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第16回レオナルド(2)
レオナルドは選手時代、ひとつのチームで長くプレーしたことはない。一番長いのがサンパウロとミランだが、それでも4シーズンだ。だが、所属したすべてのチームから、まるでそのチームの旗印であったかのように愛され、リスペクトされている。
それは彼の人となりによるところが大きい。レオナルドは常に額に汗を、持てる力すべてをそのチームにつぎ込みプレーした。フラメンゴでプレーを始めた1日目から引退する日まで、彼は自分を偉大な選手だと思ったことは一度もなかったという。
「たしかに自分のキャリアを見る限り、結果は出してこれた。しかし、これはいつもいいチームでプレーすることができたからだ。私のチームにはいつも優秀な選手がいっぱいいた。そのおかげで自分は勝つことができた。私はチームの一員にすぎなかった。自分より上の存在がいつもいる。このメンタリティーが私を助けたのだと思う」
どのチームとも良好な関係にあり、どこにでもいつでも戻れるのが彼の誇りでもあった。実際、フラメンゴ、サンパウロ、ミランには選手として二度在籍しているし、ミランには監督とチーム幹部として、パリ・サンジェルマン(PSG)にはチーム幹部として復帰している。
1987年、レオナルドは17歳でフラメンゴのトップチームに入った。当時のフラメンゴにはそうそうたるメンバーが揃っていた。ジーコ、レアンドロ、ベベット、ジョルジーニョ、エジーニョ、歴史的にもフラメンゴが強かった時代で、レオナルドはデビューの年にブラジル全国リーグを制覇。最高のスタートをきった。
ただし、多くのスター選手がひしめくチームで居場所を得るのはそう簡単なことではなかった。そのため彼はさまざまなポジションを転々とすることになる。両SB、CB、ボランチ、オフェンシブハーフ、はてはFWまで。だがこの時の経験がレオナルドをオールマイティなプレーヤーに育てたことも事実だ。
【大きかったジーコの影響】
若きレオナルドに最も影響を与えた選手は、まぎれもなくジーコだろう。幼いころからフラメンギスタだった彼の一番好きな選手でもあった。ジーコの横でプレーすることに彼はいつまでたっても慣れなかったという。
「すぐ隣にジーコがいるのが信じられず、これは夢だと思い、一緒に写っているチーム写真も合成ではないかと疑ったよ。ジーコからパスをもらうのは毎回大事件で、自分を信じてパスをしてくれたと思うと鳥肌が立った。それもサッカーの殿堂マラカナンでだよ」
ピッチの内外で礼儀正しく真面目な態度は、ジーコの真似から始まったと彼は言う。
ジュニオールも彼の目標でもあった。レオナルドは当時SBとしてプレーすることが多く、レオナルドはジュニオールの後継者とも見られていた時期もあった。
もちろん、すべてが夢のようではなかった。89年、フラメンゴはカンピオナート・カリオカ(リオ州選手権)のタイトルを逃し、サポーターはチームを批判。なかでもいいプレーをしなかったとレオナルドは個人的にかなり叩かれ、彼はかなりのショックを受けた。選手としての最初の試練である。
90年、サンパウロの監督に就任したばかりの名将テレ・サンターナはチームの強化を図っていた。そこでかつてブラジル代表で教え子だったジュニオールにレオナルドのことを尋ねた。するとジュニオールはレオナルドを絶賛した。曰く、DF、MFすべてでプレーでき、パスもパーフェクト、ドリブルもうまい。
その言葉を信じて、監督はレオナルドを獲得した。フラメンゴと異なり当時のサンパウロは若いチームで、レオナルドはすぐにレギュラーに落ち着いた。左右のどちらのサイドでもプレーできることが彼を大いに助けた。1年後にはライーらとともにブラジル全国リーグを制覇した。
しかし、レオナルドは結局1シーズン半でサンパウロを去ることになる。ヨーロッパのチームが放ってはおかなかったからだ。多くのチームが彼をほしがるなか、レオナルドを勝ち取ったのはスペインのバレンシアだった。当時のバレンシアはスペインで、バルセロナ、レアル・マドリード、アトレティコ・マドリードに次ぐビッグクラブだった。
【トヨタカップで初の来日】
移籍した時、レオナルドまだ21歳、家族や友人、祖国から離れ、最初はかなり難しい時期もあった。チームにはかなり年上のブラジル人選手がひとりいたが、彼はほぼ独力ですべてに慣れなければいけなかった。言葉も文化も何もかも。バレンシアの町では何度も道を間違えて迷子になったという。しかし若かっただけに彼はすべてを吸収していった。
レオナルドはここでもすぐにレギュラーとなり、1991−92シーズンには、リーガの全選手のなかでプレー時間が最も長いプレーヤーとなった。テクニカルでフィジカル、仲間との折り合いもよく、彼はたちまちチームのスターとなった。レオナルドの名前はより知れ渡り、ミランとバルセロナが彼をほしがった。だが、バレンシアも手放そうとはしなかった。
「今思い起こしても、スペインにはいい思い出しかない」とレオナルドは言う。最初の結婚をしたのもバレンシアだった。
この頃、古巣のサンパウロは絶好調で、92年、93年とリベルタドーレス杯を連覇、92年にはトヨタカップでヨーロッパチャンピオンのバルセロナを破り、世界ナンバー1クラブとなっていた。しかし93年の夏に、ライーがPSGに引き抜かれてしまう。その頃のサンパウロはライーを中心に作られたチームだっただけに、トヨタカップ2連覇を狙うサンパウロは早急にチームを作り直す必要があった。そこでテレ・サンターナが思い出したのがレオナルドである。
レオナルドはかつての恩師のたっての願いでサンパウロに復帰し、ライーの背番号10番を引き継いだ。しかし、テレ・サンターナはそのままレオナルドをライーのポジションであるトップ下ではなく、彼の特性を生かせる左サイドに入れた。さすがに知将である。レオナルドはその期待に応え、サンパウロはトヨタカップ2連覇を達成した。レオナルドは左サイドを支配し、得点に結びつくアシストをする活躍を見せた。
この時のレオナルドのプレーに魅了されたのが、対戦相手のミランと、彼のプレーを目の当たりにした、Jリーグが発足したばかりの日本だった。ミランは実は彼がバレンシアでプレーを始めた91年くらいから注目していたのだが、驚くことに、彼が次の移籍先に選んだのは日本のほうだった。
【どんなオファーも断り、ジーコとの約束を守った】
憧れのジーコに誘われて、レオナルドは鹿島アントラーズの選手となった。日本に行く直前、彼はブラジル代表として94年アメリカW杯でプレーをした。これはJリーグにとって大きな意味があったと私は思う。当時、Jリーグは終わった選手がプレーするところ、象の墓場かなにかのように世界では思われていた。それがW杯でプレーしたばかりか優勝まで果たした選手が移籍したのである。
大会後、レオナルドのもとにはヨーロッパ中のトップチームからオファーが押し寄せた。私が知るだけでもPSG、ミラン、バルセロナ、バレンシア、ドルトムントが彼を熱望し、提示された金額もかなりものだったと聞く。しかし、レオナルドはこのオファーをことごとく断り、日本に渡った。ブラジルをはじめ、世界中の誰もが「なぜレオナルドは日本に?」と疑問に思ったはずだ。だがレオナルドは、ジーコと約束した契約期間はなにがなんでも尊重するつもりだった。その間のリーグ戦の出場試合数は49試合で30ゴールを決めている。
ネットが今のように発達してない当時、日本はサッカーの中心からかなり離れた国だった。そこでプレーする姿も簡単には見ることはできなかった。
3シーズンがたった96年、フランスの名門PSGからのオファーがきた。当初、鹿島と結んだ契約期間は満期を迎えていた。レオナルドは悲しかったが、日本を出る決意をした。ジーコもその決断には理解を示し、彼を送り出してくれた。PSGはまだ今のような大金持ちのチームではなかったが、世界の強豪へと変貌する過渡期にあった。「その時代を知っていたことはよかった」と、今レオナルドは振り返っている。
1シーズンをパリで過ごしたのち、以前からほしがっていたミランがついに彼を手に入れる。レオナルドのキャリアで最高だったのはこのミラン時代だろう。チームメイトには世界に名だたる選手たちがいた。フランコ・バレージ、パオロ・マルディーニ、アレッサンドロ・コスタクルタ、デメトリオ・アルベルティーニ、ロベルト・ドナドーニ。外国人選手ではエドガー・ダーヴィッツ、ズボニミール・ボバン、ジョージ・ウェア、デヤン・サビチェビッチ、アンドリー・シェフチェンコなどとプレー。4シーズンで96試合に出場し、22ゴールを決めた。
【ミランが発見したリーダーとしての才能】
レオナルドはミランについて「夢見たことがすべて現実になった。ミランのおかげで今日の自分がある」と言っている。ミランでレオナルドはシルビオ・ベルルスコーニ(元会長)、そしてなによりアドリアーノ・ガッリアーニ(元副社長)に、その聡明さとスマートさを愛された。
彼はサッカーがうまいだけでなく、ピッチの外でのふるまい方を知っていた。服装も、食事をする態度もすべてがエレガントで、頭の回転も速い。彼らはチームを率いる未来のリーダーの姿をそこに見ていたのである。のちにレオナルドが監督やチーム幹部として成功するのも、すべてミランが用意してくれたからだった。イタリア語はレオナルドの第二の言語となり、イタリアは第二の故郷となった。
彼が切り開いたのは自分の将来だけではなかった。レオナルドが97−98シーズンに加入するまで、ミランにはブラジル人選手は数えるほどしかいなかった。しかし、レオナルド以降、ミランにはブラジルの優秀な選手が数多く所属することとなる。ジダ、セルジーニョ、リバウド、カカ、カフー、チアゴ・シウバ......すべてはレオナルドから始まった。
2001年にレオナルドはミランを去り、古巣のサンパウロとフラメンゴでプレーしたが、最後にはまたミランに舞い戻り、ここで選手を引退した。
(つづく)
レオナルド
本名レオナルド・ナシメント・ジ・アラウージョ。1969年9月5日生まれ。15歳でフラメンゴに入団し、17歳でトップチームデビュー。その後、サンパウロ、バレンシア、鹿島アントラーズ、ミラン、パリ・サンジェルマンPSGでプレー。引退後はミランのフロントに入り、ミラン、インテルの監督を経てPSGのフロント入り。現在はPSGのスポーツディレクターを務めている。