大森南朋らが再び本多劇場に! 『ケダモノ』が生々しく描く、“寄る辺なき者たち”の物語

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2022年05月14日 08:01  リアルサウンド

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『ケダモノ』(撮影:引地信彦)

 下北沢・本多劇場にて、舞台『ケダモノ』が上演された。本作は、田中哲司、大森南朋、赤堀雅秋ら3人による演劇ユニットの最新作。2016年には光石研や麻生久美子らが参加した『同じ夢』を、2019年には長澤まさみ、でんでん、江口のりこ、石橋静河らが参加した『神の子』を上演し話題を集めてきた。今回は門脇麦、荒川良々、あめくみちこ、清水優、新井郁らが参戦し、私たちの息苦しい日常の延長線上にあるのかもしれない“地獄絵図”を描き出している。


【写真】赤堀作品に初参加でヒロインを演じる門脇麦


 赤堀作品の特徴の一つといえば、我々の目の前に横たわる現実を生々しく舞台上に立ち上げる点である。そしてそれは多くの観客にとって、痛快ではなく不快な、言葉にし難い後味の悪さを与えるものだろう。特に本作に関しては最終的に、目を覆いたくなるような“地獄絵図”へと物語は行き着く。登場人物たちは「コロナ禍」を生きており、「東京オリンピック」というワードを口にするため、どうやら私たちと同じ世界線を生きているようだ。そのためかフィクションとはいえ、非常に大きなリアリティをともない迫ってくるものがある。開演前の客入れ時のBGMが、あいみょんやKing Gnuなど、あちこちで耳にする令和のポップスだというのも効いている。


 物語の舞台は神奈川にある田舎町で、季節は真夏。寂れたリサイクルショップを経営する手島(大森南朋)は、自称・映画プロデューサーのマルセル小林(田中哲司)とつるむ日々を送っている。従業員は終始ふてぶてしい態度の出口(荒川良々)と、やる気はあるが空回りしてばかりの木村(清水優)の二人のみ。彼らの楽しみといえば、夜な夜な飲みに出て、行きつけのキャバクラでマイカ(門脇麦)と美由紀(新井郁)らと戯れることくらいだ。そんなある日、「父が死んだので家を整理し、不用品を引き取って欲しい」という依頼が。手島たちは依頼主である節子(あめくみちこ)の家と蔵を物色しているうちに、やがて“あるもの”を見つける。そして近くの山からは銃声がーー。


 現実を反映したような物語が最悪な方向へと転がっていく本作において、絶妙なユーモアを生み出しているのが田中哲司だ。どこか胡散臭く飄々とした振る舞いを見せるマルセル小林という男を、彼は軽快に演じている。マルセルは酒に酔ってはキャバクラで女性たちに問わず語りを繰り広げ、ジャン=リュック・ゴダールの映画のワンシーンにある踊りにまで興じる。この町や周囲の者たちと同様に、寂しい男なのだ。このマルセルと夜な夜な行動をともにする手島を演じているのが大森南朋。手島はマルセルに対してはどうにも頭が上がらないようだが、一度怒り出すと歯止めが効かず、その沸点も非常に低い男だ。そんな不安定なキャラクターを、大森は安定した演技で魅せている。朝ドラ『ちむどんどん』(NHK総合)第1週目に見せた柔らかな姿はここにはない。緊張感を強いるパフォーマンスである。


 そして本作で作・演出を務める赤堀雅秋が演じるのは、自治体からの依頼で鹿の駆除にやってきた猟師。「神の使い」とされる鹿は増えすぎ、農家の作物を荒らし、害獣扱いされている。この猟師は居酒屋経営者なのだが、コロナ禍によって経営難に陥り、ハンターの仕事を買って出たというわけである。演出も務めているため赤堀の出番は少ないが、この役は作品の転換点を作る重要な役どころ。閉鎖的で息苦しいいまの時代、誰よりも堕ちてしまった者の成れの果ての姿を作者自らが演じることで、その責務を負っているわけだ。


 ヒロインのマイカを演じる門脇麦は、赤堀作品への参加はこれが初。マイカは複雑なバックグラウンドを持つ女性なのだが、この町の中でも唯一彼女だけが微かな希望を持って生きているように思える。多くの悲劇作品に登場する“不幸な星の下に生まれた(ような)ヒロイン”の存在は、もれなく赤堀作品にも登場する。本作ではこのマイカだけでなく、新井郁が演じるコンプレックスを抱える美由紀も、あめくみちこ演じる満たされぬ日々を送る節子もまたそのような存在だ。物語の進行にともない彼女たちが選び取る悲劇的な行為には、それぞれが口にするセリフからは想像も及ばないほどの孤独や哀しみが根底にあることが分かる。


 苦しい胸の内を吐き出すことができない美由紀と節子。それは私たちの多くも同じこと。2人が取る行為は対照的だが、胸の内に溜め込んだものを吐き出せぬまま生きていれば、彼女らのようになってしまうのではないかとゾッとする。世間を騒がせる陰惨なニュースの渦中の人物たちとの重なりも感じずにはいられない。他人事ではないのだ。その中でもマイカだけは、生きることを諦めない、希望を感じさせる態度を見せる。強さと弱さが同居した門脇の微かに震える声が、それを示していると思う。


 清水優は赤堀作品への出演はこれが3度目。長い期間を空けての再登板となったようだ。手島の部下である木村として、手堅く作品世界を支えている存在である。この物語において木村は弱い立場の人物でもあり、周囲のパワーバランスの歪みに翻弄されるさまを清水は器用に表現している。


 そんな木村の同僚役が荒川良々だ。彼こそ“怪優”、彼の演技こそ“怪演”と呼ぶに相応しい。荒川が演じる出口は、手島以上にキレたら何をするか分からない男である。手島の場合は感情の動きが観客にも分かるのだが、出口の場合は観客の理解を一切寄せつけない。この物語の登場人物は誰も彼もがマトモではないが、他の者たちがまだかろうじて持っている、“人間が人間として生きるための何か”が彼は完全に欠如しているようだ。『ケダモノ』というタイトルから想起するものにもっとも近いのが、この出口という人物である。そんな荒川は約一年前、同じく本多劇場にて上演された『白昼夢』という赤堀作品でも出口と近い性質を持ったキャラクターを演じ、鮮烈な印象を残した。いずれも感情の流れが読めず、言動の一つひとつが暴力的で攻撃性を備えている。急に声を荒げたりするから恐ろしいのではない。他者の尊厳を脅かすようなことを平板な調子でやってのけるから恐ろしいのである。ドラマや映画における荒川の演技からコミカルなイメージが世間に浸透しているのではないかと思うが、出口のパフォーマンスはその真逆。まさに怪優による怪演である。


 さて、物語の舞台はコロナ禍にあり、登場人物たちが我々と同じ日常を生きているというのは先に記したとおり。この閉鎖的な環境や歪な人間関係から見えてくるのは、“寄る辺なき者たち”の姿だ。誰もが言葉を交わすが、そこには真のコミュニケーションと呼べるものが存在しない。劇中、田中演じるマルセルが「みんなイライラしているんです」という印象的な言葉を口にする。たしかに現実でも、みんなイライラしている。今日も誰かが加害者となり、同じように誰かが被害者となる日々が続いているのだ。劇中では誰も彼もがひっきりなしにタバコを吸い、ケムリを吐く。ただ生を消費する、彼らの刹那的な性質の表れだろう。クライマックスには見るも無残な“地獄絵図”が用意されており、そこには「暴力」を表象する丁寧な演出が施されている。この場面で用いられる小道具は私たちが日常的に触れるものであり、これがリアリティを増幅させるはず。リアルな舞台設定の上で散見される言動の数々は、観客の心をメッタ刺しにし、さらにはその傷口を容赦なくえぐってくる。現在(いま)という時代を斬る(=描く)というのは、つまりはそういうことなのだろう。


(折田侑駿)


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