「ナパーム弾の少女」の自由を求めた物語 知られていないカナダ亡命までの20年

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2022年06月25日 11:30  AERA dot.

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写真「ナパーム弾の少女」の写真から50年の節目に、米ニューヨークでのイベントに登壇した被写体のキム・フックさん(右)と、撮影者のニック・ウトさん(左)。中央は、レ・リエウ・ブラウンさん/6月6日、藤えりか撮影
「ナパーム弾の少女」の写真から50年の節目に、米ニューヨークでのイベントに登壇した被写体のキム・フックさん(右)と、撮影者のニック・ウトさん(左)。中央は、レ・リエウ・ブラウンさん/6月6日、藤えりか撮影
 ベトナム戦争末期の1972年6月、子どもたちがナパーム弾を浴びた直後をとらえた写真は世界に衝撃を与えた。写真は有名である一方、被写体の女性が自由を求めてもがいた長い道のりはほとんど知られていない。AERA 2022年6月27日号から。(前後編の前編)


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 6月6日夕、米ニューヨーク・マンハッタンの写真美術館「フォトグラフィスカ」に、米国人ら約100人が集まった。あの写真から50年の節目に、戦争・紛争の写真報道の意義を考えるイベントが開かれたのだ。


 スクリーンに、粒子の粗いモノクロ写真が映し出された。中央で、裸の少女が必死に叫び、奥の兵士の背後で黒煙が立ち上る。日本の教科書にも載り続けている有名な写真だ。


 それを背に壇上に座ったのは、この写真を撮った元AP通信写真記者ニック・ウトさん(71)、そして、鮮やかなオレンジ色のアオザイをまとった被写体のキム・フックさん(59)。さらに、ロシアによる侵略が続くウクライナの取材から戻ったばかりの現代最高峰の戦争写真家、ジェームズ・ナクトウェイさんをはじめ、名だたる写真記者らが並んだ。


 まずニックさんが、当時の状況を説明した。


「上空に飛行機が飛んできて、四つの爆弾を落とした」「逃げ出す人たちの写真を撮っていると、裸の少女が駆けて来るのが見えた。大火傷を負い、生きているのが信じられないほどだった」「彼女をAPのバンに乗せて病院へ連れて行き、渋る看護師を説得して託した」


 ニックさんはさらに、砲撃で破壊されたサイゴン郊外の自宅跡で立ち尽くす女性を撮った、1973年の別の写真も紹介した。するとナクトウェイさんが、ウクライナで破壊されたアパート前に佇む女性を撮った自身の写真を映し出し、言葉を継いだ。「ニックの写真にあるのは、まさに今ロシアがやっていることと同じだ」「戦争で最も被害を受けるのは、市民だ」


 この日のイベントの、まさに核心と言える訴えかけだ。




 軍事大国・米国は、いわゆる反戦の主張には忌避感が漂いがちだが、それでも、非戦闘員の犠牲には悲嘆の声が寄せられる。メディア大国として、その報道にも共感が集まりやすい。


 キム・フックさんは、そうした点を体現してあまりある存在だ。だからこそ、この四半世紀、各地の講演で引っ張りだこで、米メディアも多く取り上げてきた。


ジャーナリズムの「勝利」
勢いづいた反戦運動


 冷戦下、「ある国や地域が共産化すればドミノ倒しのように共産主義が広がる」とする「ドミノ理論」を根拠に米国が介入したベトナム戦争は、戦果を誇りたい軍部が取材をおおむね許可し続けた結果、歴戦のジャーナリストが相次ぎ現地入りし、迫力ある戦闘シーンを写真や動画で報じた。


 それでも、最も弱い存在である子どもが被弾した決定的なショットはそうそう撮れたわけではない。結果、「ナパーム弾の少女」の写真は、米国が初めて敗北した戦争で、米ジャーナリズムがいわば「勝利」した例となる。反戦運動の強力なツールとしても機能してきた。


 記者はキム・フックさんやニックさん、関係する方々を10年ほど前から取材し続け、あの写真から50年となる今年6月8日、『「ナパーム弾の少女」五〇年の物語』(講談社)を上梓した。その目から見ると、米国で彼女を招聘する人たちは大きく三つに分けられる。一つは今回のようなジャーナリスト、とりわけ写真記者。もう一つは、彼女が82年に帰依したキリスト教の信者たち。さらには、ベトナム戦争を経験した米退役軍人だ。


 ただ多くの場合、「あの瞬間に何が起きたか」「あの写真が戦争終結にどんな役割を果たしたか」といった観点が中心となっている。時に、世界の子どもたちを助けるため彼女が立ち上げた財団の活動もテーマになったりするが、あの日以降も続いた彼女の激動の半生の詳細に焦点が当たることは、少ない印象だ。


 イベントでも、こんな一幕があった。


 司会の男性が、壇上のキム・フックさんにこう投げかけた。「あの(写真の)後、カナダに亡命したんですよね」。彼女は首を振り、「すぐ後ではありません。それは長い物語です」。


 彼女の亡命譚の詳細はやはり米国でもよく知られていない、と改めて思った。



 彼女の言葉通り、それは実に「長い物語」である。カナダでようやく決死の亡命を敢行したのは92年10月15日、あの写真から20年も後のことだ。


 ベトナム戦争では、米軍撤退を経て北ベトナムの勝利が近づくにつれ、南ベトナムの人たちが相次ぎ国外をめざした。75年4月の「サイゴン陥落」に際しては、多くの南ベトナム人が避難船に我もと乗り込み、米軍ヘリに追いすがった。戦後、南ベトナムが地図から消えて社会主義体制の新生ベトナムに組み込まれてからも、カンボジアとの戦争による砲撃や、「再教育キャンプ」送りへの恐怖、急速な社会主義化による極度の物不足と貧窮などから逃れようとする「ボートピープル」が数多く出た。


 ほとんど知られていないが、キム・フックさんも実は16歳だった79年、苦しい暮らしに絶望するあまり、両親にも言わず、「ボートピープル」として国外脱出を3回試みたことがある。いずれも海辺で当局に見つかったりして断念した。86〜92年にベトナム政府派遣でキューバに留学した末期には、確信犯的にメキシコに旅に出て、「何とか米国境を越えて逃げられないか」と模索したこともある。


 そうして「体制からの脱出」をついに完遂したのが、東側の大国・ソ連も崩壊した後だったとは、多くの人は想像もつかないのではないか。


 それは、彼女がいかに長くもがいてきたかの表れである。米ジャーナリズムがあの写真の「成果」にいわば祝杯をあげ続けた一方で、彼女はあの写真に、様々な形で苦しみ続けたのだ。(朝日新聞記者・藤えりか)

※AERA 2022年6月27日号より抜粋



『「ナパーム弾の少女」五〇年の物語』(講談社)
 ベトナム戦争末期の1972年6月8日、ナパーム弾を浴びた少女の写真は戦争の残酷な現実を世界に伝え、反戦のうねりを巻き起こした。だが、被写体の女性がその後、いかに激動と苦難の人生を送ったかはあまり知られていない。本人や関係者に取材を重ね、「その後の50年」を仔細につづったノンフィクション。ウクライナなどで戦争被害者が増え続ける今こそ。


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