なぜ今「批評の仕方」なの? 本や映画に触れるときに意識したいこと【北村紗衣】

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2022年01月27日 20:11  ウートピ

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シェイクスピア研究やフェミニスト批評などを専門とする研究者の北村紗衣(きたむら・さえ)さんによる新書『批評の教室 ─チョウのように読み、ハチのように書く』(筑摩書房)。

「批評」を学ぶ大学生のために書かれた本ですが、本や映画、演劇などの作品をより深く理解するためのポイントから実践的な批評の仕方まで、批評の初心者にも分かりやすい語り口で丁寧に解説されており、私たちが本や映画を楽しむためのヒントも満載です。

本を書いたきっかけや「批評」の必要性、作品を味わうときに意識したいことなど、北村さんにお話を伺いました。

なぜ「批評の仕方」なのか?

——『批評の教室』を書いたきっかけを教えてください。

北村紗衣さん(以下、北村):『批評の教室』は、私が2018年に武蔵大学のゼミで行った内容がもとになっています。ゼミではひたすら映画批評だけをしていて、学生の満足度も高かったのですが、カリキュラムの関係で1年のみで終わってしまったんです。その後、筑摩書房の方から「フェミニズム批評の新書を書かないか」というお話をいただいたのですが、フェミニズム批評うんぬん以前に、そもそも大学1年生は批評ができませんし、本の読み方や映画の見方が分からない学生が多かったんです。だからまずは「批評」について大学1年生や高校生でも読める本が欲しいと思い執筆しました。

——同書では「批評」するために必要なことを「精読する」「分析する」「書く」という段階に分けて紹介しています。批評の仕方を教える必要性についてどんなふうにお考えですか?

北村:テクストの事実関係を正しく読み取り、さらにそこに書かれていないことを探る……という能力は、何にでも役立つと思います。ただ、高校生がそれまでに読んできた文章の量はとても少ないので、それができない学生がいるのは当たり前です。だから大学で批評の仕方について教えるときも、「とりあえず、たくさん読んでみよう」というところからスタートするのですが、最近の学生は忙しくて1年で読める本や見られる映画の量は限られているので、まずはその取っ掛かりになることを説明しようと思いました。

——以前、トークイベントで「受け手の感受性」という言葉も使われていましたが、どういう意味でしょうか?

北村:一つの感受性だけが正解ということはないし、一人一人、いろいろな感受性があると思っています。もちろん「読んで楽しかった!」でもいいのですが、一方で、作品の中で起こっている事実などを把握していないと、読んでいて疑問が起きてくる気がしています。どれくらい説得力のある解釈を出せるかは別として、間違わない読み取りをする感受性は、少なくとも必要なのかなと思っています。

——『批評の教室』は2021年9月に出版されましたが、反響はいかがでしたか?

北村:高校生や大学生向けに書いたつもりだったのですが、池袋や丸の内の書店で、ビジネス教養書のような感覚で買っていかれる方もいる、と聞いて意外でした(笑)。

——本屋さんに行くと「教養」についての本が平積みになっているのをよく見かけます。「教養」がブームになっているのかなと推測するのですが、北村さんはどのように見ていますか?

北村:実は私にもたまに「教養の本を書きませんか?」という依頼が来るのですが、私、教養学部出身のくせに、教養とかすごく苦手なんです(笑)。なぜかというと、教養を身につけるために何かする、という発想がないから。面白いことがあると思って本を読んだり映画を見たりしているので、「教養を身につけましょう」というより「何か面白いことを始めましょう」というアプローチでないと書けないんです。教養を身につけるために何かをする、という行為が苦手なので、「苦手な本は書けないな」と思いました。

批評研究の道に進んだきっかけ

——北村さんが批評の道に進んだきっかけを教えてください。

北村:私の指導教員は東京大学の河合祥一郎先生で、「シェイクスピアを研究するなら、ちゃんとした劇評が書けるようにならないといけない」という指導方針だったんです。で、大学院に入ったときに、「劇評を書く」というめちゃくちゃ大変な授業がありまして、最初は何も書けず、2年ぐらい勉強してやっとできるようになりました。そのころから、「やっぱり批評というのはちゃんと書かなくちゃいけないんだな」と思うようになりました。

——「ちゃんと書かなければいけない」というのは?

北村:演劇の研究では、批評と研究はとても強く結びついているからです。演劇の場合は、保存ができないということも大きいですね。映像で保存することはできますが、見たお芝居がすべて映像化されるかと言ったらそうとは限らない。また、毎回同じキャストでも上演されるものでも上演のたびに少し違うこともあります。だから批評によって、その演劇がどういうものだったのかを記録として保存したほうがいいわけです。加えて、過去に見たお芝居はメモしておかないと、自分が研究するときに忘れてしまう、ということもあります。

そう考えるようになってから、見たお芝居について簡単なメモ程度の批評でも、ブログに全部書いておくようになりました。そうすれば、研究するときに見直して「あ、『ハムレット』、昔はこんな演出もあったな」と分かります。だから記録を保存するような感じで批評を書き始めた、という面もありますね。

“悪口”との違いは? 批評が必要な理由

——批判や批評がなぜ必要なのか? について伺いたいです。というのも、作品や仕事の内容を指摘しただけなのに、人格も否定されたように感じてしまう人が多いのかなと思っているのですが、北村さんはどのようにお考えですか?

北村:私も、人格攻撃と批判の区別がつかない人が多いことは本当に問題だと思っています。芸術や政治分野で著作を書いている人までそういうことを言い始めているのは非常に問題で、健全な言論空間は、作品とそれに対する批判とその批判に対する再応酬のようなもので成り立っているのだと思います。

批判というのは、悪いことを言ってもいいんですよね。例えば「ここは全然できていない」と言ってもいい。「できていない」と言われたことに対してどう対応するかは、クリエイター側が決めればいいことですから。もちろん、批判されてもこのままでいきたい、という人もいます。

例えば、私が好きなスパイク・リーという監督は、自分に対する批判を全然気にしていないフリをしているように見えすが、実はかなり批評を読んでいて、過去の作品で批判されて「失敗した」と思った部分は後で変えたりしています。そのほうが作品は良くなるので、批判を受けてどうするかはやっぱりクリエイターが決めることだと思います。

批判を受けて傷ついているだけではダメで、批判を受けたとき、そのままでいくことが直感的に正しいと思うか、次回作は変えようと思うか、それはクリエイターの力で決められると思っています。

「自分が得意な部分に注目して見る」のもアリ

——この本を読んで「批評って面白いんだな」と思うようになりました。改めて、批評の楽しさ、面白さについてお聞かせください。

北村:批評をすることで作品を何度でも楽しめますし、深く理解できるようにもなる、という面白さがあると思います。思いもよらない切り口を思いついたり、他の人の批評を読むことで絶対に自分一人では思いつかない見方ができるようになったりもする。批評することによって、作品を何度も楽しめる、というのは大きいと思っています。

また、コミュニティづくりなどのコミュニケーションツールにもなります。批評をきっかけに、他の人と作品に関して意見交換することで、より作品を楽しむことができるのが批評の良さじゃないかなと思います。

——いつもよりもう一歩、見方を深めたいと思ったときに意識したいポイントを教えてください。

北村:例えば、何度も出てきているモチーフに注目することや、その場面に映っていなくてもいいはずなのに出てきているものに着目すること、重要なところで複数回出てきているものに着目することなど、いろいろあります。どこから見ればいいか分からないときは、自分が得意なところにだけ注目して見る、というのもおすすめです。

例えば、以前『マッドマックス 怒りのデス・ロード』の批評で、水耕栽培の専門家の方が水耕栽培のところだけを見ていた、というのがあってすごく面白かったですね(笑)。そんなふうに、自分が好きなもの、得意なものが出た部分だけに注目して見るのもアリだと思います。

古典は「安全リスト」のようなもの

——せっかくだし、本でも映画でも古典にチャレンジしようかなと思っている人もいると思います。古典を読む醍醐味(だいごみ)や古典が古典たる理由についてはどのようにお考えですか?

北村:実は、古典が古典たる理由って難しいところで……。素晴らしい作品はいくつもあって、古典はその素晴らしい作品の中でたまたま、宣伝がうまい人や権力がある人に評価されたものだと思っているんです。だから素晴らしい作品でも、宣伝がうまい人や権力がある人に評価されなかったものは埋もれていることがあるわけですね。

これはフェミニズム批評やポストコロニアル批評ではとても大事な論点で、20世紀後半に、女性や非白人が書いた、優れているけれど受容されていなかった作品を掘り起こそう、という動きが増えました。たとえば英文学科のカリキュラムも、20世紀の後半でかなり変わりました。それまでは全然読まれていなかった女性作家や黒人作家の作品が発掘されて、面白いじゃん、と卒業論文などに取り上げられるようになったんです。

ただひとつ言えるのは、おそらくある程度のクオリティが担保されていないと、宣伝されたり、権力に取り上げられたりはしないこと。つまり、古典として今も尊ばれている作品以外にも素晴らしい作品はあり、そういう作品はきちんと掘り出さないといけないのですが、一方で古典は下手くそな作品をより分けるという意味でその機能をかなりの部分で果たしているんです。

古典の中にも自分の感性では面白くないと思う作品はたくさんありますが、「ここが評価されたんだろうな」というポイントはだいたい分かります。つまり、自分の感性には合わなくても、とてつもなく不出来なものは絶対に入っておらず、何かのポイントで良いクオリティを有しているものが古典になっているので、“安全リスト”のような意味では使えるものだと思います。

——最後に読者に向けてメッセージをお願いします。

北村:とにかく、図書館に行きましょう。例えば何か好きな本や好きな映画があるときに、図書館に行けばいくらでもその本の仲間の本が見つかるし、好きな映画の仲間にはどういう作品があるのか、調べることができます。できるだけ図書館を使って調べて、自分の好きな作品の友達を見つける、ということをしていただきたいなと思います。

(聞き手:ウートピ編集部・堀池沙知子)

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