メッシ獲得、ネイマール慰留…「鹿島の貴公子」レオナルドはフロントでも才能を発揮する

0

2022年01月27日 11:21  webスポルティーバ

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

webスポルティーバ

写真写真

あのブラジル人Jリーガーはいま 連載一覧>>
第16回レオナルド(4)

 ブラジルには、いやブラジル以外でも、サッカー選手としては輝いていても、引退後に困難に陥る選手が数多くいる。しかし、レオナルドはそんな問題とはまるで無縁だった。

 彼は現在、世界で最も影響力のあるチーム幹部のひとりと言われている。もしかしたらそれは、選手時代以上の成功なのかもしれない。彼がミランやインテル、パリ・サンジェルマン(PSG)にもたらした選手たちのリストを見ればそれは一目瞭然だろう。

 今シーズン、ネイマール、リオネル・メッシ、キリアン・エムバペの3人をチームにそろえた彼の功績は、高く評価されている。出ていくつもりだったネイマールには、巨額の報酬で3年の延長を取りつけた。メッシがバルサをやめると知るや即座に他のチームを出し抜いて(少なくともインテル、ミラン、バイエルン、マイアミが本気で獲得に乗り出していた)、数十時間後には自分たちのものとした。レアル・マドリードからずっとラブコールを受け、本人も移籍の意思を隠さなかったエムバペも、結局はこのままパリに残るとの見方が優勢だ。

 その裏にはもちろんいろいろと問題はあるが、それでも結局こうした技を決めてしまうレオナルドの手腕は「芸術的」とも呼ばれている。ジョゼップ・グアルディオラもジョゼ・モウリーニョもそれを認めている。




 順を追って話をしよう。

 2003年3月、レオナルドはミランで引退した。引退が告げられると、サンシーロには少なくとも40の「ありがとうレオ」と書かれた横断幕が掲げられた。前年の10月、シルビオ・ベルルスコーニ(当時の会長)に呼ばれてミランに戻ったものの、結局はコパ・イタリアで4試合、リーグ戦で1試合しかプレーしなかった。

 しかし、ミランはそれでもよかった。なぜなら彼らの目的は引退後の彼にあったからだ。4月1日にはレオナルドのミランフロント入りが告げられた。その聡明さ、リーダーシップ、人脈、そして元選手にはあまりないエレガントさを買われたのだ。

【現役引退後にミランからの3つの贈り物】

 まずはスカウトとしてミランに入ると、その2週間後には設立したばかり慈善団体「フォンダツィオーネ・ミラン(ミラン基金)」の責任者となった。そして2カ月後の8月には南米全般の移籍市場を総括する座についた。CEOアドリアーノ・ガッリアーニのそばで、彼はチーム経営とは何かをじっくりと学んでいった。

 レオナルドはすぐにカカを、続いてアレシャンドレ・パト、そしてチアゴ・シウバをミランにもたらした。カカは多くのチームがほしがっていたが、ミランが勝ち取ることができたのはレオナルドの存在が大きかった。

 一方、ミランはレオナルドのためにイタリアのパスポートを獲得した。レオナルドは身内にイタリア系はいないし、イタリアで5年以上プレーしていないが、それは問題にはならなかった。なにせ時の首相は、ミランの会長でもあるベルルスコーニだったのだから。また、レオナルドはイタリアサッカー協会の監督コースにも通わせてもらい、ヨーロッパのチームを率いる資格も得た。

 ガッリアーニからの教えとイタリア国籍、そして監督の資格は、ミランがレオナルドに贈ったプライスレスのプレゼントだった。この贈り物のおかげで、その後の彼は大きく羽ばたくことができた。

 2006年にカルチョポリ(ユベントスをはじめとするイタリアのチームが審判を買収、脅迫するなどしていたとされるスキャンダル)が起こった際には、それに巻き込まれることなく、逆に5カ月の停職をくらったガッリアーニに替わって、チームの経営を任された。

 レオナルドは意気消沈するチームスタッフを導き、3位に降格されたためチャンピオンズリーグ(CL)予選を早くから戦わねばならないチームに「たとえバカンスが短くなっても、みんなで戦い、すべてを取り戻そう」と言って奮起させた。そのシーズンのCLでミランは優勝を飾った。

 レオナルドはミラノのライフスタイルが非常に好きだった。ミラノのセレブが住むブレラ地区に住み、ミラノファッションに身を包む。ジャケットにシャツを着こなし、ふだんネクタイはしないが、必要な時にはすぐつけられるようポケットにはいつも忍ばせておくこともミラノで学んだ。

 マーケティングを半年、経営を半年学び、2009年4月の時点での彼の名刺の役職名は会長補佐。彼はこの名を好んで使っていた。

【ミラン監督就任もトップと対立】

 2009年5月末のある晩、レオナルドは突然ガッリアーニから食事に呼び出された。レオナルドは何か悪いことが起こるかもしれない、もしかしたらミランをクビになるかもと覚悟したという。なぜなら、それまでのガッリアーニとの会食はいつもランチだったからだ。

 ガッリアーニは彼に「(カルロ・)アンチェロッティは好きか?」と尋ねた。レオナルドは「はい、彼は優秀で学ぶところの多い監督です」と答えた。するとガッリアーニはこう言った。

「それならこの数日で、彼からできる限りのことを学ぶがいい。6月からは君がミランの監督だ」

 レオナルドが監督になってからミランのHPの閲覧数は3倍に伸びたという。しかし、彼の監督1年目は簡単なものではなかった。チームはパオロ・マルディーニが引退し、カカも去り、新しく立て直す必要があった。そこでレオナルドは「4−2−4」、別名「4−2―ファンタジア」という超攻撃的なシステムを敷く。かつての恩師テレ・サンターナのシステムからインスパイアされたものだ。

 しかし、この戦法は当たればすごいが、リスクも高い。序盤から負けが続き、ミランは最後まで圧倒的な強さは見せられなかった。ただ、CLのレアル・マドリード戦では、史上初めてミランをサンチャゴ・ベルナベウで勝利に導き、ミラニスタを大いに喜ばせた。

 シーズンをあと3節残すところで、レオナルドはメディアの前で「ベルルスコーニと自分は相いれない。彼の影響を受けたくはない」と明言する。ベルルスコーニが再三にわたり、チームの采配にまで口出しすることが、どうにも我慢できなかったようだ。ただ公の場でそれを言ってしまったことは問題だった。結局この喧嘩が原因で、レオナルドはシーズン終了後、ミランをあとにする。

 ミラニスタはレオナルドが去るのを悲しみ、最後の5月15日のサンシーロでのミラン対ユベントス戦では、彼が選手を引退した時と同様、感謝をささげる多くの横断幕が見られた。一方、レオナルドを解任したことで、ミラニスタの間でのベルルスコーニの人気はますます下がり、のちにベルルスコーニ自身も、あの時の行動は過ちだったと述べている。

【PSGから用意された心躍る仕事】

 2010年の南アフリカW杯で、ブラジルのテレビの解説者を務めたあと、同年12月、驚いたことにミランの永遠のライバルであるインテルの監督に就任する。インテル幹部と対立し、解任されたラファエル・ベニテスの後任だった。当時のインテルの会長マッシモ・モラッティからの強い要望であり、何より新たな挑戦が彼の心をとらえたようだ。

 レオナルドはインテルでの最初の13試合で33という大量の勝ち点を獲得、ホームでの12連勝という記録を打ち立てた。ミランとのダービーには敗れ、CLは準々決勝止まりだったが、コッパ・イタリアでは優勝を果たした(これが監督としてレオナルドの唯一のタイトルである)。

 インテルはレオナルドに次のシーズンも任せるつもりだった。しかし彼はその誘いを丁重に断り、もうひとつの古巣PSGに向かった。PSGは彼にフットボールディレクターという重要なポジションを用意していたのだ。当時のインテルとPSGを比べると、断然インテルのほうが格上だったが、パリで彼を待ち構えていたのは非常に心躍る仕事だった。PSGはちょうどカタールの資本となったところで、レオナルドは潤沢な資金を元手に、PSGを世界に名だたる強豪のひとつへと育てる一大プロジェクトを任されることになる。

 またレオナルドは、数年の監督生活を経て、自分はチームのマネジメントのほうが向いていると感じていた。レオナルドはオイルマネーと自分の人脈を存分に使い、監督にアンチェロッティを呼び、チアゴ・モッタ、チアゴ・シウバ、マルキーニョス、エディンソン・カバーニ、マルコ・ヴェラッティ、そしてズラタン・イブラヒモヴィッチを獲得。PSGはフランス版ガラクティコス(銀河系軍団)とも呼ばれるようになった。

 2013年5月、チアゴ・シウバへのジャッジの不服から、試合後、レオナルドは審判に肩でぶつかり9カ月の停職処分を言い渡される。彼は「自分は何もしていない」と主張したが、聞き入れられず、シーズン末に自らチームを去った。

【レオナルドはなぜ成功したのか】

 その後のレオナルドは、テレビの解説や自身が起こした基金の仕事に専念し、サッカーの世界からは少し遠ざかっていた。ブラジルサッカー協会の仕事や2014年W杯の組織委員会の仕事もオファーされたが、それらはすべて断っていた。ヨーロッパに比べるとまだ前近代的で混沌としているブラジルで、サッカーの仕事をしたくなかったと、レオナルドは述べている。

 2017年には突然、トルコのアンタルヤスポルの監督を引き受ける。だが、これはうまくいかなかった。10試合、約3カ月でチームを去る。トルコのサッカーの現状をよく知らずに引き受けてしまったことが敗因だった。

 その半年後、レオナルドは再びミランに戻った。今回の彼に課せられた使命はミランの再生だった。長年の財政不振でミランはかなり疲弊しており、スクデット争いやCLから長く離れていた。ベルルスコーニからミランを買った中国人オーナーは1年でチームを去り、ミランはアメリカのファンド、エリオットに売却される。彼らの将来的な計画に賛成できないと感じたレオナルドは、またもミランをあとにしたが、それは理由の一部にすぎない。PSGに再びスポーツディレクターとして招聘されていたからである。

 舞い戻ったPSGで、はじめからすべてがうまくいったわけではなかった。ネイマールを筆頭に高給取りがひしめいているというのに、PSGは相変わらずヨーロッパで勝利できなかった。翌2020−2021シーズン前には、ネイマールとの不仲が噂されるようになったカバーニがマンチェスター・ユナイテッドへ移籍。チアゴ・シウバもなかなか契約を更新しないチームにしびれをきらしてチェルシーへ移籍。レオナルドと意見の合わない監督トーマス・トゥヘルもシーズン半ばの12月にチームから追い出された。そして皮肉にも、チアゴ・シウバとトゥヘルが移った先のチェルシーがCLを勝ち取るのだ。これにはカタールの王族もいい顔をしなかった。2020年はレオナルドにとっては問題山積の年だった。

 しかし2021年夏になると、その評価は一変した。冒頭に述べたようにネイマールを納得させ、エムバペを引き留め、メッシを獲得したのだから。

 レオナルドのこれまでを振り返ってみて、ひとつ強く感じることがある。それは彼の運の強さと、なによりその運をうまく使うことのできる才覚だ。

 何が何でもプロになろうと思っていなかったのにフラメンゴに入団し、アメリカW杯で失敗してもジーコが後継者に考えてくれた、骨をうずめると思っていたミランを飛び出すとインテルが助け舟を出し、それをステップにPSGへ......。何かひとつ困難にぶつかっても、必ず次が用意されていて、そこでまた成功を続ける。彼がサッカーの表舞台に立ち続ける秘密のひとつここにあると思う。強運を引き当てることもひとつの才能である。そして強運を使うこなすには、なにより優秀でなければならない。

 レオナルドの物語はここで終わらない。きっとこれからも多くの伝説を作っていくに違いない。

レオナルド
本名レオナルド・ナシメント・ジ・アラウージョ。1969年9月5日生まれ。15歳でフラメンゴに入団し、17歳でトップチームデビュー。その後、サンパウロ、バレンシア、鹿島アントラーズ、ミラン、パリ・サンジェルマンPSGでプレー。引退後はミランのフロントに入り、ミラン、インテルの監督を経てPSGのフロント入り。現在はPSGのスポーツディレクターを務めている。

    ニュース設定