無料のお惣菜がつなぐ「お助け相談所」、自身も家族問題やうつに苦しんだ店主の思い

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2022年05月29日 11:00  週刊女性PRIME

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写真上野敏子さん 撮影/齋藤周造
上野敏子さん 撮影/齋藤周造

 大阪の下町・庄内には、誰もが気軽に立ち寄れて、おなかも心も満たされる「居場所」がある。1つ100円の手作り惣菜は、20歳以下はすべて無料、店頭に並べたそばから消えていく人気ぶりだ。それを目当てに訪れたはずが、気がついたら自分の悩みを打ち明けている……そんな人たちが後を絶たない。家族問題に悩み、うつ病に苦しんだ過去を持つ店主・上野敏子さんの思いが詰まった、「お助け処」の物語とは―。

お惣菜は、話を聞くツール

 5月上旬だというのに、梅雨を先取りしたような曇天の朝9時30分。阪急宝塚線庄内駅にほど近い『ごはん処 おかえり』(以下、『おかえり』=大阪府豊中市)では、お惣菜作りが佳境を迎えていた。店主の上野敏子さん(53)は焼き飯を炒め、アジをフライにし、慣れた手つきでハンバーグをプラスチック製の容器に詰めていく。

 1日に作るお惣菜の種類は10品ぐらい。どれでも1つ100円とリーズナブル。それでいて、食の細い高齢者なら2食分はあるほどボリューミーだ。

 ボランティアを務める男性がホカホカと湯気が立つお惣菜の一部に“見本”と書かれたシールを貼り、店頭に並べる。そんな見本に誘われるように、路地裏の小さな店にお客が次々にやってくる。

 この日、最初に訪れたのは、買い物カートを押しつつ自宅から30分かけて歩いてきたという高齢の女性。唐揚げに焼き飯、コーンフライを手に取り代金の300円を上野さんに渡し、こう話す。

「スーパーにもお惣菜はあるけれど、防腐剤が使われているからね。でも、ここは手作りだし、熱々のできたて。なにより安いのがいい!」

 続いて現れたのは、自転車に乗ってやってきた女性(40)。

「上野さんのフェイスブックに“サイズ110センチ以上の子ども服が必要。余っている人は持ってきて”と書かれていて。それで、うちの子の服を持ってきました」

 女性はこう続ける。

「上野さんを通して、困っている人が身近なところにこんなにいるんだと知りました。ニュースでしか聞いたことのなかった貧困というものを、初めて具体的に考えられるようになりましたね」

 その後も入れ替わり立ち替わり、店を訪れる人の姿が引きも切らない。お惣菜を買うついでにひとことふたこと、上野さんと言葉を交わして去っていく大人もいれば、店の2階にある部屋で絵を描いたり、おやつを食べたりする子どももいる。

 この『おかえり』は老若男女を問わず、困りごとを抱えしんどい状態にある人たちの居場所にして相談所。数々のお惣菜は、安くておいしい逸品であると同時に「困っている人を店に呼び込み、話を聞かせてもらうためのツールなんです」と上野さんは言う。

 店の前をウロウロして入りたいのに入れない、わけあり風の人に対しては、上野さんがすかさす“どうしたん?”と声をかける。

「『おかえり』のSNSを見て来てくれたんやろうけど、声をかけると10人中、3人は逃げちゃう」(上野さん)

 “逃げちゃう”人たちは切実な事情を抱えている。100円のお惣菜を買うのに躊躇するほど生活が苦しい。困っているけれど、どこへ相談すればいいかわからない。特に最近、そうした若い人が増えていて上野さんは気がかりだ。

 夕方6時半になると、売れ残ったお惣菜3品を1パックにまとめて、店頭に並べていく。この時間帯のお惣菜は、すべて無料で持ち帰ってOKというから驚かされる。

「お惣菜はあえて余るように作っています。だから、黙って持って帰ってくれていいの。でも私、しゃべるのが大好きだから、話を聞かせてほしいわあ!」

 ボランティアの男性が店頭に並べると、どこからともなく人が現れ、20パックはあったお惣菜が瞬く間に消えていく。1人で2〜3パックを持ち帰る人や、毎日のように足しげく通う人も。近所に住む男性(66)も、そんなリピーターのひとり。

「ここの惣菜はおいしいよ。何回も利用してます。上野さんには行政の担当者と話をするとき、間に入ってもらったこともある。ああいうときは女性のほうがええねん。担当者の対応が違う」(男性)

 上野さんによれば、男性は生活保護を受けながら時折、働いて暮らしている。生活保護の利用者には“行政不信”の人が少なくないという。

「(福祉事務所の対応がまずくて)嫌な思いをしたり、(担当者に対し)乱暴な口調になったりする人もいます。だから私が間に入ると、対応がスムーズになるんです」

 役所の窓口に一緒に出向いてサポートする“同行支援”を行うことも頻繁にある。筆者たちが取材をしている間にも、上野さんの携帯電話にはLINEや電話でのSOSが飛び込んできた。

 そんな上野さんだが、かつては「福祉に頼るなんておかしい。そんなの自己責任、と思っていたクチだった」と話す。いったい何が彼女を変えたのか。波瀾万丈な人生を追いかけ、ひも解いていきたい。

ミナミのホステスから看護師に転身

 上野さん自身、若いころはしんどい状態にあった。1987年、19歳のときに大工見習いをしていた2歳下の男性と入籍した。10代で結婚に踏み切ったのは、切実な理由があったからだ。

「うちの家庭環境が悪すぎて。私が稼いだお金を渡すように言われ、渡さないと暴力を振るわれる。いわゆる毒親だったんですよ。そんな実家から逃げようと思ったときにつかんだのが、結婚だった」

 夫は落ち着きがなく、こだわりが強くて、何かあれば黙り込んでしまうタイプ。それでも夫を支え続け、結婚した翌年には長男が誕生。さらに翌々年に次男が生まれ、次々と子宝に恵まれた。

 1992年、長女の千草さんが生まれる直前のこと。出産準備で実家に帰っていた上野さんが健診用紙を取りに自宅へ戻ると、洗濯物が整然と干され、家の中が妙にきちんと片づいている。家事は上野さん任せだった夫が、こんなふうにきれいに保てるはずがない。

「見なかったことにしようかと思ったけれど、近所のおばちゃんがわざわざ教えてくれたの。“あんたの友達の女の子、ずっと来てたんやで”って(笑)。それで長女が1歳になる前に別れました。まぬけな話だけど、浮気相手は私の親友だったんです」

 シングルマザーとなった上野さん。やむなく実家に戻り子どもを両親に託して、大阪きっての歓楽街・ミナミのサパークラブでホステスとして働き始める。ところが悪いことは重なるもので、ギャンブル依存だった父親の悪癖に拍車がかかった。負けが込んで家で暴れる父親を見て、長男はおびえ、次男には吃音が出るようになってしまった。

「元夫に電話して“とにかく子どもたちを1週間、預かってほしい”と頼んだんです。快諾してくれたけど、これが息子たちとの“最後の別れ”になってしまった。それっきり会えていないんです」

 元夫には息子たちを強引に引き取る思惑があったのだ。取り返したかったが、乳飲み子の長女を抱え、父親の暴力にも悩む上野さんに裁判を起こす余裕はなかった。

 以来、上野さんはミナミでのホステス業を本格化していく。持ち前の明るさで人気を集め、売れっ子になるまで時間はかからなかった。収入も跳ね上がり“給料袋が(分厚いことで)テーブルに立つ”状態に。生活は派手になり、気に入った洋服は値札を見ることもなく買い漁った。

 1995年、27歳のころ。千草さんの保育園で親の職業について話す催しがあった。

「千草から“お母さんの仕事って何?”と聞かれたんです。出かけるときはすっぴんなのに、きれいに化粧して帰ってくる。それで“どんな仕事なんだろう?”と思ったんやろうけど、言えなかった。私がやっていたホステスはひと言でいうと、“男をだまくらかす仕事”(笑)。そんなの子どもに言えない。それでスパッとやめました」

 この先どうしようかと考えながら大阪の副都心・江坂を歩いていると、“看護助手を募集”と書かれた張り紙が目に留まった。しかも“資格不問”とある。

「よっしゃ、これならいける!病院勤めなら、子どもも保育園で言える。そんな単純な理由で、看護助手の仕事に飛び込んだんです」

 当時、看護助手の月給は手取りで12万円ほど。テーブルにドンと立つほどだった給料袋は、情けない状態で寝そべった。「顔が生意気だから」という理不尽な理由で、先輩たちからいじめにも遭った。

 それでも頑張り続ける上野さんに、看護婦長が声をかけてきた。「看護学校を目指して頑張れへん?助手で終わるのはもったいないよ」と─。そこで看護学部のある短期大学に入学。夜勤を続けながら昼間は大学に通い、看護師の資格を取得した。

 看護師となってからは、精神科の急性期病棟で働き始めた。ここで上野さんは、さまざまな疾患を抱える患者に出会う。

「出産を終えたばかりのお母さんが、全裸の状態で運び込まれてきたんです。子どもを手渡され“私の子じゃない!こんな子いらない!”と、パニックを起こしていました」

 こんな世界があるとは……、衝撃を受けた。

「認知症の女性が入院したとたん、金属製のベッドを壊しながら“ここから出せ!”と叫び、暴れたこともありました。でも症状が落ち着くと、温厚でかわいいおばあちゃんに変わる。人間の極限の姿を見せてくれる病棟で、興味が尽きなかった。人が変化していく様子は、私にとって最大の好奇心(の対象)なんです

 看護師として中堅になった2005年、上野さんはホステス時代に知り合った銀行員と再婚した。2人の間に'10年には長男が、'14年には次男が誕生。はた目には順風満帆に映るが、上野さんは新たな苦難に見舞われていた。

うつ病を引き起こした「毒母」の暴言

 2014年に誕生した次男は重度のダウン症だった。のちに、長男にも発達障害があることが判明する。

「ちょうどそのころ、父親が脳梗塞で倒れて、介護のため実家に戻ったんです。これがそもそもの間違いやった。下の子に重度障害があることを知った母から“あんたみたいな子は、あんな子(障害のある子)しか産めへんねん”と言われたんです」

 母親の暴言にショックを受けた上野さんに、夫の言葉が追い打ちをかけた。

「次男は心臓にも疾患があって、医者から“あと1年、生きられるかどうか”と告げられたんです。すると夫は“それなら早く死ねばいいのに……”と。そう聞いて生まれた夫婦の溝は、いまだに埋まっていません。“この子は私が守らなあかん”と思った」

 度重なるショックのため、うつ状態に陥った上野さん。ストレスが原因とされる突発性難聴も発症した。

 こうした心身の不調から勤務先の病院を退職したが、体調はよくならない。食欲はまったくなく、眠れない。母親の前ではストレスで過呼吸を起こした。死にたい気持ちにとらわれ、子どもたちの前でも口をついて出る。

 この時期、うつ病で苦しむ上野さんを支えたのは、長女の千草さんだった。

「本格的に弟たちの面倒を見始めたのは、大学3回生のときでしたね」(千草さん)

 うつで育児ができない上野さんに代わり、朝目覚めたら弟たちを着替えさせ、朝食を食べさせ、学校に送り出す。夜も夕食を作って食べさせ、弟を風呂に入れ寝かしつける。その合間に上野さんのケアもしなければならない。

 千草さんが述懐する。

「母は自殺願望が強いとき、“生きていてもしょうない”と包丁を握り締めたり、コップの破片を手首に当てたりしていたんです。“人目が怖い”と言って、弟の保育園の送迎もできませんでした。今は誰が見ても“元気で明るい母”って感じだと思いますけど、まるで違っていましたね」

 家族の世話に追われた千草さんは就職活動もままならず、大学も半期遅れで卒業せざるをえなかった。あのころを思うと、上野さんは申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

「『おかえり』にやってくる学生ボランティアは生き生きと、楽しそうにしています。でも、同じころに娘がどうだったかというと、授業に出て単位を取ることさえ難しい。楽しいことを何ひとつやらせてあげられなかった……」

 そんな母の言葉に、娘の千草さんは「後悔はない」と言い切る。

「私の大学時代はキラキラしたものではなかったけれど、全く悔いはないんです。今は結婚して、子どももできて幸せですし、これからのことをいちばんに考えています」

 当の上野さんも涙をぬぐうと、こう語り始めた。

「思い出すと泣けてくるんですけど、起きたことは起きたこと。振り返ったところで変えられない。そう思わないと、前に進めないんで……」

ばっちりメイクでホームレスに炊き出し

 うつ状態から徐々に回復してきた2015年5月。上野さんがテレビをつけると、ホームレスへ炊き出しをする様子が映し出された。

「支援者と野宿者のおっちゃんたちが、友達同士のように話していました。それを見て“おもしろそう。私も話してみたい”と思ったんです」

 持ち前の好奇心が再び、ムクムクと頭をもたげた。こうなると上野さんは行動が早い。翌日にはホームセンターでプラスチックケースを購入、パンやバナナを積んで、友人と一緒に扇町公園へ出かけた。

 日本一長いアーケード街・天神橋筋商店街の近くにある扇町公園には、当時、多くの人たちが野宿をしていた。その支援を思い立ったのだ。

 志こそ立派だったが、服装がまずかった。スーツ姿で化粧はバッチリ、足元はヒール靴と場違いな格好。毎日通ったが、誰も何も受け取ってくれない。ところが通い続けて3週目、変化が表れ始めた。

「ホームレスのおっちゃんたちの目が笑っているの。ある日、ついにしゃべりかけてくれた。“ねえちゃん、どこの店の子?”って(笑)。ホステスと思っていたんやね」

 4週目になるころ、大阪は梅雨に突入した。蒸し暑くてスーツなど着ていられない。ジーンズをはいて首からタオルを垂らした格好で行くと、パンを受け取ってくれた。

「やった!と思った。おっちゃんから“よう諦めんと来たね”と言われました」

 やがて炊き出しで配る食事は、パンとバナナから手料理にパワーアップ。上野さんと一緒にホームレス支援を行っていた友人・松中みどりさんが振り返る。

「敏子さんはお料理が上手で、おにぎりやおかずを何種類も作って持参するように。“どうしても温かいものを食べさせたい”とスープや味噌汁を配ることもありました。そうするうちに評判を呼んで、多いときには70人もの人が集まるようになったんです」

 炊き出しを通して出会ったホームレスの中に、今なお忘れられない人がいる。2011年3月11日の東日本大震災で被災し、家も仕事も、家族もすべて失ったという男性。

 口を開けば“死にたい”とこぼし、上野さんが食事を差し出しても、けっして受け取ってくれなかった。

 ところがある日、カレーを振る舞っていると、男性が初めて反応を示したという。

「“今日は何や?”と聞かれて。“カレーやで”と言うと“欲しい”って。手渡すと、がっつくように食べ始め、2杯目が欲しいと言う。3杯目になると、そのおっちゃん、泣いているんです。

 “どないしたん?”と聞くと、“これ、うちの味だ”って。家で作っていたカレーは、子どもが『バーモントカレー』の甘口でなければ食べなかった。その味と同じだと言うんです。3杯目を食べ終えると“とりあえず明日、頑張ってみるわ”と言ってくれました」

 いっさいのサポートを拒否していた男性が、温かいカレーを差し出されたことで変わったのだ。食べ物が持つ力を実感した出来事だった。

「それ以来、“おなかがすいたら、ここにおいで。しんどい人はここに食べにおいで”というのが、私の活動の中心軸になりました。誰かのためにやるという気持ちは、今も昔も基本的にないんです。私は好奇心が強くて“この人、なんで困っているんだろう”と、ただ知りたくて。私自身がしゃべりたいだけなんよ」

 炊き出しをすることで、うつから解放されたわけでも、身体の不調が治ったわけでもない。だが、上野さんの中で進むべき道が見え始めると、少しずつ心に灯りがともるようになっていった。

シングルマザーの思いをのせて開店

 2016年、ホームレス支援を続けていた上野さんは、1本の映画と出会った。

「大阪・釜ヶ崎の『こどもの里』に密着取材したドキュメンタリーでした」

 日雇い労働者の街として知られる釜ヶ崎(西成区)に、長年にわたって子ども食堂やくつろぎの場を提供する活動を続けるNPO法人『こどもの里』がある。その活動を紹介した映画だったのだ。

 私も子ども食堂をやりたい─。地元の社会福祉協議会に相談すると、偶然にも上野さんの自宅近くの地域で、子ども食堂を開いてくれる人を探しているという。早速、豊中市内にある図書館を会場にして2017年、子ども食堂『たかがわみんなのひろば』をオープンした。

 食堂を訪れる子どもたちにはシングルマザー世帯も多かったが、当のママたちに話を向けてみると、意外に評判は悪かった。

「“子ども食堂?私は働いているし、かわいそうな親子じゃない。そんなふうに私たちを見てほしくない”って─。実は、この前年ぐらいからメディアが子どもの貧困を頻繁に取り上げだして、それに伴い子ども食堂のことも報じるようなったから、そのイメージが定着してしまっていたんですね。

 ただ、私に話してくれたシングルマザーの彼女は、仕事を3つもかけ持ちしていて、限界にきていることは明らかでした」

 母子支援の必要性を痛感し始めていたころ、マグニチュード6・1を記録した大阪府北部地震が襲った。限界近くまで働いているシングルマザー世帯に食料を備蓄する余裕などあるはずもなく、“買い置きがまったくない” “どうしよう?”という不安の声があがった。

「その夜のうちに、私がフェイスブックで“物資をくれ”と呼びかけたんです。すると翌日から来るわ来るわ……」

 全国からの善意が殺到。4トントラック2台が自宅に横付けされるほど大量で、ガレージに提供された物資を積み上げたが、それでも置く場所が足りない。上野さんはPTAのLINEグループに“困っている人は誰でもいいから取りに来て!”と投稿した。

 非常時であることが善意の受け取りやすさにつながった。シンママから高齢者、被災者までさまざまな人300人が集まり、物資は瞬く間にはけていった。

 これをきっかけに上野さんは翌年9月、シングルマザーを支援する団体『シンママ応援団とよなか』を設立。地震のときにやりとりをしたシングルマザーたちのグループLINEを作り、当たり障りのない話をすることから始めた。すると“うちは大丈夫”とそっけなかった人も、親しくなるにつれ、ぽつりぽつりと話をしてくれるようになった。

 そのうちのひとりである、シングルマザーの言葉が上野さんの心を捉えた。

「子どもの面倒を見ながら食事を作って、まずは子どもに食べさせて、食い散らかしたあと、冷め切ったものを自分が食べる。疲れ切ったときにそれをやっていると、すごくみじめな気持ちになってしまう、と─。だったら、ママがごはんを食べるときに子守りをしてくれて、温かいものは温かいうちに食べられる場所を作ったらいいんと違う?と思ったんです」

 こうして2019年9月、食堂兼支援拠点として、上野さんの地元・庄内に『おかえり』が誕生した。

あえて子ども食堂と名乗らなかった理由

 オープンした当初、『おかえり』ではお惣菜だけでなく680円のランチも売り出し、20歳以下の人には無料で提供していた。そのように子どもへの支援をしながら、店名にあえて“子ども食堂”と入れなかった理由について、上野さんはこう説明する。

「子ども食堂と名づけたら、貧困のイメージから行きづらい人も出てきます。それに、子ども食堂には国や自治体からの助成金が出る一方、子どもの親や高齢者、地域外の人が利用できないといった制約が生じてしまう。そのせいで、しんどい人が排除されるのは嫌だったんです」

 誰も排除しないための工夫は、ほかにもある。手持ちのお金がない人は、店頭に張り出されたクーポン『お福分け券』を使い、ランチを食べることができた。これは、『おかえり』を支援したい人がお福分け券を1枚500円で購入し、ランチ代を肩代わりする仕組み。現金以外の方法で支援できるとあって評判を呼んだ。

 シングルマザーの就労支援を行う佐々木妙月さんは『おかえり』が開店する前、物件探しをするところから協力してきた。庄内で最初に子ども食堂を開くなど、母子支援に長年尽力してきた佐々木さんは、上野さんにとって頼もしい先輩でもある。

「豊中市は北部が高級住宅街、庄内のある南部は下町で、同じ市内でも経済格差が大きい。特に南部は生活保護の利用者やシングルマザーが多く、ひとり暮らしの高齢者も増えています。上野さんが『おかえり』でやっている老若男女を問わない支援の形は、そうした庄内の土地柄に合っている。どれだけの人が恩恵を受けていることかと思います」(佐々木さん)

 2020年の暮れには、上野さんを驚かせるようなことが起きた。

「スマホにかかってきた電話に出たら、“『ハイアットリージェンシー大阪』と申しますが”と言うんです。だから“違います”と言って切ったの。一流ホテルがうちに連絡してくるわけがない、いたずら電話や、と思って」

 いたずらでも間違い電話でもなかった。上野さんの取り組みを知ったホテル側が協力を申し出てくれたのだ。2021年から月1回、四つ星ホテルの副総料理長が作る無償のお弁当が『おかえり』で振る舞われるようになった。

 企業からの支援だけではない。炊き出しをしていたころのつながりで食材を提供してくれる団体をはじめ、さまざまな形で応援してくれる人々が『おかえり』に関わっている。そうしたボランティアの数は学生から弁護士まで、100人をゆうに超える。活動資金を支援するサポーターも250人を突破した。

 取り組みが注目され、支援の輪が広がること自体は素晴らしいと思う。と同時に、上野さんはこうも考える。

「私たちの取り組みは本来、政治がやるべきこと。『おかえり』や子ども食堂のような“共助”を隠れ蓑にしないで、国は生活保護を受けやすくするなど“公助”を手厚くして、責任を果たしてほしいです」

 生活が苦しかったり孤立していたり、しんどい思いをしている人たちにコロナ禍はさらなる打撃を与えた。彼らを支える『おかえり』も、その影響から無縁ではなかった。

「コロナ禍で食堂を経営するとなると、パーティションなどの設備投資が必要。でも、そこにお金をかけるぐらいなら、持ち帰り専門にしようと方向転換したんです」

 以前から、余った料理や売れ残りのお惣菜で出る『フードロス』は気がかりだった。

「余った料理をパック詰めして店頭に並べてみたら、持ち帰る人が多くて。それで気をよくして、お惣菜の無料提供を本格化させるようになりました」

『おかえり』がオープンして間もないころから、上野さんの活動に注目してきたメディアに『人民新聞』がある。市民記者の木澤夏実さんは、取材で訪れたのをきっかけに今も交流が続いている。

「『おかえり』には食材だけでなく、(配布用の)カイロや大人用の紙おむつ、子どものおもちゃが置いてあったりする。それを見て、ここはただの食堂ではなく“ごちゃまぜのお助け場所”なんだと思いました。

 上野さんがすごいのは、すべてをひとりでやらないところ。ここ以外にもネットワークがあって、自分だけで抱えようとしないで、周りの人たちに声をかけるんです。意外とできないことだと思います」(木澤さん)

誰も排除しない、ごちゃまぜ社会のために

 5月15日の日曜日。定休日の朝なのに、上野さんは『おかえり』にいた。主催するイベント『庄内こども縁日』の本番を迎え、大人に無償で提供する100食分の弁当を用意するためだ。イベント会場の庄内神社までは徒歩10分強。上野さんは『おかえり』と行ったり来たりで忙しい。

「こんなに集まってくれるとは思わなかった。特に小学校の校長先生が来てくれたのは大きい。今後、気がかりな子どもがいたときに情報交換をしたり、連携を取ったりしやすいからね」(上野さん)

『こども縁日』と銘打ってはいるが、会場は老若男女がごちゃまぜで、いかにも『おかえり』主催のイベントらしい。

「学校でもらったチラシを見て来ました」と言うのは、小学生の息子を連れた40代の女性。孫と一緒に訪れた男性は「ここ数年、コロナでお祭りも中止になっていたから、地域でこういう催しがあるのはうれしい」とほほ笑む。

 綿あめ、焼きそば、フランクフルトに射的、バルーンアート……境内にはさまざまな出店が並ぶ。これらはすべて有志によるボランティアが手がけている。

「上野さんのフェイスブックを見て、今日のイベントを知りました」

 そう話すのは大学4年生の陣内巧さん(21)。手形のペインティングをしたり、折り紙をしたり、子どもたちと一緒に楽しめる巨大アートの作品づくりを企画した。

「大阪だけでなく、兵庫や滋賀など関西の各地域から集まった大学生が20人ほど参加しています」(陣内さん)

 学生たちばかりではない。この日もハイアットリージェンシー大阪が子どもたちに無償のお弁当を提供、サンリオやパソナといった有名企業もイベントに協力していた。国連の定めた持続可能な開発目標『SDGs』が叫ばれる昨今とはいえ、地域のお祭りとは思えないほどの注目度だ。

 前出・佐々木さんは、その秘訣をこう分析する。

「上野さんはよく“妄想劇場”って言うんですよ。こうなったらいいなという妄想を言葉にして、周囲に話すんです。おそらく『庄内こども縁日』も妄想劇場から始まったんじゃないかな」

 妄想を言葉にすると、それに共感する人や、情報を持つ人も現れるようになる。

「周囲を巻き込むと、妄想が現実の形になっていく。そんな求心力が上野さんにはあります」(佐々木さん)

 母親としての思いが原動力になっていると語るのは、前出の松中さん。

「お母さんって、自分の子どもに食べさせなきゃって思うじゃないですか。でも敏子さんは、ホームレスのおっちゃんでも、シングルマザーでも、自分のところに来てくれた人はみんな、おなかいっぱい食べてほしいと思っているんじゃないかな。そういう気持ちが人より強いのでしょうね」

『おかえり』を拠点に、精力的に活動を続けてきた上野さん。今後について尋ねると、こんな言葉が返ってきた。

「子ども支援からスタートして、コロナ禍では生活が苦しい大人たちも店に来てくれるようになりました。お惣菜の持ち帰り専門にしたら、発達障害を思わせる若者が多く訪れるようになり、彼らの受け皿がないこともわかってきた。そんなふうに『おかえり』は訪れる人と支援のニーズによって、今後も姿を変えていくのだろうと思います」

〈取材・文/千羽ひとみと本誌取材班〉

 せんば・ひとみ フリーライター。神奈川県横浜市生まれ。企業広告のコピーライター出身で、人物ドキュメントから料理、実用まで幅広い分野を手がける。『キャラ絵で学ぶ!地獄図鑑』『幸せ企業のひみつ』(ともに共著)ほか著書多数。

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