山本昌邦が振り返る20年前の長い夜。2002年日韓W杯の日本代表メンバーはこうして決まった

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2022年06月28日 11:01  webスポルティーバ

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日韓W杯20周年×スポルティーバ20周年企画
「日本サッカーの過去・現在、そして未来」
山本昌邦インタビュー(1)

 4年に一度のワールドカップに臨む日本代表メンバーの発表は、いつも大きな注目を集める。サッカーファンならずとも多くの人々が予想を展開。当事者は気が気ではないだろうが、第三者として見ている分には結果はどうあれ、相当に盛り上がること間違いない。

 今から20年前、2002年ワールドカップ日韓大会の時もそうだった。

「結論を言えば、(本大会のメンバーが)決まったのはノルウェー戦が終わった夜です。監督とコーチ3人、それと通訳の計5人だけで会議をして、そこですべて決まりました」

 そう回想するのは、当時日本代表コーチを務めていた山本昌邦である。




 2002年5月14日、日本代表はオスロでノルウェーとの親善試合を行なった。それは、ワールドカップメンバー発表前の最後のテストマッチだった。

 このヨーロッパ遠征には、26人の選手が帯同しており、フィリップ・トルシエ監督曰く、「(本大会の)メンバーの99%は、このグループにいる」はずだったが、最終テストとなる試合に0−3で敗れたことが、危機感を高める結果につながったのかもしれない。選手選考は長時間を要し、会議が終わる頃には「もう外がすっかり明るくなっていた」と、山本は記憶している。

「ホテルの部屋で模造紙を広げて名前を書き入れ、『こうだったらこうなるよね』と試合のシミュレーションをしながら選んでいきました。(1998年の)前回大会で発表前にメンバーが(マスコミに)漏れたことがあったので、それだけは絶対に阻止しようということで、会議が終わったあとは自分のノートにメモしたもの以外、一切部屋から外へは持ち出さないことを徹底しました」

 そして迎えた、メンバー発表当日の5月17日。都内のホテルに詰めかけた報道陣を前に姿を現したのは、日本サッカー協会強化推進本部副本部長、木之本興三だった。

 自らの言葉で選考理由を説明しなかったトルシエ監督への批判もあったが、その是非はともかく、発表の模様がテレビで生中継されるなか、木之本が読み上げた23人のなかには、"サプライズ"とも言うべき意外な名前が含まれていた。

 いずれも直前のヨーロッパ遠征には参加していなかったベテランふたり、当時31歳の秋田豊と同34歳の中山雅史である。

 山本が振り返る。

「秋田と中山が選ばれたのは、ひと言で言えば、大会中にはいろいろなことが起きるからです。

 彼らのことは、実力も特長も人間性もわかっている。なので、チームが若手に切り替わっていくなかで、必ずしも常に呼ばれていたわけではありませんが、言い換えると、呼ぼうと思えばいつでも呼べる選手でした。

 2002年に入って、何度かヨーロッパ遠征をするなかで、やっぱり強豪相手に結構やられて(負けて)しまう。そうなった時に何が大変かというと、ピッチ外の環境作り。目に見えない雰囲気がすごく重要だったんです。

 日常の雰囲気が悪くなりそうな時でも、チームのために仕事をしてくれるのは誰なのか。それを考えたとき、彼らの力が必要だったということです」

 折しも日本が急激に力をつけ、世界に打って出ようとしていた時代である。

 ワールドユース選手権(現U−20ワールドカップ)には、1995年から2001年まで4大会連続で出場。1999年大会では準優勝という快挙を成し遂げていた。また、ワールドユースで自信を深めた選手を中心に臨んだ2000年シドニー五輪では、ベスト8進出を果たしてもいた。

 だが、ワールドカップはそれまでの年代別世界大会とは、規模も注目度も、まるで異なる大会である。山本が続ける。

「トルシエ監督は若手の才能に目をつけ、たくさんの若い選手を呼んでいましたが、彼らは経験がなく、チームの雰囲気に気を配る余裕もない。ましてワールドカップともなれば、どれほどのプレッシャーがかかるかもわからない。いろんな情報も入ってくるし、外圧がすごいですからね(苦笑)。

 当時のワールドカップメンバーの平均年齢は、だいたい25歳。20代前半の選手が半数近くを占めていましたから、経験があってチームのためにリーダー的な仕事をしてくれる選手を、トルシエ監督も求めていました」

 はたして、"サプライズ選出"が"納得の選出"に変わるまで、さほど時間はかからなかった。

「本当に彼らはいい仕事をしてくれました。そもそも自分は落選すると思っていたところから選ばれているから、(日本代表に)来た時のモチベーションがすごかったです。

 結局、強いチームを作るためには、サッカーの技術、戦術だけでなく、それにプラスして結束できる力が必要で、中山のようにベンチにいても『いつでも100%でピッチに行くぜ!』みたいな選手は重要なわけです。

 彼らは(前回大会で)ワールドカップの悔しい経験もしているので、若い選手の相談役にもなれる。いわば、彼らが最後のピースでした」

 世間を驚かせた、20年前のサプライズ選出。山本は、それを事前に知っていたわずか5人のうちのひとりだったことになる。

 しかしながら、メンバー選考の最終決定権は、実のところ、トルシエ監督ひとりに委ねられていた。

 ノルウェーでのスタッフ会議のあと、トルシエ監督は本大会で対戦するベルギーの試合を視察するため、日本に帰国するチームと離れ、フランスへ移動。最終的なメンバー23人は公式発表時間の30分前に、トルシエ監督から日本協会スタッフにファックスで伝えられることになっていた。

「議論をし尽くして選んだメンバーでしたが、トルシエ監督が最後の最後に『やっぱりオレはこう考えて、この選手を入れると決断した』ということもあるかもしれない。そんなことをまったく考えなかったわけではありません。それは監督の権限だし、僕自身は全然ありだと思うから。

 なので、僕もテレビの前で固唾を飲んでメンバー発表を見ていました」

 さて、答え合わせの結果やいかに。

「会議で決めたメンバーと変わっていませんでした。『オレたちも案外、信用されているんだな』って思いましたね(笑)」

(文中敬称略/つづく)

山本昌邦(やまもと・まさくに)
1958年4月4日生まれ。静岡県出身。国士舘大学卒業後、JSLのヤマハ発動機(ジュビロ磐田の前身)入り。DFとして奮闘した。29歳の若さで現役を引退。指導者の道に進んだ。とりわけ、協会のナショナルコーチングスタッフとして手腕を発揮。U−20代表のコーチ(1995年、1999年U−20W杯※当時ワールドユース)、監督(1997年U−20W杯)、五輪代表のコーチ(1996年アトランタ五輪、2000年シドニー五輪)、監督(2004年アテネ五輪)、A代表のコーチ(2002年W杯)を歴任。すべての世界大会に出場という、輝かしい成績を残した。現在は、指導者、解説者として奔走。

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