイツに逆転されたが、K点越えの122mを飛びその差を0.8点に抑えて2回目につないだ。

 2回目のジャンプになると、日本チームの狙いは完全にハマった。最初の西方が135mの大ジャンプでドイツを逆転すると、次の岡部も133mで66.5点差に広げた。1本目に128mを飛んでいた3番手の葛西は、前のふたりの大ジャンプに少し力んだのか120mにとどまったが、それでもドイツとは55.2点差。飛距離に換算すれば30.5m差と、日本の金メダルは確実な状況になった。

 最後の組のジャンプは、それまでの得点が低い順に飛ぶため、最終のジャンパーは原田となった。その前に飛ぶバイスフロクは、原田に「コングラチュレーション」と声をかけてからスタートをきった。のちに海外メディアから原田にプレッシャーをかける行為だったと批判もされたが、自分が130m越えの大ジャンプをしても、原田は、K点以上は飛んでくるだろうと考え日本を逆転できない負けを認めての言葉だったのだろう。

 バイスフロクはこの試合最長不倒距離となる、135.5mを飛んで存在感を見せつけた。それでも原田は、K点よりはるか手前の105mを飛べば優勝という状況だった。しかし、原田の踏み切りは力強さがなく、ふらふらっと空中に出るとランディングバーンの上部の97.5m地点に着地してしまったのだ。

「踏み切った瞬間にダメだと思いました。タイミングが早かったから。あの頃の僕のジャンプは点の踏み切りで、当たり外れの差が大きかった。あの瞬間は本当に何も考えられないくらいショックで。陸上の400mリレーで最強のアメリカが、アンカーのカール・ルイスにバトンを渡そうとした瞬間に落としたのと同じですから」

 原田はそう振り返った。そして、五輪という舞台の難しさを小野コーチはこう説明した。

「いけると思って臨んだが、冷静に考えれば原田の2本目以外のジャンプは、実力より上の出来すぎだったと思います。個人で表彰台の常連がいないのが唯一のウィークポイントだったが、最後はバイスフロクの大ジャンプでそこを突かれてひっくり返されてしまった。4回やって3回勝てる力を持っていても、五輪は1試合しかないので難しい。それ以上の力を持っていなければ勝てないのだと痛感しました」

 その日の夜に行なわれたメダルセレモニー。日本から持ってきた"一番"と書かれたハチマキに、もう1本線を加えて"二番"にしたものをそろって頭にしめた日本代表4人は、満面の笑みを浮かべていた。

 悔しさもあり、うれしさもある銀メダル。原田と西方が25歳で、葛西は21歳という若いチームだった。4人の「次がある」という思いが、4年後の長野五輪金メダルにつながったのだ。

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