楢正剛がトルシエ監督に抱いた第一印象。「馬鹿にされているような。腹立たしく思うことは結構あった」

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2022年06月26日 10:21  webスポルティーバ

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日韓W杯20周年×スポルティーバ20周年企画
「日本サッカーの過去・現在、そして未来」
楢正剛インタビュー(前編)

 日本が初めてワールドカップに出場した1998年フランス大会の日本代表メンバーに、当時22歳の楢正剛(横浜フリューゲルス/当時、以下同)も名を連ねていた。

 しかし、3戦全敗に終わったチームにおいて、楢が大舞台のピッチに立つことはなかった。

「メンバーには入っていたんですけど、それまでに代表の試合は2試合くらいしか出ていませんでしたし、当時はワールドカップのピッチに立つのにふさわしい選手ではなかったと思います。

 ただ、あの舞台はベンチから見ていてもやっぱり輝いて見えましたし、出ている選手たちの目の色も違って見えました。そういう舞台を目の当たりにしたことで、『次は自分が......』という気持ちが強くなったことを覚えています」




 フランスで失意を味わった日本が自国開催の4年後に向けて招聘したのは、当時43歳のフィリップ・トルシエ監督だった。楢は当初、このフランス人指揮官にあまりいいイメージを抱いていなかったという。

「常にヒステリックな感じでしたからね(笑)。日本人の基準がまだ世界に届いてないという意味も含めて、いろんな言葉をぶつけられましたし、ちょっと馬鹿にされているような感じも受けました。腹立たしく思うことは結構ありましたよ」

 しかし、時間が経つにつれ、トルシエ監督の意図が次第に理解できるようになってきたという。

「フォローするような言葉もありましたし、わざと厳しいことを言うようなこともありました。反骨心を促す意味があったんでしょうね。でも、試合中も選手より熱くなるので、逆に僕らが落ち着いてやらないといけないなって(笑)」

 トルシエジャパンのひとつの焦点は、楢と川口能活(横浜マリノス)との守護神争いだった。楢にとってひとつ年上の川口は、フランス大会でも3試合すべてのピッチに立った、いわば格上の存在である。

「能活のほうが先にいろんな舞台に立って経験を積んでいて、僕は追いかける立場にありました。でも、フランス大会が終わってからは、新たな競争が始まるという気持ちでしたね。

 最初はもちろん、向こうがファーストチョイスになるだろうとは思っていましたけど、大きな差があるとは思っていなかったので、ポジションを取ってやろうという想いはありましたよ」

楢に待っていた落とし穴

 その言葉どおりに、当初は川口がリードしたが、2000年に入ると楢の出場機会が増加。同じくトルシエ監督が率いた同年のシドニーオリンピックにもオーバーエイジとして参戦し、指揮官からの評価を高めつつあった。

「どういうふうに自分が評価されているのかはあまりわかっていなかったんですが、トルシエ監督はGKに求めるものがすごくはっきりしていたんです。特にアグレッシブに戦うことを求めてきたので、そういう部分を身につけてアピールしていけば、レギュラーに近づけるという想いはありました。

 オリンピックはオーバーエイジという立場で出場しましたが、オーバーエイジは3枠しかないわけで、チーム力を高められる存在と判断されなければ選ばれないもの。そこで選んでもらったのは、確かに自信になりましたね」

 オリンピック直後に行なわれたアジアカップのメンバーからは外れたものの、この時点で守護神争いをリードしているのは楢だった。

 ところが、順調に見えた楢に、落とし穴が待っていた。

 年が明けて2001年、3月にサンドニで行なわれたフランス代表との一戦で、5ゴールを奪われる屈辱を味わったのだ。もちろん、5失点はGKひとりの責任ではないものの、心象を悪くしたのも確かだった。

「あれはショッキングでしたね。キャリアのなかで浮き沈みは常にあるものですけど、今振り返っても一番大きく沈んだのは、あの2001年の出来事だと思います」

 その試合を最後に楢は、しばらく日本代表のゴールマウスに立つことはなくなった。ポジションを失っただけではなく、代表メンバー入りさえ叶わなくなったのだ。

「あの1年は、ずっと落ち込んでいましたね。取り返そうと思ってやるんですけど、メンバーにも入れなかったので、取り返そうにも取り返せない期間が続きました。Jリーグの試合には出ていましたけど、たとえそこでいいパフォーマンスをしても、充実感はあまりなかったです」

運命の6月4日の心境は?

 11月に行なわれたイタリア代表戦に招集され、久しぶりに日本代表としてプレーするチャンスが巡ってきた。ところが、試合当日の朝に足首をねんざして、挽回の機会をふいにした。

 しかし、この悪夢のなような出来事で、楢の気持ちが吹っきれることになる。

「本当はそこで挽回できればよかったんですけど、気持ち的には一旦リセットできたんです。今年はそういう年だったんだなって。年が明けたら、またワールドカップに向けてやっていこうと前向きになれたんですよ」

 そのポジティブな思考が、楢を蘇らせることになった。海外に移籍したライバルの川口が所属クラブ(ポーツマス)で出番に恵まれない日々を過ごしていたこともあったが、ワールドカップイヤー初戦となったウクライナ戦にスタメン出場すると、1−0の完封勝利に貢献した。

「やっと出番が巡ってきたなかで、アグレッシブな姿勢は崩さないようにプレーしました。ただ、自分のプレーを出せましたけど、これでポジションを取り返せたとは思っていませんでした。実際に本大会の直前まで、どちらがスタメンかは決まっていない状態でしたから」

 メンバー発表直前のキリンカップで3試合のうち2試合にスタメン出場しても、楢は「自信があったわけではない」と振り返る。そもそも、2001年のトラウマがあったから、ワールドカップメンバーに入れるかさえも半信半疑だったという。

 だから、メンバー発表で自身の名前が呼ばれた時は安堵したものの、4年前に羨望の目で見つめていたワールドカップのピッチに立てるかどうかは、本番前最後の強化試合となったスウェーデン戦でスタメン出場しても、まだ確証を持てないでいた。

 そして迎えた運命の6月4日。日韓ワールドカップ初戦のベルギー戦で日本のゴールマウスに立ったのは、背番号12を付けた楢だった。

 スタメンを聞かされた時、楢の心境はほとんど「無」だったという。

「あらかじめ『出る』って決まっていたら、試合までにいろんなことを考えてしまいそうですけど、あの時は自分のことで精いっぱいで、ほかのことは何も考えられなかったですね。でも、それが逆によかったかもしれません。ネガティブなことを考える余裕さえなかったですから」

意外と落ち着いていた初戦

 元来、冷静沈着な男である。

 自国で開催されるサッカーの祭典に、日本列島は異様な盛り上がりを見せていた。移動の際には駅に多くのファンが集結したり、バス移動ではパトカーが先導するなど、選手たちも非日常の雰囲気を感じていた。それでも楢は、浮足立つことはなかったという。

「バスの先導はフランスの時に経験していましたし、警備の人も周りにたくさんいたんですけど、ふだんは普通に生活して、サッカーをやっているだけの人間に対して、えらい大げさだなと(笑)。たしかに非日常の世界でしたけど、それで舞い上がることはなかったですね」

 唯一、心が躍ったのは、メディアでの扱われ方だった。

「テレビでいつも見ている人が取材に来ていたり、自分の名前を言ってくれたりしたのは不思議な感じでしたね。まあ、ミーハーというか、田舎者感覚ですよ(笑)」

 クールな守護神は、日本中が注目するベルギーとの初戦でも、冷静さを失わなかった。気持ちが高ぶりそうな国歌斉唱の時から平静を保っていたという。

「見える景色自体は、普通の代表の試合と変わらなかったですね。何となく高揚するようなところはあるにしても、意外と落ち着いていました。

 それはやっぱり、日本でやっていたのが大きかったと思います。試合をしたことのあるスタジアムでしたし、入場して、整列して、国歌を歌う流れもほぼ一緒。ワールドカップといえども、いつもと同じだなと思いながらピッチに立っていましたね」

 ただ、見える景色や試合に向かう流れは同じでも、ひとつだけ違ったものがある。それは、スタンドから聞こえる大歓声だった。

 GKは試合前にフィールドプレーヤーよりも先にピッチに入り、練習を始める。つまり楢は、日本代表の誰よりも先に、観衆の前に姿を現した。その瞬間に注がれた耳をつんざくような声援に、楢は驚かずにいられなかった。

「本当にあの時の歓声はすごかったです。コーチやほかのGKの選手としゃべろうにも声が届かないですし、話しかけられても聞こえないくらいでしたから。ほかの代表戦でも声が通りにくいというのは経験していますけど、まったく聞こえないという感覚は初めてでしたね。

 試合前にそれだけ(の歓声)だったので、試合中だったらもっと無理だなと。だから、あの時は試合が始まる前に、たくさんコミュニケーションを取っておかなきゃいけないと思いました」

>>楢正剛(後編)につづく>>ベルギー戦後、トルシエ監督に「ケチョンケチョンに言われた」


【profile】
楢正剛(ならざき・せいごう)
1976年4月15日生まれ、奈良県香芝市出身。1995年、奈良育英高校から横浜フリューゲルスに加入。プロ1年目から正GKとして出場し、クラブ消滅の翌年に名古屋グランパスエイトに移籍する。2000年から14年間キャプテンを務めるなどチームの顔として活躍し、2010年にはGK初のJリーグMVPを受賞。2018年シーズン限りで現役引退。J1通算631試合出場は歴代2位。日本代表として1998年から2010年まで77試合に出場し、4度のワールドカップを経験。ポジション=GK。187cm、80kg。

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