「“なかったこと”にされていた痛みを治したい」真っ赤な口紅と赤縁めがねの女医YouTuberの挑戦

2

2022年06月26日 10:00  週刊女性PRIME

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

週刊女性PRIME

機械を使用して診察する富永さん。同クリニックには最先端の機器もそろっている 写真/北村史成

「痛み」の治療に特化した『富永ペインクリニック』。頭痛、腰痛、関節の痛みはもとより、全国でも珍しい性交痛外来のオンライン診療も実施。県内外から多くの患者がアクセスしている。だが、その歩みは決して平坦なものではなかった。「私は常に戦っている」そう話す眼差しの先には貧困や暴力、地域格差により“なかったことにされてきた多くの人たち”の痛みがあった。

心と身体の「痛み」に向き合う女医YouTuber

 真っ赤な口紅と赤縁メガネの女性、刺激的な文言が印象的なYouTubeチャンネルがある。

 発信するのは富永喜代さん、愛媛県松山市にある「富永ペインクリニック」院長だ。

「私はいつも挑戦者ですね。誰もなし得なかったことをする。そして、それを恐れない」

 そう語る富永さんのYouTubeチャンネル『女医 富永喜代の人には言えない痛み相談室』のチャンネル登録者数は17万人超え、総再生回数は3200万回にも及ぶ。著書の発行部数は累計62万部でテレビタレント顔負けの『インフルエンサー』だ。

 同チャンネルで取り上げられるのは、男女の性愛や性交痛、勃起障害、更年期障害など、性にまつわるものが多い。

「エッチな動画を投稿しているのも、実は狙いがあるんです」(富永さん)

 その真の狙いこそ、本稿で明かされる富永さんの医師として、人としての志に深く関わっている。

 かねて富永さんが行きつけの松山市内にある中華料理店『門福』の門田勇店長(50)は次のように語る。

「まさか地元からYouTuberが生まれるとは、思ってもみませんでした(笑)。富永先生の動画は一見エッチですが、実はものすごくまじめで勉強になる。医学的な話もとてもわかりやすいんです」

 YouTube動画の編集業務を担う富永ペインクリニックのスタッフ、大森英子さん(48)もこう述べる。

「院長からYouTubeチャンネルを開設すると告げられたのは、2020年5月のこと。もちろん2人とも動画配信なんて素人。二人三脚で手探りでやってきました。動画のタイトルに驚く人もいますが、動画での先生の姿は普段と全然違います(笑)」

 一体どういうことなのか。

「私、普段はほとんどすっぴんなんです。そもそも50歳を超えるまで化粧もしたことなければ、数年間、美容院に行かないこともありましたね。ただひたすら医師として、また富永ペインクリニックの院長として一点突破でやってきた。これが私の半生ね」

『ペインクリニック』の「ペイン」とは英語で「痛み」のこと。ペインクリニックとは、痛み治療を専門にする病院だ。具体的には、頭痛、肩こり、首痛、肘痛、腰痛、膝痛、手足の指痛などの痛みにブロック注射や内服薬などのアプローチで治療を行う。

 日本でのペインクリニックの歴史は、1962年に東京大学医学部麻酔科外来に端を発するといわれている。その歴史からペインクリニックの医師には、麻酔科出身者も多く、富永さんもそのひとり。

「手術で麻酔をしないことなんてありませんよね。麻酔科は、外科から内科、呼吸器科、産婦人科、ときに救急外来までどんな分野にも対応して、患者さんの全身の状況を把握しないといけない。私も勤務医時代には、456gの超低出生体重児から104歳の高齢者、ときに一流プロスポーツ選手の手術まで2万人以上の手術に立ち会ってきました」(富永さん、以下同)

 その豊富な臨床実績で培った的確な診断によって、一命を取り留めた人も少なくない。

「先日は、左肩の痛みを訴えた男性が実は心筋梗塞でした。また頭痛を訴えた患者が脳卒中だったことも。がんの痛みも打撲の痛みも『痛い』という言葉は同じですが、その人がなぜ痛いのかを的確に見極める、その“目”を養うために、その目的以外のものを捨ててきたんです」

 痛みの先に重大な病気が潜んでいることもある。それを見つけ、判断できるかは、医師の資質にかかっているのだ。

 富永さんの営むクリニックでは、患者は1階で診察やブロック注射などの治療を受け、2階では鍼灸治療などの東洋医学の治療を受けられる。さらに最新のフィットネス機器が並ぶ3階のジムでは、マシントレーニングに加えて、ヨガやピラティスのレッスンも受講できる。

 この痛みへの多角的なアプローチは、「痛みのワンストップ治療モデル」として経済産業省が公募した「平成26年度健康寿命延伸産業創出推進事業」にも採択された。いわば国からの“お墨付き”事業ということだ。

「痛みを積極的に緩和して健康寿命を延ばして、不必要な医療費や薬の費用を抑えることは国の医療費の削減にもつながる構想です」

 そんな富永さんの日常の様子を前出の大森さんは次のように明かす。

「この構想に限らず、院長は、常に新しいアイデアを生み出している人。普段の口癖は“負けるもんか!”。隣でパソコンを打っていると思ったら突然、“頑張れキヨちゃん!”と言い出すことも。常に自分と戦っているのが、伝わってきます」

 そんな富永さんを頼って通院していた患者からの手作りのお礼の品が院内には飾られている。

「手指が痛くて諦めていた趣味のかぎ針編みができるようになった」という患者から贈られた美しいレース編みやちりめん細工の品もあった。痛みを抱えてきた患者の回復の喜びが直に伝わってくるようだ。

 凄腕の臨床医で経営者でインフルエンサー。その華やかなイメージは、まるでスーパーウーマンのよう。しかし、その道のりは、けっして平坦ではなかった。

11坪の家に7人で暮らす。漁師町の片隅に

「へき地の漁師町、11坪7人家族育ち」。富永さんは、自身の出自をそんな言葉で語る。

 富永さんの出身は徳島県の最東端に位置する阿南市椿泊(あなんしつばきどまり)町。ハモ漁が盛んな人口600人ほどの集落だ。

 '67年、地元の漁協に勤める父と専業主婦の母の間に、3人姉弟の長女として生まれた。

「町の人はすべて顔見知り。どこそこの子は足が速い、あそこの嫁さんはナントカ町から来とるとか、お互いのことは常に丸わかり。たとえいじめっ子がいても、地域の大人がみんなでなだめる。貧しいけれどみんなが支え合っている、そんな場所でしたね」

 しかし小さな漁師町の生活には、負の側面もあった。

「酔っ払った漁師のおじさんたちが殴り合いのケンカをするのは日常茶飯事。ときに男の人が家で嫁さんを殴って、殴られた女の人が山に逃げる、すると今度は大人たちが捜しに行くこともしばしばです」

 男性優位な漁師町では、性差別的な意識も強く、女性の地位は低かった。女性の貧困やDV、女性が満足に教育を受けられない環境を幼いころから目の当たりにしてきた。

 富永さんが12歳のころ、父親がこんなことを言った。

「喜代、おまえはな、医者になれんかったら“女中”になれ」

 同じ年頃の少女たちは、家業の手伝いに追われ、勉強は後回し。大学に進学する女性もいない。このままなら、自分も漁を手伝い、家事と育児に追われ、ときに酒に酔った男に怒鳴られ、まるで“女中”のように一生を終えていくのだろう。

「女はな、“絶対に人に取られないもの”を身につけるしかない」

 この町で女性が経済的に自立することは困難だ。国家資格、しかもその最高峰の医師ならば、酒に酔った男に殴られても奪われることはない─。すぐに父の言葉の意図を悟った。そしてこのひと言が人生を大きく変えた。

「口数は少なかったけど、勉強はできる子でしたね。教科書を見たら、それが“絵”になって、すぐに覚えてしまうんです。ただ当時は医者になるのがどれぐらい難しいことなのか、自分にはどんなハンデがあるのか、そんなこと考える隙もなく、父の言葉は絶対。すぐに“私は医者になる!”と決意しました」

 それ以降、持ち前の負けず嫌いも相まって、富永さんは勉学の道に邁進することとなる。通学バスの中でひとり単語帳をめくる日々。高校生のころ、顔の皮膚炎に悩んだことからも「医師になるなら皮膚科医になろう」と決意したのだという。

 そして先述の「教科書を見ただけで覚えてしまう」という言葉どおり、進学塾にも一切、通うことなく'86年、徳島大学医学部に見事、合格を果たしたのだ。

「同級生からは“塾にも行かず家庭教師もつけていない君が、いちばん安く大学に入ってるよ”と言われました」

 最近では、「子どもを医師にさせるには5000万円かかる」などという説もある。子どもを医師として大成させた生家について話は及んだ。

 富永さんは父母と富永さんと2人の弟、父方の祖母、そして祖母の甥の7人家族。

 なかでも「大正7年生まれの祖母の影響は大きいですね」と富永さんは語る。

 地元の漁師だった祖父は太平洋戦争に出征、ガダルカナルの戦いで命を落とした。祖母は2人の男児を抱えた『戦争未亡人』となった。さらに戦争孤児となった甥っ子を引き取り、3人の男児の子育てを一手に担ったという。

「漁師町で船に乗れない女が1人で暮らしていくには、商売しかない。そう祖母は思ったのでしょう」

 生鮮食品は、足が早く競合も多い。そこで祖母は、菓子類やアイスクリームなど日持ちのする商品に目をつけた。さらに夏場には綿あめ、冬場には漁で冷え切った男たちの身体を温めるたこ焼きが店頭に並んだ。いずれも原材料は日持ちし、仕入れ費用も廉価。女手ひとつでも商売を成り立たせることができる、なんとも見事な経営戦略だ。

「私も10歳から祖母の横でたこ焼き屋の手伝いをしていました。祖母からは“不利な条件の中で、どうやって戦うか?”という英才教育を受けたのだと思います。この大切な教えは、今も病院経営に活かされています」

戦後を生き抜いた祖母の決意

 3人の幼子を抱え、女ひとりで戦後を生き抜いてきた祖母の教えに加え、富永さんには今も忘れられない風景があるという。

「祖母のパンツです。物干しにね、祖母のツギハギだらけのパンツが干してあるんですよ。よその人に見せるものではないから、と穴が開いても布を継ぎ足してはき続けていましたね。子ども心にも“ばあちゃんは、ものを大事にしとんやな”と思っていた反面、さすがにパンツは買えるだろうと思ったのも事実。でもこれが祖母の決意だったのだと思うんです」

 戦後の混乱期には、家族や財産を失って困窮し、身体を売らざるを得ない女性も少なくなかった。そしておそらく彼女たちは、“女”として生きていくために、ツギハギだらけのパンツははいていなかっただろう。ひょっとしたら色とりどりの下着も身につけていたのではないか、そう富永さんは考える。

「あの時代では、その選択も正義だと思います。誰も責められません。かたや祖母は、商売と子育てに振り切った。それが綿のツギハギだらけのパンツだったのだと思います」

 貧困から抜け出すには、誰からも奪われることのない資格を身につけて自立をするしかない。富永さんにとって、医師になることは、いわば生きるための手段でもあった。

「豊かな生活は、選択肢があることだと思ってました。ピンクの口紅もいいけど、濃いローズだって紫色だって選べる、それが豊かさ。よく“自分で選んだことだから”と言う人もいますが、実は違う。選択肢がない人だっている。私も背水の陣から始まったので、それはよくわかります」

 貧しさとは、親の経済力、家柄、経済状況……人は自分が生まれてくる環境を選べない。最近では「親ガチャ」という言葉も聞かれる。

「もし自分がすでに“親ガチャ”で負けているなら、負けた土俵にずっといてはダメ」 

 富永さんは、力説する。

「私の場合、自分の武器は、テストの点数やまじめさだった。まじめといってもいろいろあるけど、“やりきる力”かな。やると言ったらやる。そしてニッチだけど自分が勝てそうな土俵を狙う。たとえ小さくても、まだみんなが目をつけていなくて、自分にも勝算がありそうな土俵を選び抜くんです」

 徳島大学医学部在学中にも富永さんらしいエピソードがある。解剖学の勉強で、文字どおり寝食を忘れて解剖に打ち込んだ。「1日の食事はおにぎり2個」という生活を半年間続けていたところ、脚気になってしまったという。

 目的のために削ぎ落とし、勉学に没頭する富永さんにまた新たな壁が立ちふさがる。

 '93年1月、卒業を控えた医学部6年生の1月、当初の希望どおり皮膚科への入局願いを提出したものの、教授からこう告げられた。

「君は、女だから、うちには入れないよ」

 寝耳に水だった。すかさず1つ上の学年には3人も女性の研修医がいることを必死で訴えた。しかし彼女たちは開業医の娘、なんの後ろ盾もない『漁師の娘』である富永さんは、「医局人事の足手まとい」だと伝えられたという。女性であることを理由に皮膚科入局を断られたのだ。

 '18年には、東京医科大学が入試の点数を操作し、女子受験生らの合格者数を抑えていた問題が取り沙汰されたが、これは、その四半世紀前の出来事である。

「私の6年間を返してくれよ!と叫びたかった」

 経済的格差の次に立ちはだかる性差別の壁。悔し涙があふれた。失意の中、就職活動を続け、なかば成り行きでたどり着いたのが、麻酔科だったのだ。

麻酔科医としてのスタートと挫折。そして―

 当初は麻酔科医としての強い情熱も持てず、ただ忙しくすることで心を埋め合わせることもあった。研修医時代には、転勤で5つの県と6つの総合病院を渡り歩き、'96年には自ら転勤届を出し、日本有数の手術症例数を誇る聖隷浜松病院に赴任する。

「ここで修業したら、最短で自分が成長できる、そう確信しました。聖隷浜松病院では、全国の臨床麻酔科医が平均1日2人のところ、1日15人の麻酔を担当するんです。赴任当初は、あまりのレベルの高さにショックを受けました」

 これまで培った麻酔学の知識がまったく通用しない。次第に追い詰められていき、簡単な点滴すら失敗するように。

「やぶれかぶれになったとき、恩師に“こんなに麻酔をかけてばかりでしんどくないんですか?”と聞いたんです。すると先生は心から“麻酔が好きだから”と言うんです。目からウロコでしたね。

 それまで医者になることは、私にとって食べていくための手段、仕事はツライことでしかなかった。でも仕事を愛して、生きがいとして生きている人がいることを知ったんです。それに先生もスタッフも無力な私を見捨てず寄り添ってくれた。できないなら学び、努力すればいいと気づかされました。恩師との出会いを通し、身をもって仕事への愛を教わりました」

 人さまの役に立ちたい、と心底思うようになった。

「専門医もいない田舎には、今でも適切な医療を受けられない人がいる。うちの叔母も腰が痛いと湿布をずっと貼っていましたが、実は膵臓がんだった。がんがわかったときは末期、すでに手遅れでした。そういった医療格差の中で生きている人のためにも、医学の知識を活かしたい」

 そんな熱い志が富永さんの中で芽生えていた。

 富永さんは聖隷浜松病院に赴任する直前に同業者の医師と結婚をしている。しかし転勤も多い勤務医同士、結婚生活は別居婚から始まった。

 やがてふたりの子宝に恵まれたものの、日中は病院付属の保育園に子どもたちを預けながら、救命救急や麻酔科医の仕事をこなす日々。実母の手を借りることもあったが、単身赴任でのワンオペ育児には限界もあった。

 育児を優先するために、一時は地元の徳島県に戻り、'08年には夫が愛媛県松山市に転勤するタイミングで、麻酔科医のキャリアを捨てた。

「夫婦そろって勤務医は無理、ならば私が開業する」

 なんの縁もゆかりもない土地で、たった1人での完全落下傘開業、それが「富永ペインクリニック」である。'08年、40歳のときだった。

「右も左もわからん土地で開業するなんて、狂気の沙汰だと言われましたよ」

 一般的に医師が開業する際には、それまで勤めていた病院のなじみの患者らを引き連れて開業するのが定石。コネもなければ縁故もない松山市で突如、開業した富永さんの姿は、かつての同僚の目にもさぞかしチャレンジャーとして映ったことだろう。

 最初にクリニックを開いた場所は小さな賃貸事務所ビルの2階。スタッフも看護師と受付、富永さんの3人だけ。

 膝や腰の痛みの治療だけでは、地域に地盤のある整形外科に負けてしまう。そこで富永さんが着目したのが、女性のための頭痛外来だった。

「この分野なら勝てると確信しました。それまでも頭痛なんて市販薬を飲んでおけばいい、もしくは寝具を変えればいいと言われていた時代。当時はまだ医師が本気で医療のメスを入れていなかった分野でしょう。ここに一点集中しようと振り切ったんです

 たとえ小さくても自分が勝てる土俵を探す─祖母から受け継いだ経営哲学だ。富永さんの目論見は的中、開業からわずか3年で年間1万5千人以上の肩こり、頭痛に悩む人を診療(エーザイ社調べ)した。

 この数は、女性院長クリニックでは当時、日本一だったという。

 また'13年には初となる著書『こりトレ』(文藝春秋)も上梓し、1日1万冊を売り上げるほどのベストセラーに。これもこれまでの同一線上にある戦略だ。

「肩こりといったら整体や、マッサージ。それを医者が医学的論拠を用いて、わかりやすく説明したらきっと勝算はある。

 “たかが肩こり”と言われますが、本当に困ってる人たちがいるんです。誰にも相談できず、痛み止めばかり飲んでいて、胃を壊す人だっている。

 私がいつも救いたいのは、身体の調子が悪いのに専門的な医療が届かない地方の人、特に女性たち。そんな人にも自分でできるセルフケアを届けたかった

“なかったこと”にされた痛みへの挑戦

 やがて地上波のゴールデンタイムの番組にもゲストとして登場するようになる。しかし、まだあの赤いメガネ姿の“エッチな”女医はいない。

 '14年にはクリニックを現在の場所に移転。医療格差をなくしたい。“なかったこと”にされている痛みにアプローチしたい─。その思いを実現させるため、次なるステップに挑戦したのだ。

 '19年、当時まだ珍しかったオンライン診療を導入した。だが対面の場合よりも診療報酬も低く、ランニングコストもかかる。それでもなお意義を感じ、診療を続けた。新型コロナウイルスが猛威をふるうおよそ1年前のことだ。

 また加齢による女性ホルモンの減少などが原因で引き起こされる性交痛の相談に応じる「性交痛外来」も開設。さらに併設されたジムでは、高齢者のため、専用のゴーグルをつけて仮想空間内で運動するVRフィットネスも導入。これら先進的な取り組みを続け、「痛み」への多角的なアプローチを続けた。

 しかしそんな精力的な取り組みもコロナ禍の影響は、もはや避けられないものだった。

「がんの手術や血圧の薬なら這ってでも病院に行きますが、ペインクリニックは、真っ先に受診控えの対象になります。さらにスポーツジムなんて、クラスターの温床とまで言われて……」

 併設する3階のジムは自主閉鎖に追い込まれた。しかしそこで転んでも、ただでは起きないのが富永さんである。

「時間ができたので、YouTubeでの配信を始めたんです。ビデオの予約録画すら満足にできないほどの機械オンチなのに(苦笑)」

 撮影は診察室の片隅。プロ並みの撮影機材もなければ、動画編集の技術もない。そんな中で前出のスタッフ、大森さんを突如アシスタントに任命し、動画チャンネルを始動。大森さんは回想する。

「今でこそ1日で1万回以上も再生される動画がありますが、最初は50回再生されたら大喜びしていましたね」

 配信内容も手探りだった。頭痛や肩こりの解消法、ヘバーデン結節への対処法からPCR検査について……医師として、ありとあらゆる医学的知見を繰り出していった。

 しかしこのコンテンツ過多の時代、志だけではバズらない。ときに戦略も不可欠だ。どんな内容が多くの人に届くのか─模索する中でとりわけ反響が大きかったのが、『濡れる身体の作り方』『更年期からの性交痛ケア』といった性やセックスにまつわるテーマの動画だった。

「セックスの話の回だけバズるんです。ならばここで勝負しようと、振り切ったんです」

 目標が決まれば、あとはやり抜くだけ。ただひたすら削ぎ落とし、一点突破の全集中。これぞ富永流の神髄だ。

「性交痛に悩んでいても1人で悩みを抱えて、夫から求められれば、“お勤め”として痛みを我慢してセックスをしている女性もいる。それになかなか自分では、他人に悩みを打ち明けられません。そんな人たちに情報を届けるためには、まずは男性に届けるのが最短ルート。男の裏には女がいるんです」

医療格差をなくすための初志貫徹した強い思い

 動画は再生されなくては意味がない。肌が白くて赤い口紅の女なら、男性が“エロの記号”として捉えるだろう。そうなれば、結果として多くの女性にも情報が届くはずだ。それまでメイクには無頓着だった富永さんだが、百貨店に出向きメイク道具をそろえ、扇情的な文言とともに動画を投稿した。作戦は功を奏した。

 YouTubeに続いて開設したFacebookコミュニティ「富永喜代の秘密の部屋」はメンバーもいまや9800人('22年6月現在)。男性の参加者も多いが、けっしてエッチな話題が目的ではないという。

 いずれも「女性の気持ちを知りたい」「加齢に伴う身体の変化を知りたい」という切実な思いを抱え、富永さんの医学的論拠に基づいた動画や投稿を求めているのだ。

 医師としての実務に経営、作家業にYouTube配信……ともすると傍目にはなんの脈絡もないように見える活動も、「医療格差をなくしたい」「なかったことにされている痛みを治したい」という思いは、初志貫徹している。

『女医が教える性のトリセツ』(KADOKAWA)の書籍制作をオファーした編集者、佐々木健太朗さんはこう語る。

「富永先生のアイデアの豊富さ、判断力の速さ、仕事を進めるスピード感には度々驚かされます。少し前には、YouTube動画に中国語のテロップをつけるなど、その“攻めの姿勢”には見習うべきものが多いですね」

 動画以外にも遠方で来院できない人のために富永さんの豊富なアイデアは、いかんなく発揮される。

 
過去には、手指の痛みに悩む人が自宅で簡単にマッサージができる「ゆび関節ローラー」や、加齢によるデリケートゾーンのトラブルに悩む女性のための化粧品『Dr. ESTRA』を開発した。

 また最近では、フィットネストレーナーがいない人口過疎地域でも体力増強ができるAI搭載のVRフィットネスマシンの開発も手がけた。

 さらに'20年8月、貧困やDV、妊娠・出産のトラブルなどに苦しむ女性の支援のために「日本女性財団」(対馬ルリ子代表理事)が設立され、全国各地の15人の女性医師が名を連ねている。医師は「フェムシップドクター」と呼ばれ、性の被害相談から関連機関との連携まで幅広い支援を行い、そこには富永さんの名前もある。

「女性医師は医師の家系の出身や恵まれた環境で育った方も多い。でもへき地出身の私は、貧困やDVをこの目で見てきた。そういう医師が1人ぐらいいてもよいのでは、と考えて、自ら手を上げました」

 たとえ“エッチな女医”と見られたとしても、なかったことにされてきた人の痛みへの社会的理解が進むなら─今日も富永さんは、赤い口紅をつけ、カメラに向かって笑顔で語りかける。

〈取材・文/アケミン〉

 あけみん ●2003年からAVメーカー2社の広報を経て、'09年にフリーランスに。週刊誌やウェブ、書籍などで執筆。著書に『うちの娘はAV女優です』(幻冬舎)ほか編集協力に『ガチ速“脂”ダイエット』シリーズなど

このニュースに関するつぶやき

  • 他人のせいにしたり、世の中のせいにしないのは凄いと思います。
    • イイネ!1
    • コメント 0件

つぶやき一覧へ(1件)

前日のランキングへ

ニュース設定