岸田今日子さんがハワイの首長に「この中で誰がいい?」 “女優3人旅” の珍道中

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2022年05月21日 16:10  週刊女性PRIME

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岸田今日子さん

 女優・冨士眞奈美が語る、古今東西つれづれ話。今回は、女子3人旅のいきさつについて振り返る。

 私と吉行和子と岸田今日子。

 女3人─。気ままな自由旅は、予期せぬ形で始まることになった。

 きっかけは、この連載でもたびたび登場する新宿三丁目の名居酒屋『どん底』のマスターである故・矢野智さん。彼は、スペインのマドリードにも店を構えていた。

 ある日、今日子ちゃんと和子っぺが、「行こうよ」と言い出した。

 このお店は、三浦友和さんと山口百恵さんが結婚前に旅行で訪れたり、スペイン国王夫妻も来店したことで知られている。国王がどん底に行く─、そんなジョークみたいなマドリードの名店に惹かれるところはあったけれど、私はどうしても行く気になれなかった。極度の飛行機嫌いだったのだ。

 といっても、根っからの、というわけではない。何度も乗ったことはあったけど、事故が相次いだことで、私はすっかり空の旅に臆病になってしまったわけ。さらには、昭和57年の「日本航空350便墜落事故」(「機長なにするんですか」の日航機逆噴射事故)によって、私の飛行機に対する苦手意識は払拭されるどころか増長するばかり。飛行機に乗らなければいけない場所には、金輪際行くことはないと思っていた。

 ところが─。『どん底』で話を切り出した2人は、どんどんと目を輝かせ始める。「これだけ生きたんだからいいじゃない。怖くないわよ」なんて和子っぺが言ったかと思えば、「私はマジョルカ島に行きたいわぁ」と、今日子ちゃんはまるでウシガエルみたいなトーンで、青写真を描き始める。「マジョルカ島のインク壺が欲しいの」と。なんでも父親である岸田國士先生の愛用品だったそう。

テレビ東京でまさかの番組化

「冗談じゃないわよ」。そう頑なに拒んでいた私だったけれど、最終的に「1年後に行きましょう」と手打ちをすることで、2人に納得してもらった。腹の中では、「どうせ1年後なんてうやむやになって忘れているはず」なんて高をくくっていたわけだけど、立ち消えになるといった雰囲気は一切なく、私はズルズルと旅行へと引きずり込まれ、2人はワクワクと計画を練り始める。約束から1年後。私は、あれだけ拒んでいた機上の人になっていた。

 だけど、行ってみると、これが楽しいのなんのって。気がつくと私たちは、スペインの風に吹かれながら「また行こう」と、次の旅先をあれこれと妄想し始めていた。恐怖に打ち勝つために、楽しさってあるんだろうな。

 その後、テレビ東京で番組化の話が持ち上がり、定期的に3人で旅をするようになった。友情の企業化。旅には一切の台本はなく、好きなようにさせていただいた。中でも台湾は印象深く、すっかり私たちは魅了され、その後も足を運ぶようになった。

 台湾には、小説家、俳人、歌人といくつもの顔を持つ黄霊芝さん(1928年―2016年)という人物がいた。台湾俳句会の会長でもあり、私と和子っぺは何度か招待されたことがあった。黄さんは、主に日本語で創作活動をするため、台湾俳句会へ行くと、あちこちから日本語が聞こえてくる。川柳を詠んでいる人もいれば、詩を書いている人もいる。台湾にいるのに、とても不思議な空間。正しい日本語を教えてくれる会でもあった。

 黄さんは、別れ際、必ず私と和子っぺに日本語の手紙をくれた。でも、和子っぺの手紙は、「吉行和子様 あなたは僕の宝庫です」なんて、完全にラブレター。「この差は何なのよ」なんて腹が立つやらおかしいやら。

 でも、私もハワイ島を訪れた際、村の首長さんから求愛されたことがある。首長は17人(!!)の孫がいるという。今日子ちゃんが「この3人の中で誰がいちばんいい?」と聞くと、迷いもなく私を指差した。2人はけらけらと笑って、「どうぞ差し上げますから」だって。思い返すときりがない珍道中ばかりだった。

ふじ・まなみ 静岡県生まれ。県立三島北高校卒。1956年NHKテレビドラマ『この瞳』で主演デビュー。1957年にはNHKの専属第1号に。俳優座付属養成所卒。俳人、作家としても知られ、句集をはじめ著書多数。

〈構成/我妻弘崇〉

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