清原和博に「西武の4番」を奪われた秋山幸二。石毛宏典は「お前はスター選手だ。遠慮するところじゃない」と発破をかけた

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2022年05月19日 11:51  webスポルティーバ

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石毛宏典が語る黄金時代の西武(1)
秋山幸二 前編

 1980年代から1990年代にかけて黄金時代を築いた西武ライオンズ。1985年からの10年間で9度のリーグ優勝、6度の日本一を達成するなど、他の追随を許さない圧倒的な強さを誇った。そんな黄金時代の西武をチームリーダーとしてけん引した石毛宏典が、当時のチームメイトたちを振り返る。

 1人目は、本塁打王のタイトル経験者でありながら盗塁王にも輝き、走・攻・守でチームを支え続けた強肩強打の外野手・秋山幸二。驚異の身体能力、センターへのコンバート、新人・清原和博との4番を巡るエピソードを聞いた。




***

――同期で西武に入団(石毛は1980年ドラフト1位、秋山はドラフト外での入団)し、ともに主力として黄金時代のチームをけん引。石毛さんから見て、秋山さんはどんな印象の選手でしたか?

石毛宏典(以下:石毛) 私はこれまで、選手、指導者という立場でいろんな選手を見てきましたが、秋山幸二はその中でも『飛び抜けた身体能力を持つ選手』。投げる、打つ、捕るという野球のパフォーマンスもさることながら、サッカーをやらせてもうまいし、器械体操もできる。日本の野球界の歴史を遡っても、身体能力ではナンバーワンの選手だと思っています。

――均整の取れた体をしていた印象です。

石毛 近年だと、糸井嘉男(現阪神)や陽岱鋼(元日本ハム、巨人)もそうだと思いますが、秋山はとにかく惚れ惚れするような『アスリート中のアスリート』と呼べる体型で、鍛え抜かれていましたね。筋骨隆々ではないけれども、筋肉質でバランスのいい肉体という感じでした。

――秋山さんの身体能力のすごさを目の当たりにしたのは、プロ入りして最初のキャンプですか?

石毛 そうですね。昔は合同自主トレなどで、ウォーミングアップも兼ねて他のスポーツをやることもあるんですが、なんでも身のこなしがすごいし、うまいんですよ。むしろ、「野球が一番ヘタなんじゃないか?」と思ったぐらいでした。

――「メジャーに一番近い選手」とも呼ばれていましたね。

石毛 日米野球で来日していたアメリカの監督が、全日本のメンバーとしてプレーしていた秋山を見て、「アメリカに連れて帰りたい」と言っていたのは覚えています。ちなみに、私はプロ入り1年目に日米野球の交流戦(全日本vsカンザスシティ・ロイヤルズ)に出場したんですが、当時のロイヤルズの監督に「(アメリカに連れて帰るなら)石毛がいいんじゃないか」と言われたんです。そんな時期もありました(笑)。

――秋山さんは入団当初から守備もうまかった?

石毛 彼は八代高時代(熊本)は投手でしたが、西武に入団してから三塁手に転向したんです。ただ、三塁の守備はそんなにうまくなかったですね。プロ入り2年目の1982年から1984年にかけて、野球留学でアメリカの教育リーグに3回ほど行かされていましたが、帰国後も守備に関しては「うまい」と思ったことはなかったです。

 それから数年後、当時指揮を執っていた森祇晶監督が私のところに来て、「秋山が自分の足を生かすためにセンターを守りたいと言っているんだ」と。さらに森監督から「サードをどうしようか?」と相談されたので、当時ショートを守っていた私は「サードは俺が行きます」と言ったんです。1985年の日本シリーズで膝の靱帯を痛めたこともあって、運動量が少ないサードがいいかなという思いもありました。

 それで「ショートをどうしようか」となったんですが、田辺徳雄を起用する方向で落ち着きました。そういったポジションの変更がひと段落したあとに秋山と話したら、秋山は森監督から「石毛が『膝が痛いからサードに行きたい』って言ってるんだけど、秋山はどうする?」って聞かれていたみたいで......。森監督の真意はわかりませんが、私と秋山の両方に話を持ちかけていたようです。

――そんなやりとりの末にセンターにコンバートされた秋山さんは、水を得た魚のように躍動しました。

石毛 福本豊(阪急)さんをはじめ、足があって守備範囲が広い外野手はそれまでも何人かいましたけど、西武では"秋山のセンター"というのが売りになっていきましたね。その後、強肩で俊足の平野謙さんが中日からトレードで加入したこともあり、外野守備がより一層鉄壁になって、チームの強みになっていきました。

――選手時代もソフトバンクの監督時代も常に冷静なイメージがありますが、性格面の印象はどうでしたか?

石毛 あまり話すほうではなく、どちらかといえば物静かでした。ただ、プロ入り後に私は一軍、秋山は二軍にいたので、一緒にいたのは合同自主トレの時くらい。キャンプもオープン戦もチームが違うし、シーズンに入るとより行動が違ってくるので、彼の1、2年目はほとんど見ていませんし、話す機会もほとんどありませんでした。

――秋山さんは練習量が多かったことが知られていますが、元来そうだったのか、それとも広岡達朗さんが1982年から監督になられてからでしょうか?

石毛 広岡さんの監督就任もそうですが、守備・走塁コーチの伊原春樹さんの影響もあって練習量は多くなりました。秋山が身体能力を存分に生かせるように育てて、「将来の主力にしよう」というのが、おそらく当時の西武の育成における大きなテーマだったと思います。

 ただ、先ほども話したように、技術的にはそんなにうまいとは言えなかったから、臨時コーチで張本勲さんなどいろいろな方を呼んで、彼をなんとか一人前にしようという動きがあったことは覚えています。

――アメリカへの野球留学も練習方法に影響を与えていた?

石毛 生活のほとんどが試合か移動時間という、マイナーの過酷な環境を体験したことも大きかったと思います。現役晩年のダイエー時代に、同じチームの選手たちが秋山の練習量に驚いていたというのは、そういった経験が体に染みついていたからでしょう。

――西武時代、石毛さんが秋山さんにアドバイスをするようなことはありましたか?

石毛 秋山が1985年に本塁打を40本打って、「これから、チームの4番は秋山かな」という時に清原和博(1986年入団)が加入し、森監督は清原を1年目から4番で使いました。それで秋山は3番になったわけですが、秋山にとっては気分がいいものではなかったはず。甲子園を沸かせた稀代のスラッガーが鳴り物入りで入ってきたのはわかるけど、40本塁打を打った翌年に、実績のない高卒ルーキーに4番を取られた。そういった憤りはあったんじゃないかと思います。

 私は秋山に、ときどき「お前は西武の看板選手であり、スター選手なんだ。だから、スターであるということをもっと自覚するべきだし、(打順についても)遠慮するところじゃない。スター然とした言動を取るべきだ」といった話をしました。そういう話をしたのは、秋山の立場と気持ちに"ズレ"を感じていたからです。

――石毛さんにそのように言われて、秋山さんの反応は?

石毛 先輩から言われることだから、「はい」といった返事だったと記憶していますが、彼にとってはその言葉も気分がよくなかったはずです。ちょっとした私の小言なので。ファンのみなさんも感じているかもしれませんが、秋山はしゃしゃり出るタイプではなく、「意見を求められたら答えます」といった感じですからね。

 ただ、秋山は西武の顔になる選手だと思っていたので、「それなりの言動があってしかるべきだろう」と思っていました。清原は名門・PL学園の4番であり甲子園のスターで、一方の秋山は無名高ということでバックボーンはまったく違う。でも、同じプロのチームでやる上ではそんなことは関係ないですし、私は「4番は俺だ」という気概を秋山に求めていました。先ほどの「"ズレ"を感じていた」というのは、そういうことです。

(後編:秋山幸二、石毛宏典らの移籍から始まったダイエー再建>>)

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