イチローより上位で指名された元野手も。中日・根尾昂の転向で思い出す、野手→投手に挑んだ男たち

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2022年06月26日 13:51  webスポルティーバ

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 日本野球機構(NPB)は交流戦を終えた6月21日、野手ながら2試合に登板して無失点に抑えていた中日・根尾昂選手の登録を、外野手から投手に変更することを発表した。




 大阪桐蔭時代の根尾は投手や遊撃手として2度のセンバツ優勝、甲子園の春夏連覇にも貢献。2018年のドラフト会議で4球団競合の末に中日に入団し、内野手としてプロ選手のキャリアをスタートさせた。だが、安定した守備を見せる一方で打撃面では課題が残り、プロ4年間で111試合に出場、打率.172、本塁打はわずか1本だった。

 今季からチームを指揮する立浪和義監督は、守備の負担を軽減し、打撃力強化を目指す狙いで外野へコンバート。しかし開幕後の4月には外野手が充実しているチーム事情などから、遊撃手への再復帰も示唆されていただけに、投手への転向は野球ファンを驚かせた。

「投手のほうが彼の能力が生きる。代打で出ることもあるが、基本は投手でやる」と"投手・根尾"に期待を寄せる立浪監督。根尾もその思いに応えるように、ここまで安定した投球を続けている。

 過去に野手から投手に転向した選手は少ないが、それに挑んだ男たちはどんな成績を残したのか。転向の経緯と共に振り返る。

【野手を経てサイドスローとして開花した"松井キラー"】

 阪神が日本一になった1985年に、清原和博(当時 PL学園)の外れ1位として入団した遠山奨志(当時:昭治)は、1年目に8勝を挙げるなど活躍。だが、その後は左肩の故障などで伸び悩み、1990年には高橋慶彦との交換トレードでロッテに移籍する。

 ロッテでも思うようなピッチングができなかった遠山は、1995年に外野手に転向して再スタートを切ることになった。翌年には、イースタン・リーグで最多安打のタイトルを獲得するなど野手としての可能性を見せたが、1997年は1軍での出場機会がなく、この年限りで戦力外通告を受けた。

 その後、かつての恩師・吉田義男監督が復帰した阪神の入団テストを受けて合格。当初は野手としてチームに加入したものの、首脳陣の意向もあって投手への再転向が決定した。

 古巣復帰1年目の1998年は、最下位に低迷するチームの中で防御率7点台、11試合の登板に終わったものの、野村克也氏が監督に就任した1999年に転機を迎えた。この年にサイドスローに転向し、中継ぎとして63試合に登板。巨人の松井秀喜を13打数無安打に抑えて"松井キラー"と呼ばれるなど活躍し、カムバック賞も受賞した。

 野手を経験したことで肩の痛みが癒えたという遠山は、この年から3年連続で50試合以上に登板。2000年には右サイドスローの葛西稔と、投手、一塁の守備を交互に務める「遠山・葛西スペシャル」も大きな話題になった。腰痛の悪化で2002年に現役を引退するも、ファンの記憶に残る投手となった。

【仰木彬によって投手に転向した3人】

 1994年にオリックス・ブルーウェーブの監督に就任した仰木彬氏は、チームを2度のリーグ優勝と日本一に導く中で、3人の野手を投手に転向させている。

 1人目は、高校通算52本塁打、北陽高校を春・夏の甲子園大会出場に導き、1994年にドラフト1位でオリックスに入団した嘉㔟敏弘だ。

 野手として思うような成績が残せずにいた1997年、外野手登録ながら2試合に登板。2000年には21試合に登板してプロ入り初勝利もマークした。登録が投手に変更された翌2001年には、リーグ最多の70試合に登板して防御率3.21、2勝を挙げた。

 2002年にも33試合に登板するなど、チームの屋台骨を支えた。投手と野手を兼任した期間はわずかだったが、大谷翔平(現ロサンゼルス・エンゼルス)が活躍する前に、NPBで二刀流に挑戦した選手としても知られている。

 2人目は、オリックスの黄金期を支えた田口壮(ドラフト1位)やイチロー(同4位)らと同じ1991年に、ドラフト2位で指名された萩原淳。




 当初は、東海大甲府時代に高校通算25本塁打を放った打撃力に期待が寄せられていたが、プロ入りから9年間でわずか1安打と低迷。そんな中、萩原が練習で投げていた150キロを超える速球が仰木監督の目に留まったこともあり、2000年シーズンの途中に投手転向が告げられた。

 翌年はわずか1試合の登板に終わったものの、2002年は48試合に登板。シーズン終盤には抑えも任され、10セーブ、防御率2.64と安定した投球を見せた。

 その後も、5年連続で30試合以上に登板。2005年には近鉄との球団合併も経験したが、オリックスに残留した萩原は新球種のカーブを取り入れるなど投球の幅を広げ、リリーフの一角として活躍した。2007年にはトレードで日本ハムに移籍。自由契約を経て、2008年から3年間はヤクルトでプレーした。2010年に現役を退くまで、投手としての9年間で13勝15敗、20ホールド15セーブという成績を残した。

 3人目は、九州学院高校時代に投手と野手の"二刀流"で活躍し、福留孝介の外れドラフト1位で、1995年に入団した今村文昭だ。

 野手としては1軍でわずか2安打と、インパクトを残せなかったプロ5年目の2001年に投手に転向。同年は12試合に登板して初勝利をマーク。翌2002年も24試合に登板して2勝2セーブを挙げたが、2003年は11試合に登板して防御率11.00と結果を残せず。その年限りで戦力外通告を受けて引退した。

【快投を続ける根尾の今後に注目】

 日本よりも投手転向の事例が多いアメリカでも、日本球界に馴染みのある助っ人外国人選手が、投手転向を経験している。

 2009年に横浜に在籍して24本塁打を放ったダン・ジョンソンは、2010年にアメリカに帰国し、2016年に投手に転向。かつて野手として在籍したタンパベイ・レイズとマイナー契約を結んだ。ナックルボールを武器に活躍を目指すも、わずか1カ月ほどで自由契約。その後、独立リーグでのプレーを経てドジャースとマイナー契約を結んだものの、メジャーでの登板は実現できなかった。

 現役の選手では、2016年の育成ドラフト1位でオリックスに入団し、3年目の2019年に投手に転向した張奕(チョウ・ヤク)が支配下登録を掴み、1軍で奮闘している(37試合に登板して4勝9敗、3ホールド)。また、日本ハムの2015年ドラフト8位で、2020年に育成選手として再契約した姫野優也も、昨年5月に野手から投手に転向して飛躍を目指す。

 過去に成功例もあるが、ドラフト1位の内野手である根尾の4年目での投手転向には、賛否さまざまな声が上がっている。根尾自身はそんな周囲の状況をものともせず、堂々としたピッチングを披露。投手転向を発表して初の登板となった6月19日の対巨人戦(バンテリンドーム)では、巨人の4番・岡本和真を空振り三振に仕留めるなど、150キロを超える速球を武器に好投を続けている。

 投手に転向した選手として、球史に名を残す成績を収めることができるか。投手・根尾の挑戦に注目したい。

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  • 嘉勢と今村はエースで4番だったからな。萩原はテイクバックの小さな野手のフォームで豪速球を投げる珍しいタイプだったわ。
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