「源平の合戦」明暗を分けたのは「食」!? 鎌倉武士の質素倹約とは

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2022年05月22日 08:00  AERA dot.

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写真政子を演じる小池栄子(右)と頼朝役の大泉洋(c)NHK
政子を演じる小池栄子(右)と頼朝役の大泉洋(c)NHK
 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が話題だ。武士の歴史というと何かと華々しい場面が印象に残るが、実際の当時の生活は、かなり地味だったようだ。


【写真】「鎌倉殿の13人」の場面カットを見る
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 鎌倉武士の生活は質素だった。その理由は「方丈記」にも書かれているとおり、大地震や飢饉が相次いだことにある。京の都は荒れ果て、遺体が放置されたまま。そんな時代背景で、東国に活路を開いた開拓農民である鎌倉武士は質素倹約が身についていた。


 歴史作家の加来耕三氏は「源平争乱期の主食は1日黒米(玄米)5合で、これを蒸して強飯(こわいい)にして、一汁一菜を添える程度。1日2食が一般的でした。将軍頼朝もそれは同じで、臣下らにも粗食を奨励していました。彼らが多少のぜいたくをするのは、正月と夏祭りのときくらいのものでした」と言う。


 加来氏はその一例として、「吾妻鏡」に描かれている椀飯を挙げる。椀飯とは正月に臣下のものが将軍を家に招いて饗応することだが、幕府の重鎮・千葉常胤が頼朝に献じたのはコイの一品料理だった。


 コイ料理は公家社会でも喜ばれたが、サケは「かく怪しきもの」(「徒然草」)として賤(いや)しまれていた。しかし、頼朝はサケを喜んで食べ、それを歌に詠んだという。




 戦の際には「干飯(ほしいい)」を戻して食し、「武士たちは野草でも山菜でも木皮でも何でも食べた。足りないたんぱく源として、戦場でシカやムササビ、タヌキを狩って食べ、ハチノコや昆虫のさなぎも食べていました。平家が敗れたのは貴族が好んだ精進料理ばかりを食べ、力が出なかったからという説もあるくらいです」(加来氏)。


 特に質素倹約が際立っていたのは5代執権・北条時頼だ。「徒然草」には、時頼が連署(執権の補佐役)の北条宣時と酒を飲んだ際、宣時が台所から味噌を見つけてくると、時頼は「事足りなん」と喜んだと書かれている。時の首相と大臣ともいえる2人のツマミとしてはあまりにも質素だろう。加来氏は「この時代の調味料はせいぜい、塩、酒、蓼酢(たです)、醤(ひしお)。味噌があれば十分でしょう」と言う。


「食」だけでなく「住」も「衣」も質素だった。


「住居はわらぶき屋根。男たちが自分で建てました。服も奥さんが機織りから作ったものを着るのが当たり前でした」(同)


 明恵上人の伝記によると、時頼の祖父・泰時は畳も古いものを取り換えず、衣装も新しいものは求めず、烏帽子(えぼし)は破れたものを着用していたという。たくましい時代だった。(本誌・鈴木裕也)

※週刊朝日  2022年5月27日号


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  • 平家が何を食べていたのか示さないと、ただの鎌倉武士贔屓だと思う。
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