写真 赤ちゃんが大きくなったときのために、看護師たちが生まれた頃の写真を撮りためてアルバムを作った(写真=三宅玲子) |
女性の妊娠・出産を知られたくない権利が脅かされている。熊本市の慈恵病院が独自に受け入れている「内密出産」をめぐり、自治体が社会調査を実施したことで、母親の身元情報にたどり着く可能性がある。内密出産の当事者であるはずの女性の権利は、なぜ軽視されるのか。AERA 2022年7月4日号の記事を紹介する。
【データ】虐待で亡くなる子どもの年齢、一番多いのは?* * *
米国をはじめ、国によっては中絶の是非は現在も論争が続いている。見方によっては「殺人」ともされる中絶を認めている日本で、子どもを殺さずに産んだ女性が、赤ちゃんの幸せを願って養親に託そうという内密出産は認められていない。
見えない壁となっているのは、出産した女性はその時点で母になると定めている民法だ。生まれた子と親の関係の規定は、女性と男性とでは非対称なのだ。弁護士の石黒大貴氏の説明はこうだ。
「男性の場合、法律婚をしているなら婚姻中に生まれた子どもは父の子、婚姻外で生まれた子は認知が必要。それに対して、女性の場合は、分娩(ぶんべん、出産)の事実によって認知を待たずに親子関係が発生する、とされています」
だが、女性は産む機能を授けられているものの、「産む性=育てる性」では決してない。母性神話が女性たちを苦しめてきたことは、科学者や社会学者たちの研究で明らかだ。
内密出産の法整備に国会議員で唯一取り組んできた国民民主党の伊藤孝恵・参院議員は、2月と5月の参議院予算委員会で質問に立った。伊藤氏への答弁で、岸田文雄首相はガイドラインを速やかに発出するつもりだと答えたものの、後藤茂之厚生労働相は「法整備は当面必要としない」と述べた。
慈恵病院への内密出産希望者の来院は続いている。国のガイドラインが作成されるまでの間は、現行法に定められた社会調査は行われるだろう。母親の情報を児相が把握する可能性は高い。母親の「知られたくない権利」が脅かされる状況はしばらく続くことになる。
慈恵病院が内密出産の仕組みづくりでモデルにしたのは先行するドイツのやり方だ。
「ドイツのベビークラッペ(赤ちゃんポスト)には、赤ちゃんの殺害遺棄を減らした成果が見られないとして子捨てを助長するのではないかと批判が集まりました。そして内密出産への取り組みが始まっていくわけですが、2014年5月に内密出産制度が施行され、19年4月までの5年間に570件の内密出産がありました。制度ができると捨て子の呼び水になるのではとの批判もありますが、少なくとも匿名型の出産と捨て子は減少したと評価されています。日本もガイドラインでお茶を濁すのではなく、法整備をして根本的に取り組むべき問題です」(法学者の床谷文雄・奈良大学文学部教授)
ドイツの内密出産制度を研究する柏木恭典・千葉経済大学短期大学部こども学科教授は、歴史背景の違いを知っておくことが大事だと話す。柏木氏によると、ドイツではホロコーストの反省から戦後は生命の尊厳が社会の最優先課題となり、中絶を巡って論争が起きたという。そして中絶を食い止めるためにまず「妊娠葛藤相談所」という相談センターが創設された(現在ドイツ国内に約1600カ所)。それでも新生児遺棄や殺害をする人が残るため、次に登場したのが匿名出産、赤ちゃんポスト、そして内密出産という流れだ。
「ドイツでは社会全体の議論と要請によりこれらの仕組みが検討され、つくられてきた。それに対し、日本では深刻な少子化に直面しながら議論がまだごく一部の人たちの間でしか行われておらず、妊娠葛藤や緊急下の妊婦への関心は乏しい」(柏木氏)
日本で内密出産に関する取材をしていると、行政関係者は必ず「赤ちゃんの福祉のために」と言う。子どもの福祉が大切であることは言うまでもないが、内密出産の当事者は女性と赤ちゃんの二者であるはずなのに、女性はいつも蚊帳の外にされている。
海外の内密出産制度を調査している姜恩和・目白大学人間学部准教授は、海外に比べて日本は母子一体の社会的価値観が強いことが影響しているのではないかと話した。
「『女性は赤ちゃんを産んだらお母さんになる』という価値観が社会に浸透している。母親が育てなくてはならないという価値観に支配された社会では、産んだ女性が母親の役割を引き受けないという選択を認めていない」
姜氏は、江戸時代の日本社会では捨て子が地域で育てられることもあったが、近代家族の定着とともに家族の中に関係が縮んでいって、子育てが母親に集中していったと指摘する。
「実母が出産当日に赤ちゃんを殺害してしまうゼロ日殺害遺棄事件が連日のように起きています。子どもだけでなく、女性が置かれている状況そのものに目を向けて考える必要があります」
ドイツとは歴史や背景の異なる日本では、日本型の内密出産制度を模索することになるだろう。そのとき、子どもと女性は等しく当事者だ。内密出産を選択した女性には「出産を知られたくない権利」がある。どのような形であれ、産む性の「知られたくない権利」を担保することは内密出産が成立する条件だ。(ノンフィクションライター・三宅玲子)
※AERA 2022年7月4日号より抜粋