清水宏保、ソルトレークシティ五輪銀メダルの壮絶な裏側。まともに「ズボンも履けない」腰痛を抱えていた

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2022年01月22日 18:21  webスポルティーバ

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<冬季五輪名シーン>第3回
2002年ソルトレークシティ五輪 スピードスケート・清水宏保

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いよいよ2月4日からスタートする北京五輪。開幕を前に、過去の冬季五輪で躍動した日本代表の姿を振り返ろう。あの名シーンをもう一度、プレイバック!

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【レース後に明かされた深刻な状態】

 1998年長野五輪スピードスケート男子500mで日本スピードスケート界初の金メダルを獲得し、日本中を熱狂させた清水宏保。彼がアスリートとしての強靭な精神力を見せたのは、五輪連覇を狙った2002年ソルトレークシティ五輪(アメリカ)だった。

 結果は2レース合計タイムでケーシー・フィッツランドルフ(アメリカ)に0秒03及ばない2位だったが、そのあとの記者会見で明かされた事実には誰もが驚いた。日常生活で腰を曲げるだけで激しい痛みがあるほどのコンディションだったのだ。ズボンも簡単には履けず、壁に手を当てて立ったまま、もう片方の手でぶら下げて何とか脚を通すようにして履いていたという。「もうダメだ」。たびたびそう思うような状況だった。

 清水は前年の2001年3月にはジェレミー・ウォザースプーン(カナダ)が持っていた世界記録を0秒31塗り替える34秒32を出して、4度目の世界記録保持者になっていた。だが、五輪シーズンの出だしは最悪だった。11月の国内初戦は腰痛のために欠場し、W杯初戦のソルトレークシティ大会は1本目で25位、2本目で16位に終わって、次戦のカルガリー大会は、順位によるポイントで分けられるカテゴリーのディビジョンBに落ちた。

 年が明けると復調した。2002年1月のヘレンベーン大会は第2戦で3位になってシーズン初表彰台に上がり、その1週間後の世界スプリントは総合9位だったが、2日目の500mではフィッツランドルフと同タイムの1位に。「18日後の五輪は万全」と金メダルを再び期待されるまでになっていた。

 だが五輪のレース終了後に彼が明かしたのは、腰痛が深刻でレースができるような体調ではなかったということだった。

「痛めたのは昨年(2001年)の10月で、カルガリーでダッシュをした時。それからずっと治らなくてヘレンベーンでもレースができるような状態ではなかったのですが、痛みの伝達を一時的に遮断する椎間関節への局所注射を3カ所に打ってもらって滑りました。世界スプリントは痛みの箇所が増えたので5カ所に打ってレース当日には痛み止めも飲んで。きょうも3カ所に打って痛み止めを飲みながら臨んだ状態なので、決して腰が回復してきたわけではなかった」

【執念のベストレース】

 2月11日から始まった五輪でのレースの清水は、そうした状態だったことを微塵も感じさせなかった。初日の1本目は「スタートがちょっと出遅れ、滑り自体もよくなかった」と清水は言ったが、100mを9秒51で通過し五輪新の34秒61で滑りきった。世界記録を出した時の通過タイム9秒45よりは遅かったが、見ている側は、強い清水が戻ってきたと感じた。

 次の組で滑ったフィッツランドルフが34秒42でトップに立つと、最終組で清水とともに優勝候補に挙げられていたウォザースプーンはスタート4歩目でスケートの先を引っかけて転倒するアクシデントに見舞われた。清水の1本目は0秒19差の2位ながらも、フィッツランドルフのこれまでの実績を見れば、五輪連覇は確実になったかに思えた。

 清水が「びっくりしたというより正直ショックのほうが大きかった。彼と勝負したい気持ちが強かった」と話した、ウォザースプーンの転倒。だが、ウォザースプーンは翌2月12日の2本目では、第1組で34秒63と意地を見せた。第17組アウトレーンスタートの清水も、100m通過はシーズン最高の9秒47と前日よりいい滑り出し。しかしコーナーがきついインレーンを滑る第2カーブで少しバランスを崩し、直線の出口では外に膨らんでしまった。1本目よりタイムを落とす34秒65。2本合計は1分9秒26だった。

 そして最終組のフィッツランドルフは、第2カーブで少しバランスを崩して手をつきながらも34秒81でゴール。2本の合計を1分9秒23にし、清水を0秒03差で抑えて優勝を決めた。

「長野五輪からここまで、世界記録を出すことと五輪チャンピオンになるのが目標と言うか、やるべきことだと思っていました。結果は出なかったが、やるべきことはやってきたと思います」

 こう話す清水だが、この勝負には疑惑もあった。34秒42を出したフィッツランドルフの1本目のスタートは、フライングのような飛び出しだったからだ。そのレースの100m通過は清水より速い9秒44で、2本目の9秒70と比べても明らかに速すぎるタイムだった。フィッツランドルフの他のレースを見ても彼の100m通過は9秒7台が多く、最初の100mで勝負する日本選手と比較すれば、後半のラップタイムで勝負するタイプの選手だった。割りきれない気持ちも残った。

「心から笑えると言ったらそうではないですね。満足できる体調でやりたかった」

 そして、その日の夜のメダルセレモニーが終わったあとに清水はこう話していた。

「何度も今シーズンはダメだなと思ったこともあったけれど、それでもあきらめずにここまでもってこられた。途中で自分を投げ出さなかったことはすごく評価できるところだと思います。痛めた当初は1カ月くらい休めばどうにかなる状態でした。でも、そのあとで再発して......。五輪イヤーということでかなり無理をしたトレーニング計画でずっとやってきたし、選考会もあったのでちょっと無理をしなくてはいけない状態だった。だからケガをしてからは自分を保っていかなければいけないとすごく緊張していました。金メダルを獲らなきゃいけない、獲りたいという気持ちもあったし、応援してくれている人たちの期待にも応えたいというのもあったし。頑張りたかったというのはすごくありました」

 朝起きた時も、練習の時も、ため息の連続だったという。痛みで体もまともに動かせないなかで、何度も「もうダメだ」と思った。

「正直、精神的に保つのがやっとだったので、銀メダルが決まった時はホッとしたというか、すごく気が抜けましたね。銀メダルが獲れたことに対してホッとしたのではなくて、とりあえず無事に自分をここまでもってこられて、無事に滑り終えたことに対して。腰がまた再起不能になるくらいに壊れなくて、すごくホッとしました」

 満身創痍のなかで「もしかしたら金メダルだったかもしれない」と思わせる銀メダル獲得。清水にとっても、見ている側からしても、長野五輪の金メダル以上に価値のあるものだったと思える。彼がアスリートとしての思いの強さを見せた、ベストレースだった。

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