福士加代子が振り返る、笑顔で走り続けた23年の陸上人生「世界レベルで戦えているのが面白くて」

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2022年06月30日 16:31  webスポルティーバ

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福士加代子インタビュー(前編)

 2022年1月30日、福士加代子さん(ワコール)は大阪ハーフマラソンで現役を引退。高校から走り始め、オリンピック出場は4回。5回出場した世界選手権ではマラソンで銅メダルを獲得した。

どんな時でも笑顔を絶やさず、明るく女子長距離界を牽引してきた福士。引退レースから約半年が経ち、改めて現役生活を振り返るとともに、これからの女子中長距離に期待すること、自身の今後について聞いた。




「15kmまでは調子がよかったのですが、最後は必死でした。フラフラなってきて、初マラソンの時のように転ぶんじゃないかと思って......。久しぶりに脚にくるくらいに疲れて、長居の公園に入ってからは、途中で『頑張ってください』と声をかけてくれた人たちすべてに抜かれたみたいな感じで(笑)。『アレッ、私の引退レースは、もっと颯爽と走る予定だったけどな』とも思ったけど、『まあいいか』って。見ている人たちには『また転ぶんじゃないかな』と思われていたけど、最後のほうは『らしいね』と言ってもらえたから、よかったです」

――では、陸上人生を振り返っていきましょう。競技は、五所川原工業高校時代にスタート。高校3年生ではインターハイにも出ましたが、この頃は何がモチベーションでしたか?

「高校時代は恩師のお陰で、高校生の全国合宿に参加できて、藤永佳子(諫早高→筑波大→資生堂)や大平美樹(松山商高→三井住友海上)など、当時の高校のトップレベルの選手に会えました。練習ではみんなすごく強いけど、練習以外でしゃべったら面白くて。『また会いたいね』と言ったら『次はインターハイでね』と言うから、『これはやらないといけない』と思って、そのために頑張りました(笑)。本番はギリギリの予選通過だったけど、みんなと会うのが目的だったので大満足でした。

 記録はまったく持っていないけど、合宿の練習ではとにかく強い選手についていったので、『面白いやつがいる』とワコールのスカウトマンの目にとまったのかもしれません」

――そのワコール入社は永山忠幸監督から直接スカウトだったと言われていましたが、実際は?

「永山監督ではなくスカウトの方に誘ってもらったんです。最近本(『福士加代子』/いろは出版)を出したんですが、その取材で永山監督が『僕は教える自信がなかったし、みんなが言うようないい選手なら、小出義雄さんのところにいけばいいと思っていた』と答えていて、『そうだったんだ』とそこで初めて知りました(笑)。監督も指導を始めたばかりの時期だったので、お互いに探りながら、『一緒に成長しよう』という感じでした。その思いがあったからこそ、ここまでこられたと思います。本当にいい出会いでした」

走るのを辞める→世界へ

――入社2年目の2001年からは、3000mと5000m、1万mで日本ジュニア記録を更新し、12月の全日本実業団女子駅伝では3区で16人抜きの区間賞を獲得。ここで一気に伸びましたが、2年目の成長は予想していましたか?

「正直、入社した時は1年で辞めると思っていました。高校時代は楽しかったけど、入社してすぐに『アッ、これは楽しくないな。気持ちが持たない』と思って。案の定、半年くらいで辞めそうになりました。ワコールは正社員採用だったから、『これは就職に切り替えたほうがいいな』と思ったんです。

 でも、そう思っていたらレースで勝ち始めて、駅伝に出たら会社の人に褒められるし、いろんな大会で海外に行くということにつながっていって、『これは面白いかも』みたいになっちゃって。その連鎖が続いて04年のアテネ五輪までいっちゃいましたね。それまでは陸上をやってどうなるとも考えていなかったし、五輪へ行くことも『まさか!』としか思っていませんでした」

――入社してからも「走るのが楽しいからやる」という気持ちが強かったんですか?

「そうです。こんなに強くなると思っていなかったけど、ワコールに入って徐々にですね。チームメイトがよかったので『一緒に駅伝に出て勝ちたい』とか。大会に出ると友達も増えるので『あの人に会いたいから次の大会も行こう」とか。それに試合でも気になる人がいたら、『最後まで戦わないと仲良くなれない』と思って頑張って。それで渋井陽子さん(三井住友海上)とも、小まりさん(ノーリツ)とも仲良くなって。あの人たちのエキスを全部もらいました(笑)」

――そこからはヨーロッパ遠征で3000mと5000mの日本記録を出すなど、世界と戦える選手になっていきましたよね。

「日本記録も1回目や2回目はよかったけれど、もう1回というのは苦しかったですね。それまで以上のことをやらなければいけないので。毎年『辞める、辞める』と思っていたけど、結局辞めるタイミングを見失った感じです(笑)。とにかくキツいことのほうが多かったので、最初から終わり方を考えていて、バンッといい結果を出した時に、みんなに『もうちょっとやりなよ』と言われて終わる感じがいいかなと想像していたんです。

 だから2004年のアテネ五輪は『これで決めて引退!』と思って臨んだけど、直前の足の故障でトップに2周抜かれて結果は26位。「これじゃ終われない」となって。日本記録を出したら辞められるかなとも思ったけど、今度は1万mの記録が出なかったので、そのあたりが一番苦しかったかもしれませんね。

 そこからマラソンにも挑戦したら、初レースはヘロヘロになって何回も転んでしまって。『これはやばいぞ、もう1回マラソンをやったほうがいいのかな』みたいになっていきました。そのうち辞めるとかを考えないで、『結果を残して、やれるだけやったほうがいいのかな』という気持ちに切り替えて今になりました」

トラック競技で感じた弱さ

――トラックレースで記憶に残っているのはどのレースですか。

「やっぱり、5000mで初めて14分台を出したレース(2002年のベルギーの大会)ですね。もうひとつは、3位でしたが、渋井ちゃんや赤羽有紀子さん(ホクレン)と競り合って31分10秒台のレースをした08年日本選手権の1万mです。今映像を見ても、あの時を思い出して面白い。日本選手権のトップを争う緊張感というのはやっぱり一番面白いです」

――当時は日本記録を出しても、さらに上に行きたいという気持ちが強かったですよね。

「やっぱり世界大会やヨーロッパ遠征を経験して、『日本人って弱い!』と感じてしまって。5000mでも14分は当たり前で、15分10秒でも予選を通過できないくらいだったし、しかもラストも速くて『ダメだ、こりゃ』みたいな(笑)。それを一度体験しちゃったので、常にそこを目指していました。でもそれは悔しいというより、そのレベルの舞台で戦えているのが面白くて。『同じ人間なのだから、どうしてもあのレベルに行かなきゃいけない』って、いろいろ考えたりやったりすることも面白かったです」

――トラックレースでは、3大会出たアジア大会で金1銀2銅1を獲得し、アジア代表で出た06年ワールドカップでは5000mで3位になっていますが、五輪と世界選手権では09年世界選手権の1万m9位が最高。今までの話を聞くと、もしそこでメダルが獲れていたら辞めていたかもしれませんね。

「そうですね。でもどの大会も面白かったんです。特にヨーロッパ遠征は、観客の盛り上がり方も違って、試合の雰囲気も違って、心から『楽しい!』って思っていました。そこでは最低15分台ひと桁で走らないと通用しないから、そのために頑張っていたような感じです。感覚的にはメジャーリーグみたいな感じですかね。

 だから日本選手権に出ると『アレッ、寂しすぎる。地方大会かこれ?』みたいな(笑)。でも国内で唯一すごかったのは、大阪の世界選手権(07年)ですね。観客の地響きでトラックが揺れていたのを覚えています。私は主要な大会前にいつもケガをしていて、大阪もギリギリで間に合ったので、神がかっていたような感じでした」

――盛り上がりましたよね。そんなトラック競技を経て、2008年の大阪国際女子マラソンで初マラソンに挑戦しました。

「トラックは本当に楽しかったです。結果がすぐ出るから練習のやりがいもあるし、ダメなところがわかったら『ここを直せばもっとよくなる』とタイムも伸びました。得るものがいっぱいあったけど、マラソンになってからは苦労しましたね、『答えはどこなんじゃ、これは』って(笑)」

(後編:「自分のマラソンがわからなかった」>>)

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