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政府が6月7日に発表した「経済財政運営と改革の基本方針2022 」、いわゆる「骨太の方針」に、「国民皆歯科健診の具体的な検討」の一文が明記されました。実現した場合、健診は義務化されるのか?すべて公費でまかなわれるのか?など、ネットでも話題になっています。若林健史歯科医師は、「歯科の病気を予防することで、歯科以外の医療費が削減できた研究報告がある」と話します。
【チェックリスト】その症状、歯周病?* * *
「骨太の方針に、国民皆歯科健診が入っている」
ニュースの一報が入った直後からは、歯科医師の間で、LINEやメールが行きかいました。これまで日本歯科医師会を中心に、健診の重要性を啓発してきましたが、政府の反応はかんばしくなかったと聞いています。
それが、いきなり、数年後の実現に向けて検討を始めるというのですから、驚きです。実際、仲間の歯科医師たちからは、「驚いた。でも、実現したらいいよね」というコメントが多く、これは私も全く同感でした。その後、ネットの反応などから、このニュースに対する一般の方の関心が高いことを知りました。ニュース番組からも出演依頼が来たのです。
ネットには、「歯医者が健診を歓迎しているのは、患者がたくさん来ればもうかるからでは?」
といったものもありました。
確かに、これは一部にはあるでしょう(否定はしません)。でも、そんな理由ではありません。そもそも、予防的処置は治療よりもかかる費用は安価になるでしょう。それでも、歯を失い、かめなくなるつらさを訴える患者さんを長年、見てきた私たちからすれば、そうした人が一人でも減ることはうれしい。これが本質です。
国民皆歯科健診はどのようなものなのか? 検討事項にとどまる今の段階では、具体的な内容はわかりませんが、イメージ的には、すべての国民あるいは、対象となる国民を対象に、年に1回など定期的に歯科健診を実施する仕組みです。目的は予防と早期発見。自覚症状がない段階から健診を受けてもらうことでむし歯や歯周病、あるいは、オーラルフレイルなど口の病気を予防し、病気が見つかったら、早い段階で治療をする。これにより、大事な歯や口の機能を守っていこうというものです。
歯科先進国といわれるスウェーデンでは、成人に歯科健診が義務づけられており、受診を怠っていると関係機関から電話がきて、催促をされると聞いたことがあります。
日本では80歳になっても自分の歯を20本以上残そうという国民健康運動、「8020(ハチマルニイマル)運動」に取り組んできました。結果、2016年にようやく、5割の人が目標を達成しましたが、スウェーデンではすでに8割以上が達成しているそうです。
日本人が歯の予防にあまり熱心でないのは、公的な保険が充実しているからではないかと言われています。歯の治療のほとんどには、健康保険が使える。安くすむので、発症してから治療を受ければいい、となるわけです。
一方、こうした話題になるときにしばしば比較されるのが、アメリカです。アメリカ人は治療ではなく、予防のために歯科にかかることが一般的で、セルフケアにも熱心です。ライオン(株)の調査(2014年発表)によると、デンタルフロスの使用率は約60%、日本の19.4%とは比較にならないくらい多いのです。背景には歯科治療は日本と違い、すべて自己負担ということがあります。例えば進行したむし歯におこなう歯の神経の治療を受けるのに1本10万〜15万円くらいかかります。
政府がここにきて歯の病気の予防に前のめりになっているもう一つの理由は、歯の病気がからだの病気に深くかかわっているというエビデンス(科学的根拠)がたくさん出てきたこともあると思います。
問題となる歯の病気の代表は、このコラムでも、繰り返しお話ししてきた歯周病。日本人の約8割がかかっている病気です。心筋梗塞や脳梗塞、糖尿病、肥満や誤嚥(ごえん)性肺炎、認知症等、歯周病が引き金になって起こる数多くの全身病が明らかになってきています。
口の中の血管に入った歯周病菌が全身の血管から、さまざまな臓器にまわることが原因と考えられています。
からだの病気のうち、特に糖尿病についてはわかってきたことがたくさんあり、重症の歯周病があると糖尿病が悪化すること、逆に糖尿病があると歯周病が悪くなることがわかっています。
歯周病を治療してもなかなかよくならない患者さんに内科で診察を受けてもらったところ、糖尿病が見つかったケースなども多くの歯周病専門医が経験しています。
また、認知症においてはアルツハイマーで亡くなった患者さんの脳から、歯周病菌に関連する物質が見つかり、この物質を抑えて認知症対策に応用するために薬の研究もおこなわれています。
このほか、ED(勃起不全)やNASH(非アルコール性脂肪性肝炎)、大腸がんや食道がん、すい臓がんなどのがんが歯周病菌と関連しているという報告も出てきています。
国民皆歯科健診が普及し、歯周病になる人を減らすことでこうしたさまざまな病気の減少につながれば、国民の健康に大きく寄与するのではないでしょうか。さらにこれがうまくいけば、医療費削減に役立ちます。とても意味のあることだと思います。
果たして歯科の病気を予防すれば、本当に医療費が削減できるのか? 実はこのことはある研究から証明されています。
自動車部品メーカーの国内最大手企業として知られるデンソーの健康保険組合による調査です。
同組合では被保険者の医療費を詳しく分析しました。その結果、歯周病にかかっている人では、歯科以外の病気に使われた医療費が、そうでない人よりも、平均1万5800円多いという結果が得られたのです。このうち、多くの人が糖尿病で治療を受けていたこともわかりました。60歳以上の年齢に限定すると、この差は3万円前後まで広がっています。
一方、デンソーには複数の事業所がありますが、定期的な歯科健診を実施していた事業所では、医療費が5年間で最大23%も減少したのに対し、実施しなかった事業所では24%増加していた、という結果も得られています。
国民皆歯科健診は費用面から、また、すべての国民に実施した場合、歯科医師や歯科衛生士が足りるのかなど、さまざまな課題が出てくるでしょう。歯科医師の一人として、実現を期待しながら、動向を見守りたいと思います。