『私ときどきレッサーパンダ』で広がる理解の輪 “いい子”を目指したすべての女の子の物語

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2022年05月03日 08:01  リアルサウンド

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『私ときどきレッサーパンダ』(c)2022 Disney/Pixar. All Rights Reserved.

 「控えめに言って“地獄”!」と思わず叫びながら背中を痒きむしりたくなるような前半から、「うんうん、そうだそうだ」と胸がすくようなクライマックスへ。まるでジェットコースターに乗ったようなスピード感あふれる1時間40分だった。映画『私ときどきレッサーパンダ』のことだ。


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■これは「いい子」を目指したことのあるすべての女の子の物語


 「地獄」と感じたのは、主人公の少女・メイが母親・ミンから背負わされている「いい子であれ」というプレッシャーを感じている日々のこと。きっとこれほど拒絶反応のようなものが出たのは、筆者自身もかつて「いい子」であろうとしていた時期があったからかもしれない。


 母親が自分のことを大事に思っていることも、愛してくれていることもわかる。だからこそ、いい子でいることは親を喜ばせたいという子どもなりの生きる知恵でもある。だから勉強を頑張っていい成績を取った。放課後は寄り道をせずに真っ直ぐ帰ったし、家の手伝いも積極的にしていく……。


 そんな“いい子マニュアル”の通りの生活に、何の疑問や不満を持たずにいられたときには平和だった。しかし、そこに収まりきらないものが生まれてしまう。自我のようなものが芽生え始めた13歳のころには、うまく折り合いがつけられなくなってくるのだ。


 人によっては、親の好みに合わない趣味もできるだろう。そこから「悪友」と呼ばれるような交友関係も生まれる。身近な人からアイドル、二次元のキャラクターなど誰かに恋をして勉強どころではなくなったりもする。性に対して興味が湧き、こっそりノートに妄想をしたためてベッドの下に隠しておく……なんてこともあるだろう。


 きっと親はそんな自分をいい顔をしないとわかっている。だからこそ、ジレンマを抱くのだ。「いい子でいたいのに」と戸惑いながらも、自分では止めることのできない好奇心に。


 そして心の変化だけではなく、身体の成長も待ってはくれない。筆者も生理を知ったときには「大人の女の人って、毎月血を流しながら生活してるって本気で言ってる?」と、にわかに受け入れられなかった。「平気な顔をして生活しているあの人もあの人も、本当に生理があるの?」と、見る世界が一気に変わったような気分にさえなった。それも始まってしまったら、何十年と続くなんて「信じられない!」と。


 でも、どんなに怯えていても、その日はやってくる。自分の覚悟とは無関係に変わっていってしまう自分自身の心と身体。母親に失望されたくない。でも、そんな混乱している真っ最中に「いい子でいてね」なんて釘をさされたら? 「いい子」でいること以上に大事に思えてきたモノや仲間たちを否定されたら? 「うるさい!」と噛みついてしまうのも仕方のないこと。


 そんな思春期の女の子の心身共に劇的な変化を本作では、“赤きパンタの力”によって変身することになるレッサーパンダの姿で表現される。「私はモンスターになった」とメイは涙を流すが、その姿がもふもふのレッサーパンダというのが微笑ましいところだ。なぜなら、もっとおぞましいモンスター像にだってなったはず。そうはしなかったところに、本作を手掛けたドミー・シー監督自身からの温かなメッセージがあるように感じた。


■ときどきレッサーパンダが顔を出すあなたも、きっと愛されるはず


 親に言えない秘密を抱え、過干渉な母親に辟易とした過去もあり、そのエピソードをこの作品に詰め込んだと語っているドミー・シー監督。きっと本編でメイがそうしていたように枕に顔をうずめて「うあああああ!」と獣のように吠えた日もあったことだろう。


 そんな葛藤する姿も実はチャーミングな部分なのだと、かわいらしいレッサーパンダにしてくれたのではないだろうか。自分の中にある吠えずにはいられない獣的な部分も「私の一部」であり愛することができるはずだと、ふわっと抱きしめてくれているかのようだ。


 そして同時に思うのは、レッサーパンダ化は思春期の女の子だけのものではないということ。何歳になっても、親は子に期待し、子は親の期待に応えたいと思う。だが、もちろん全てその通りにはいかない。


 成人して働くようになっても、その生活ぶりに対して何かと心配してくる。それなりの年頃になれば、恋愛や結婚について「どうなってるの?」と言わずにいられない。さらに子どもが生まれれば、その子育てについて口を挟んでくる話もよく耳にする。


 いくつになっても、親にとって「いい子」であってほしいというのは変わらない。それは本質的には、親なりの「幸せ」になってほしいという願いなのだが、その伝え方によっては価値観の押しつけや苦しいプレッシャーとなってしまうのが、親子の悲しいすれ違いだ。


 そして、更新され続ける「いい子」「いい娘」「いい嫁」「いい母親」……の期待に応えられないストレスから、いつだってレッサーパンダは顔を出す。だから、この作品では思春期を終えた母親の中にも、祖母の中にも、レッサーパンダがいるのではないだろうか。


 もちろん世の中には、生理中であることなんて周囲に微塵も感じさせないようなアクティブな女性がいるように、自分の中にいるレッサーパンダをしっかりと封印できている人もいる。一方で、ホルモンバランスの変化によって時折、自分でも手のつけようがなくガルガルしてしまうと悩んでいる人も。


 この作品で最も胸が熱くなったのは、後半で登場した凶暴な超巨大レッサーパンダを前にしても、みんなが逃げだしたり否定したりせずに向き合おうとしたところだ。同じレッサーパンダになりうる女性も、そしてレッサーパンダになってしまう女性と共に生きる男性たちも。その光景に、周囲の理解さえあれば、レッサーパンダになることそのものも、その人の個性としてみんなで見守っていくこともできるのではないかという希望を感じることもできた。


 きっと生理をはじめとした女性特有の心身の変化が多く語られるようになった現代だからこそ、描くことができた作品なのだろうとつくづく感じた本作。“レッサーパンダな自分”を、タブー視して封じ込める時代は通り過ぎようとしているのかもしれない。どうかこの作品を多くの人が鑑賞することで、そんな理解の輪が広がりますように。そして、あなたの中にも、あの人の中にも、ときどき出てくるであろうレッサーパンダとも仲良くできる世界になりますように。


・参照
https://www.cinemacafe.net/article/2022/03/12/77779.html?pickup_list_click1=true


(佐藤結衣)


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